Ⅲ◆裏切りbut◆

 ◆


 高二の夏休みも充実していた。いつもの六人でお祭りや花火大会、都会の音楽フェスにも出かけた。高一の夏休みと違う点は、海やプールと言った水遊びにいけなかったことだった。上手いこと、生理や体調不良を理由にして断った。さすがに、この痕だらけの身体では水着にはなれない。水遊びにいって水着にならなければ明らかに怪しまれるし、何よりどの場所にいくと言ったときにも、彼氏は激昂した。海やプールは特に露出が高くなる場所で、一夜目当ての男も多い。きっといきたいと言えば、いく前といったあとに、普段以上にきつめの暴力を受けただろう。


 もうひとつ違ったのは、やはり杏鈴あんずと言う存在が増えたことだ。生物室にいけば会えるから、一応連絡先は交換していたが、今まで一度も電話やメールをしたことはなかった。


 ただ何となく、元気かな、と思って電話をかけたら繋がった。話しの流れで夏休み中、一日だけ会うことになった。無論、場所は生物室だった。


「何でここ?」

「先生が私服でもいいよって」

「なんつーか、そう言う問題じゃなくね? つか、まじ生物の先生をとりこにしすぎ」

「あの先生が勝手にとりこになってくるんだもん。仕方なくない?」


 ぶーんと懸命に大型の扇風機が首を振ってくれているが、残念ながら流れてくる風は生温かい。くる途中で買ってきた清涼飲料水のペットボトルは一瞬で空になった。集合場所をここでよいと軽く了承したのが間違いだった。杏鈴は見た目の通り、あまり汗をかかない体質らしい。気だるげな表情でぱたぱたとあたしをうちわで煽ってくれた。


「ちょっと、アイス買ってくるわ」


 あたしは購買に向かった。部活動があるため夏休み中でも開いているのだ。嬉しいことにその辺のスーパーやコンビニより、二、三十円ほど安く売ってくれている。氷入りのガリガリとした食感のするソーダ味のアイスバーを二本買った。うち一本は、うちわで仰いでくれた杏鈴へのお礼だ。


「たっだい……」


 生物室へと戻り、何の警戒もなく戸を開けて後悔した。そもそも戻ってきて杏鈴以外に人が増えているなんて思いもしなかったし、その人の顔を見て硬直してしまった。杏鈴と向かい合って立っているのはBだった。


 どうしてここに?


 タイミング的に用件は済んだところであったようで、Bは気まずそうにしながら、あたしが立ちはだかっていないほうから出ていった。


「まじびっくりしたー。どういう状態? いや、状況?」


 買ってきたアイスバーを一本、杏鈴へ手渡し、あたしは問うた。


「梨紗ちゃんが出ていった直後にきたの」

「いきなり?」


 ピリと包装袋を破りながら杏鈴は頷いた。


「やっぱり好きだから、ヨリを戻してくれないかって」

「えっ」


 アイスバーを齧ろうとして、あたしは硬まった。すぐに浮かんだのはAの顔。Bが杏鈴にそう迫ってきたと言うことは。


「もしわたしがOKしてくれるなら、今付き合ってるAさんとは別れるって」

「はっ? 何それ。保険かけてんじゃん」

「そう。だから言った。ヨリを戻す気は一切ないし、Aさんにも失礼だよって」

「ごもっともだな」


 Bがそんな優柔不断な男だったとは。何よりAと別れることにならなくてよかったと、あたしは心の底から戻った。万が一、杏鈴がBとヨリを戻したら、今度こそAは嫉妬に狂ったに違いないし、グループの性質上、Aを傷つけた杏鈴を許さないとなることも容易く想定出来た。一難が訪れず去ってくれて、本当によかったと思った。


 そのあとの時間は適当にだらだらと他愛のない会話を交わしながら過ごした。いつも髪の毛を巻いてくれるお礼に、あたしは家から持参したマニュキュアで杏鈴の手の爪を塗ってあげた。杏鈴がしているネックレスのハート型のトップの中に入っている青色の花びらに近しい色を選んできたと伝えると、珍しく杏鈴はパアッと顔を明るくした。


