Ⅱ◆完全依存◆


 その日を境に、あたしは放課後、生物室に足を運ぶことが増えた。初めは週一だったのが、週二、三と、どんどん増えた。Aの失恋のことがあったから、何となく、生物室にいく日でも、普段通り“今日は彼氏”とだけ告げ、杏鈴あんずの名は出さなかった。


 杏鈴と過ごす時間は、居心地がよくなるばかりだった。他人に基本深い興味を示さない点や、くるもの拒まず去る者追わずのスタンス、根本的な部分が似ていた。いつもの仲間も大切なのは変わりなかったが、杏鈴との適度な距離感は、それとは違って単純に楽だった。


 季節が巡るのは早く、じめじめと嫌だった梅雨もからっと明け、夏休みが目前に迫った頃。ある日の放課後、いつものグループメンバーでファーストフード店へいくことになった。珍しく、ポテトとシェイクを人数分Aが奢ると言いだしたから、妙に機嫌がいいな、とは思った。


 テーブルを囲って座り、Aが意気揚々と見せつけてきたスマホを見てぎょっとした。映し出されていたのはプリクラ。キメ顔をしているAと手を繋いで映っているのはB。


梨紗りさ、驚きすぎじゃね?」


 どうやらあたし以外の四人は既に知っていたらしい。こちらの集まりへの顔出しが減っていたから当たり前か。ただ、経緯が不明過ぎて内心の混乱が収まらない。たったつい昨日、杏鈴が普通にBの話題に言及していたからだ。


「いやそりゃ驚くよ。だって振られて、あ……笹原ささはらさんと付き合ってたくね?B」

「笹原さんとは、もう一ヶ月くらい前に別れてたみたい」

「へえー、そうだったんだ。あたしやばい、情報遅れてんねっ」


 仰天を必死に飲み込んで、最大限の平静をあたしは繕った。この話が本当なら、あたしが初めて生物室で杏鈴と出会ったおよそ一週間後には、既にBと別れていた計算になる。


 目の前にいるAのハイテンションなのろけ話より、杏鈴の様子のほうが気になった。彼氏からメールで急な呼び出しが入ったふりをして、あたしは学校に駆け戻った。


 生物室の引き戸を引くと、全くいつも通りの杏鈴がそこにいた。髪の毛は完璧に巻き上がっている。ノートと教科書を開いてもくもくと宿題をやっていた。


「おっ。梨紗ちゃんおはよ」


 決まって杏鈴は放課後にあたしがくると、朝の挨拶を口にした。一度何でと問うたことがあるが、その日に初めて言葉を交わすからだ、と回答されて変に納得してしまった。だけどこの日、あたしは挨拶をし返さなかった。


「杏鈴、Bといつ別れたの?」


 勢いはつけずに冷静に聞いたつもりだったが、杏鈴にはあたしの感情の揺れが読み取れたらしい。教科書とノートを閉じると両手で頬づえをついた。


「Aさんから聞いたの? 聞いたならその通りの時期かな」

「何で?」


 あたしは自分で自分に驚いていた。誰が別れようが振られようが、その本人が自ら語ってこない限り詮索をしたことなんてなかった。けれど、知りたい気持ちが止まらなかった。同じ人間のはずなのに、目の前にいる杏鈴に心配の気持ちを押しつけずにいられなかった。しかし、杏鈴から返ってきた返答に、あたしは拍子抜けした。


「……好きじゃなかったから」


 本当に読めない。魔性すぎる女だ。


「はっ? そうなの?」

「わたし、一回でも好きって言ったことあった?」

「いや、確かに言ってない。けどさ、付き合ってたんだよね?」

「うん。告白されたし。何となくOKしただけ」


 この時のあたしはまだ、この部分に関しては杏鈴と同じじゃなかった。あたしは付き合っていた彼氏のことを心から好きだったし、好きな人と付き合えることが幸せだと感じる正常な感情を持つ普通の女の子だった。だからと言って杏鈴に対して引くと言う感情は一切生まれなかった。この微塵も自分を繕ってよく見せようとしない毅然とした態度に、ますます興味が湧いたんだ。


「何だ―、初めからそう言えし」

「わざわざそんなこと言わないよ」

「そうだけどさ、Aから何か嫌がらせされて奪われたのかと思ったから、びっくりして飛んできちゃっただろ?」


 杏鈴は無言でコテのプラグをコンセントに差し込み電源を入れた。手招きに吸い寄せられ、あたしは杏鈴の隣の席に腰かけた。


「梨紗ちゃんって、いい人だね」

「うわ、気持ち悪っ。急に何?」

「友達放ってまで、こんなわたしのところにきてくれるなんて、人がよすぎるよ」


 杏鈴の言葉を裏返すと、杏鈴はこの関係を友達だと思っていないと言うことが分かる。築き上がっているのは、髪を巻いて巻かれる関係が最もしっくりくるだろうか。


「そりゃ、な。女の嫉妬とかって怖いから。その周囲にまで攻撃したりもするからさ。あの子とか、大丈夫なんだよな?」

「あの子?」

「ほら、いつも一緒にいる、めがねのさ」

「あー、あの子、もう一緒にいないよ」

「へっ?」

「元からそこまで合ってるわけじゃなかったしね」

「じゃあ、今杏鈴、普段誰と一緒にいるの?」


 自らそう問うたくせに、ズキッ、と心が痛んだ。


「誰ともいないよ。基本はわたし、ひとりが好きだから。心配はいらないよ」


 杏鈴は至って淡々としていた。平気な振りをしているのではなく平気なのだ。学校で独りぼっちだと後ろ指を差されることは、さすがにあたしは耐えられない。でも、杏鈴は違う。本当に、周囲からどう見られようが構わないのだ。


「……わたしね、好きな人がいるの」

「えっ?」


 何の脈絡もない突然すぎるカミングアウトに、あたしは僅かに頭を振ってしまった。コテに毛先を巻きつけている杏鈴が、前を真っ直ぐ向いているようにと、無言で促してきた。


「でもね、もう、一生会えないかもしれないんだ」

「何で?」

「どこにいるか分からないの。そして向こうも、わたしがここにいるってことは分からない。もちろん連絡先も分からない。だからもうきっと会えないんだ」


 どこぞの携帯恋愛小説の語り口だと言わんばかりの言葉の羅列も、凛とした杏鈴の声に絡むと聴き入れられる。


「好きな人って言うか、両想いは両想いだったってことなのか?」

「そう、だね。いろいろあって付き合うには至らなかったけど、お互い凄く好きなのは分かり合ってた」

「うわー、凄いな。純愛じゃね? 相手はどんな人なの?」

「優しい人。芯が強くて男らしい。嘘も絶対につかない。いつもわたしがピンチの時には現れて、わたしのことを護ってくれた。この先無条件でずっと愛せるし、信じていけるって言い切れるくらいの人だった」

「何それ、超好きじゃん。やば。絶対いい男だな」


 でも、じゃあどうしてBと。浮かんだ疑問は頭の中で悩むと化す前に秒殺された。


「でももう会えないの。だからとりあえずBくんを受け入れてキスしてヤった。ただそれだけ。今までもずっとそうなんだわたし。彼を諦めないとと思って適当に好意をくれた人と付き合って身体の関係まで結んでも、脳が結局拒否してきちゃうの。彼への気持ちを捨てることをね」


 聞いているうちに涙が出そうになった。置き換えれば感じ取れる。本当に好きで好きでたまらない人と一生触れ合えない辛さは他人の想像の範囲には収まらないだろう。


「梨紗ちゃんが、わたしに初めて声をかけてくれた日、わたし、歌ってたでしょ?」


 あの日、褒めたのに気まずそうにしていた杏鈴の表情を思い出した。


「言ってくれたんだ、その好きな人が。わたしの歌う声が大好きだって。だからたまに、どこか分からない遠くに向かって歌うんだ。届くかも、しれないから……」


 一度しか聞いたことはないが強く耳に残っている。透き通った澱みのないあの歌声。誰かを救う力を持っているような、そんな声。その好きな人が杏鈴の声を好んだ気持ちには大いに共感できた。


「首につけてるネックレスも、ずっと外せないんだ」


 今度はちゃんと、杏鈴がコテを一度テーブルに置いたのを確認してから振り返った。たった今言われるまで気がつかなかったが、杏鈴の首回りから、繊細なネックレスチェーンが覗いている。そのチェーンを杏鈴が引っ張り上げると、水晶のようなハート型のネックレストップが出てきた。