 爪を塗るのは幼い頃から好きだった。カラフルな手先を見ると楽しい気持ちになれたし、上手くなりたくて定期的にカラーバリエーションも増やして塗り変えていたのだが、最近は爪の色の変更でさえ、何故か他の男の影を疑われ、彼氏が暴力的になるきっかけのひとつとなってしまうこともあり、あたしの爪はずっと同じクリーム系の黄色になっていた。


 お礼を、と言いつつ自分のために塗りたかったのかもしれない。白くて細い杏鈴の手先を自らの手でより美しく出来ることに、いつも曇り空の心が、久しぶりに晴れた気がした。


「すごーい。梨紗りさちゃん塗るの上手だね。自分でも塗っても凄くむらになっちゃうから、こんなに爪が可愛くなったの、生まれて初めてだよ」


 マニュキュアが渇いたあと、両方の手を顔の前で広げて爪を見せてくれた杏鈴の笑顔は眩しかった。こうやって生物室で会うようになってから初めて見せてくれた表情だった。


 あたしのスマホに彼氏から会いたいと連絡が入ったのをきっかけに生物室を出た。昇降口で靴を履きかえ外に出る。日差しもここにやってきたカンカン照りの日中よりは、いくばくかましだ。ぐっと伸びをしたあたしの隣に杏鈴は並んだ。雲ひとつない空は、絵に描いたようなオレンジ色に染まっていた。


「あ、あたし、彼氏ここまで迎えきてくれるんだ。だから、ここで」

「えいっ」


 あたしが帰宅を促したと同時、杏鈴かららしくないポップな声が漏れた。たった今隣に並んでいた杏鈴は、あたしの背後に移動していた。夕日に映し出されたあたしの影を両足で踏んでいる。


「へへっ。梨紗ちゃんの負けー」

「はっ? ずるいんだけど。このっ」


 きゃっきゃっと声を上げ逃げた杏鈴をすぐに捕まえた。あたしのほうが運動神経は一枚上手。彼氏の車が到着するまで、たったふたりの影踏み鬼は続いた。到着した彼氏は杏鈴と軽く会釈を交わすと、運転席から降りて助手席を開けてくれた。あたしが彼氏の車に乗り込み手を振ると、杏鈴も控えめに手を振り返してくれた。


 考えれば、杏鈴なりにあたしを気にしてくれていたが故の行動だったのかもしれない。あれ以来、痕のことについて聞いてくることはなかったが、あたしの彼氏がどんな人なのか確認してみたいと思っていたのかもしれない。生物室で他愛のない会話を交わす関係として。


 この日の夜は珍しく殴られることはなく、久しぶりに身体の全てが優しく愛された。満たされたあたしは彼氏の腕の中で安心して眠った。だからいけなかったのかもしれない。杏鈴と楽しく過ごしたせいもあって、Bが生物室に現れたことなんてすっかり忘れてしまったんだ。




 ◆




 夏休みが終わり二学期が幕を開けた。放課後は、いつもの六人で、一年生の二学期から始業式の日の景気づけイベントとして恒例化しているカラオケにいく約束をしていた。


 一組に向かうべく廊下を歩いていたその時だった。


如月きさらぎさん!」

「んっ、あ……はい?」


 突然声かけてきたのは知らない素朴な雰囲気の男子生徒だった。誰だか全くピンとこなかったため、思い切り顰め面になっていたらしい。男子生徒は「急にすみません」と謝罪してから一年生だと名乗ってくれた。


「何の用事?」

「あの、あの、さ、笹原ささはら杏鈴さんに、伝言をお願いしたくて」

「ちょっと待って、何であたしが杏鈴と関わりあるって知ってんの」

「偶然、夏にお見かけしたんです。生物室に、お二人でいらっしゃるの」

「あ、そうなんだ。で?」


 Bのことを懸念してわざわざ杏鈴と関りが出来たことを、Aを始めとするグループの友達には伝えていなかったが、別に隠したいと思っているわけではなかった。それに自分の基本性格は人に深い興味を示さない。だからあたしは、あっさりと男子生徒に言われたままを受け入れしまったんだ。


「今日十八時に、希望の大樹たいじゅの前にきてほしいって」


 希望の大樹と言うのは、登下校の道の途中に植わっている木の名前だ。横に太い形状の幹が特徴で、春には桜の花びらで満開になる。うちの高校では恋愛成就の名スポットとも言われていて、告白場所にそこを選ぶ男女は比較的に珍しくなかった。


「あー、分かった。一応言っとくけど、こなかったらこなかったで、それで平気?」

「は、はい。平気です。ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 礼儀正しく深く頭を下げ、男子生徒は走り去っていった。一組はもうすぐ目の前に見えていたが、あたしはくるりと身体を返し、生物室へと向かった。メールより、なんとなく直接伝えたほうがいいような気がしたからだ。


 案の定、杏鈴は平常通り髪の毛を巻き上げていた。いつもよりふわふわに、よりお人形っぽく巻き上がっているように見える。


「何か今日、気合い入ってない?」

「今日って言うか、一応いつも入ってるんだよ、気合いは」

「あれ? そうだったの」

「そうだよ。もし奇跡的に突然すれ違う、なんてことがあった日に絶対に可愛くいたいもん。だから毎日巻き直してるの」

「そうでした。とりあえず出会えるまでは生物の先生もたぶらかし続けるわけでしたね」

「だから、あの先生は勝手にたぶらかされてるんだってー」


 例の好きな人への想いを杏鈴が口にしたのを聞いて伝言の無意味さを感じたが、伝えないのは勇気を持ってあたしに声をかけてきてくれた後輩くんに申しわけないと思った。伝えると、想定通り杏鈴は特に驚きも喜びもしなかった。


「その子には一応、こなかったらこなかったでよろしくっては言っといた」

「何だかごめんね。梨紗ちゃんにそんなめんどうな」

「や、別にただ話しかけられただけだし。いくの?」


 杏鈴の首元のネックレスチェーンを何気なく見てから、あたしは杏鈴本人に視線を戻した。


「うんー、とりあえず。年下興味ないし、はっきり断らないと」

「あたし、今日もういかないとでさ」

「そうだったの。わざわざ本当にごめんね」

「うーうん。時間ちょっと遅めだし、気をつけてな」

「うん、ありがとう」

「うん、じゃな」


 微笑む杏鈴に手を振って、あたしは急いで一組へと向かった。


「梨紗おせーしーっ」

「わりいわりい」

「よっし、揃ったからいこっ」


 ぴょんっと立ち上がったAはにこにこしていた。Aは娯楽の中でも特にカラオケが好きだったから、単にそれが楽しみで機嫌がいいんだろうな、くらいにしか思わなかった。カラオケに向かう道中、Bとのラブラブ写メをAから見せられ、あたしは夏休みのあの出来事をはっと思い出したが、それにそこまで嫌な感じを覚えることはなかった。


 大人数でのカラオケはやはり最高だ。ドリンクバーとポテトとからあげを頼んで、タンバリンとマラカスで大いに盛り上がった。いつもの仲間と過ごすのも、杏鈴とだらだら過ごすのも、あたしにとっては両方大切な時間だと改めて実感した矢先だった。


 翌日の朝のホームルーム、担任の表情は辛辣だった。教壇に立った担任の口から述べられたことが一瞬理解出来なかった。



「五組の笹原さんが、昨夜、階段から転落しました」


 

 昼休み、あたしは第一学年の教室が密集している廊下を駆け回った。


 担任の話しによると現在意識がないまま杏鈴は病院のベッドで横たわっている。事故が起きた場所は希望の大樹のすぐ傍にある石造りの階段。あたしも登下校で通っているから、あの階段の傾斜が急なことはよく知っている。


 尚、近所のかたの目撃情報があった。時間は午後十八時ころで、巻き髪の白くて可愛らしい女子生徒が、その付近でひとりの男と話しているのを見たと。


 見つけた。その腕を掴んだ。振り返った昨日伝言を頼んできた男子生徒の目は、見る間に怯えて丸くなった。


「てめえ! ふざけんな!」


 あたしが叫びつけると、情けないことに男子生徒は腰を抜かした。周囲になんて目をくれてる余裕なんてなかった。あたしは男子生徒の首根っこを両手で掴んだ。


「お前だろ! 杏鈴のこと階段から突き落としやがったの!」


 担任は転がり落ちたと表していたが、間違いだと思った。こいつと待ち合わせていたことを知っていたからこそだ。振られてその場で逆上したんだろう。Bと同じだ。見た目と違う裏の顔を剥き出しにしやがったに違いないと思った。