「可愛い、しかも綺麗。中に入ってる青色のやつは何?」

「花びらなんだけど、何の花だったか忘れちゃって。でも、彼がくれたプレゼントなんだ」


 この苦しくて切ない想いを堪えるために、杏鈴は基本的な人間らしい感情を抑え込んで生きることを選んだのだ。自分が抱いた第一印象が浮かんだ。お人形さんみたい、儚さや脆さも、どことなく滲み出ていたように思える。


「変な話し、だらだらとしちゃってごめんね。おかしいな。誰にも話したことなかったのに。ああ、あたしは結果最低な女だよってことを、ちゃんと梨紗ちゃんに説明したかったのかも」

「最低って言うやつは多いだろうな。けど、あたしはそう思わないよ」

「えー、そう思ってほしかったのに」

「だって、何だかいろいろ仕方ないじゃん。確かに人から見て杏鈴はいいやつではないかもしんないけど、あたしは嫌いじゃないよ」


 そう言い切ったあたしを見て、心なしか杏鈴は微笑んだ気がした。またひとつ関係は今日で築き上がった。他の人が理解しがたい思考もある程度あっさり理解し合える関係。


 嬉しかった。誰にも話したことがないことを、杏鈴があたしに打ち明けてくれたことが。杏鈴の感情を垣間見れたことが嬉しかった。


 再び正面を向くと、毛先がコテに巻きつけられ始めた。しばし無言が続いたが、ふと、杏鈴の手が止まった。


「ねえ、梨紗ちゃん」

「んっ?」

「何か、首に痕あるけど……」


 ドキリとした。あたしが首を後ろに回すと同時、杏鈴は手にしていた毛束をぱっと離した。杏鈴の潤んだ瞳は震えて、あたしを真っ直ぐに見つめていた。


「あー、まじ? 気がつかなかった。汗疹かな」

「……引っ掻いて、こんな風になるかな」

「そんな感じ? じゃあ、キスマークかね」

「それにしては大きすぎるような気もするけど……」

「彼氏さ、結構オラオラ系で。やめろっつっても、めっちゃ痕つけてくんだよね。ほら、あたし、まーまーモテるじゃん? だから不安なんだと思うんだけどさ」

「えー、それ自分で言うのー?」


 今度は読み取られなかっただろうか。いや、無理だったかもしれない。それでもあたしは笑い過ごした。杏鈴も同じように浅く笑い返してくれた。


 ◆


 杏鈴のことを、周りのことを気にかける前に、あたしは自分を気にかけなければいけない状況におかれていた。家に帰るなり脱衣所に駆け込んで、首元のリボンを外してカッターシャツを脱いだ。杏鈴が綺麗に巻いてくれた髪を両手で持ち上げ、洗面台の鏡を背にして振り返った。溜息、これはきっと気がつかれたな。ごまかし切れないレベルで赤黒い。


 あたしは、彼氏からDVを受けていた。


 付き合い始めて半年ほどは何もなかった。そもそも彼氏はノリがよく、明るくて一緒に過ごしていて楽しい人だったし、このままずっと一緒にいたいと思っていた。


 ある日、デートでショッピングモールへ出かけた。トイレにいった彼氏をひとりで待っていると、男二人組に声をかけられた。いわゆるナンパだった。適当にあしらうつもりで会話を交わしているところにトイレを済ませた彼氏が戻ってきた。駆け寄ろうとして足が止まった。その時の彼氏の形相が、今までに見たことがないほど怒りに満ちていたから。


 彼氏に威嚇された二人の男はそそくさと退散していった。予定していたレストランにいこうとあたしは腕を組んだが、彼氏はそれとは逆の方向にあたしを引きずって歩き始めた。


「ちょっと待って」「どうしたの」と何度言葉を駆けてもズンズンと大股で歩く彼氏は止まらなかった。車の後部座席に押し込まれると叩きつけるように扉を閉められた。行きは助手席に座り、楽しく一緒にレゲェを聞きながらここまでやってきたのに、一体急にどうしたと言うのだろう。とりあえず謝ればいいのだろうか。けど、怖くて、ただ震えて、涙が出た。


 彼氏の家に到着し、車から降りると再び力強く腕を掴まれた。玄関先に入るや否や、視界が回った。


「いった!」


 あたしは廊下に押し倒された。顔をぶつけた。今まで味わったことのない痛みに、言葉が続かなかった。かろうじて彼氏を見上げて、喉がひくっとした。目に優しさはない。だから何色か分からなかった。