「どうしてくれんだよ! 意識ねえんだぞ! このまま戻らなかったら殺したのと同じだぞ!」

「ちがっ、違うんですっ。ご、ごめんなさいーっ、ごめ、ごめっ、ごめんなさいーっ。違うっです」


 気色の悪いオタクみたいに涙と鼻水を垂らしながら、男子生徒は何度も頭を下げてきた。徐所に冷静になる。無意味な謝罪を口にしながらも、こいつは自分じゃないと否定している。


 首根っこを離さぬままで、あたしは男子生徒を問い詰めた。泣きじゃくりながら男子生徒が打ち明けてきた全ては鈍器と化し、あたしの頭を殴った。


 あたしは再び駆けた。第二学年の教室が密集する廊下に辿り着くと、脇目もふらず一組の教室へと飛び込んだ。


「おい、A」


 迷わずそう呼びつけた。昨日のカラオケでのあの様子はまるで夢。Aは鼻息を漏らしてからほくそ笑むと、こっちにこいと目であたしに訴えかけてきた。先に教室を出ていくAの背中を見ていたあたしは、あえて残りの仲間を振り返った。誰ひとりあたしと目を合わせようとはしなかった。全員、共犯の裏切り者だと確定した。最低だ。もう仲間じゃない。言いたいことは山々だったが、歯の奥を強く噛みしめて、あたしはすぐにAを追った。


 Aが戦場に選んだのは希望の大樹の前だった。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響いてきたが構わなかった。


「もう説明しなくても分かってんでしょー? だいたい」


 嫌味ったらしく憎たらしい声に手が出そうになったが堪えた。深く呼吸をしてこちらを振り向いてきたAの顔を見据える。


 Aに言われた通り大体のことは繋がっていた。


 伝言をしてきた男子生徒は、Aの手駒だった。泣きじゃくって聞き取りにくい部分はあったが、結論、男子生徒は杏鈴のことを好きでもなければ、そもそも杏鈴の存在すら知らなかったのだ。Aとは出身中学が同じで、あたしにそう伝言しろと指示された。中学の時からスクールカースト上位且つ先輩であるAを恐れており、断ることが出来なかったらしい。


「何でこんなことしたんだよ」


 大体を完全に変える質問をする前に、あたしはAにそう問うた。ここに到着するまで考えを巡らせていたが、Aが杏鈴を最終的に攻撃するに至った理由が分からなかった。


 経緯を辿り直す。AはBに入学当初から片想いをしていた。しかし二年になって、Bは杏鈴に告白して付き合った。しかしすぐに杏鈴がBを振り、AはBを手に入れた。夏休み、Bは杏鈴への気持ちを諦めきれずに生物室にやってきたが杏鈴は一掃した。結果、今もAはBと仲よく付き合っている。一体、何が不満だったと言うのだ。



「梨紗ってさー、ほんとバカだよね」

「は?」

「Bと笹原、別れさせたの私だよ?」


 声が詰まった。一気に混乱する。杏鈴の発言とAの発言が異なっている。


「笹原があんたに何て言ったかしんないけど、初めはみんなで昇降口で囲んであげて直接言ったの、別れてって。でもあいつ、無言でその輪を崩して立ち去ったわけ。超態度悪くない? だからー、地味めがねちゃん、使っちゃった」


 脳の皮膚裂かれて脳みそが飛び出したような気がした。Aの言う地味めがねちゃんが誰だか分からないわけがない。杏鈴が一年生の時から一緒に過ごしていたあの子のことだ。


「地味めがねちゃんにいろいろしてー、そしたらすぐに別れてくれたわけ。そうする前に気づけっつーの」

「いろいろって?」

「分かんない? 上靴に大量に画鋲入れたりとかー、体操着隠したりとか。教科書もゴミ箱に捨てたっけ。地味めがねちゃんの泣いてる顔が超ブサくて。その印象が強すぎてさー。ま、よかったんじゃん笹原も。あんなんとつるんでるよりお独り様のが似合ってるし。地味めがねちゃんがビクビクしながら笹原避けてるの最高に笑ったー」


 杏鈴は嘘をついていた。特に好きではなくOKした部分は事実としても、大切な友達をAに傷つけられ最終的には失ったのだ。どれほどに苦しかっただろうか。きっと知ってたんだ。あたしが普段A達と一緒にいることを。


 あたしが「どうしてBと別れたのか」と問うてきたことで、恐らくあたしがいやがらせについて何も知らないのだと、杏鈴は判断したのではなかろうか。だからきっと、あたしを傷つけないために、自己を蔑んで真実を隠した。


 言ってほしかった。その時にあたしを責めてほしかった。あんたの友達最低ねって。そう言ってくれたらあたしはその時点でAらと縁を切っていたのに。杏鈴のことも、杏鈴の友達のことも護ってあげたのに。両目を閉じベッドに横たわっている杏鈴を思う。視界が潤みそうになったが、こいつの前で絶対泣くわけにはいかない。


「Bさ、超優柔不断なんだー。と、言うか、うちと付き合ってんのに、笹原に未練たらったらでさ。部活がない日もあたしとの約束ほっぽったりして怪しいと思ったから、あとをつけたの。そしたら生物室の扉の隙間から覗いてるわけ、笹原のこと。やばくなーい? だから何してんの?って可愛く肩叩いてあげたら超驚いてた。その時に知ったんだよねー。何でか知らないけど、あんたがいつの間にか笹原と親しくなってたこと。Bにもあんたにも、裏切られたって思っちゃった」

「冗談よせよ。裏切られたのはこっちだ。被害者ぶんな」

「言いがかりはやめてほしいなあ。悲しかったんだよー。あんた、こっちの集まりに出る回数もどんどん減るしさあ。夏休みだって笹原と会ってたでしょ? Bからももう踏ん切りついたってきいてたのに、うちがいんのに、また笹原のところにいって、告り直してさ」

「やっぱりな、見てたのはお前か」

「Bが部活ある日は夏休み、うちも学校にいってたんだ。たまたまあんたが購買でアイス買ったのみてつけたら案の定。また裏切られたってショックだったー。笹原にうちの心は傷だらけにされたの。だ・か・ら、復讐ショーを開催しちゃいましたーっ」


 Aはわざとらしく、あたしに顔を近づけてきた。


「じゃぁ聞く。そのショーに誰を手配した」


 あたしは片手でAの首根っこを掴んで顔を近づけ返してやった。もうすぐ真実が完成する。


「杏鈴を階段から突き落としたのは誰だ、答えろ」


 担任が言っていた近所のかたの目撃情報から、あたしはてっきり杏鈴を傷つけた犯人は男子生徒だと思い暴走した。しかし泣きじゃくりながらも男子生徒は、そこだけは違うとはっきり否定した。あくまでも伝言を頼まれただけであった彼は、十八時にここにはこなかったと。


 そうなると杏鈴がここで会ったのは男子生徒じゃない、別の男だ。その男を手配出来るのは、目の前にいるこいつしかいない。


 Aが笑い始めた。ケラケラと甲高い声が響く。一体何がおもしろいと言うのだ。おもいしろいポイントなんて何ひとつ見つからない。


「ほんっとーに、梨紗ってバカ。とりえってギリ顔くらいだね」

「てめえいい加減に」

「彼氏だよ、あんたの」


 振り上げた手は、その場所で固まった。Aの首根っこを掴んでいた手先から、力が抜けていく。


 今、何て。


 耳が受け入れを拒絶している。


「あんたの彼氏がやったの。まあ、突き落したって言うか、ちょっと遊んでやろうとしたら、笹原が抵抗して勝手に落ちたらしいけどねー」


 形勢は逆転した。同じ目線で立っているはずなのに、Aに遥か高いところから見下されている。声にならない声しか出てこない。


「最後だから言うけどさー、入学から今日まで、あんたのこと一度も友達って思ったことなかったから。バカで憂さ晴らしに使えるからとりあえずグループに置いておいてやってただけ。あたしって頭いいでしょー?」


 杏鈴のことを考えていたいのに、考えなくちゃいけないのに、その言葉を聞いて自分のことしか考えられなくなっていた。自分の身体を両手で抱き締めながら跪いた。服の中で痛々しい痕が蠢く。


「あんたにぴったりだって思ってあいつを紹介したの。DV男。あんたも見事に依存しちゃってさー、乙女だよねー。ははっ」


 裏切られていたんじゃない。裏切りは、互いを認める関係性が築かれてる間柄でしか発生しない。


 初めからAはあたしを騙していた。そしてあたしは騙され続けていた。


 堂々と生えている希望を掲げるこの大きな大樹をぶち折ってやりたくなった。

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