「うっ」


 バシッと音がした。仰向けにされて頬を張られた。腹を蹴られた。視界が一瞬真っ白になった気がして死んだのかと思った。けど生きていた。物凄く痛かった。


「お前何他の男とべらべらしゃべってんだよこのクソビッチが!」


 殴られたことよりその言葉が辛かった。こんなにも好きなのに。毎日メールも電話もしてるし週に最低でも三回は会うように予定を調整していたし、何より彼氏以外の男に興味なんてあるわけないのに。あの光景がどうしてそう映ったのだろうか。よく分からず、突然疑われたことが悲し過ぎて涙が止まらなくなった。


「……ごめんっ。梨紗、ごめん……」


 力をなくして横たわったまま震えていたあたしを抱き起こした彼氏は、いつもの彼氏だった。とにかくよく分からなかったが、もう怒っていないらしい。ギュッと抱き締められて、頭を撫でられて安心した。殴られ蹴られた箇所は痛かったけど、あたしはそのまま彼氏の性的欲求を受け入れた。溶けてしまいそうなほどに愛された。だからもう怖くなかった。


 だけど一度引かれてしまった彼氏の中の引き金は、それ以来ずっと引かれっぱなしになった。メールの返事が少し遅れたり、電話に出なかっただけで暴力を受けるようになった。泣いて謝ると許してくれた。彼氏も謝って抱擁してくれた。それを繰り返しているうちにどんどんエスカレートした。ついにはセックスしている最中にも殴られるようになった。あたしの喘ぐ声が小さいと気にくわないらしく彼氏は暴れた。他の男と寝てるんだろと、ありもしない暴言を吐かれながら何度も引っ叩かれた。だからあたしは次第に演技をするようになった。そんなに気持ちよくなかったり気分が何となく乗らない日でもAV女優みたいにわざと喘いだ。そうすると彼氏のあたしに対する支配感と独占欲を満たせるらしく、セックス中に暴力を振るわれることは大分減った。


 今思えば、当時は五個上の彼氏は地に足が着いている大人だと憧れていた。だがそうじゃなかった。堂々としているように見えて自信のない人だったのだ。


 思い返せばあのショッピングモール以外で彼氏の前で他の男と話しているところを見せたり見られたりしたことはなかったし、他の男のことを話題に出したことなんてなかった。あたしのことを本当に好きで手離したくない、大事にしたいと思ってくれているからこそ、彼氏の歯車は狂ったのだ。その歯車を狂わせた責任は全てあたしにあると思っていた。どれだけひどいことをされても、彼氏のことが好きだった。暴力のあとは必ずいつも優しく抱き締めてくれた。離れたくないし離れられないと思った。だから耐えていると言う感覚はあたしの中には一切なかった。


 Aを始めとするグループの友達には、相談出来なかった。何より彼氏を紹介してくれたAはDV男だったと言う実態を知ったら気負うだろうし、別れろと言ってきそうな気がしたからだ。あたしは彼氏を紹介してくれたことを心からAに感謝していたし、何よりあたしは彼氏のことが大好きだった。


 杏鈴に嘘をついてしまった。彼氏の独占欲の部分は事実であるとしても、甘いキスで痕をつけられたことは一度もなかった。指摘された首は、そう言えばこの前肘打ちされたんだったな。身体のどこかしらが常にズキズキと痛い感覚にこの頃はもう慣れてしまっていたから、すっかり油断していた。


 単なる奇跡だったと思うが、幸い制服や体操着のときに見えてしまう場所に深い痕がついたり残ることはなかった。一度殴られた箇所は、時間はかかるが数週間すると徐所に消えていってくれた。そうしてもまたすぐにつくのだが、あたしは周囲にばれないように殴ってくれる彼氏を優しいとさえ思っていた。そのくせして、猛烈な不安の波にも襲われて、次第にあたしは日サロに通うようになった。焼けた肌に痕が溶け込んでいるのを見ると落ち着くのだ。殴り殴られ肌を焼いて安堵する。そしてまた殴られる。終わりのないループに完全に依存していた。


 だが、この時のあたしは依存していると認められなかった。杏鈴に見え透いている嘘をついたことがDVだと言う事実だったのに、認められなかったんだ。


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