■Past RI■

Ⅰ◆互いが互いの名を知った日◆


 初めてすれ違ったのは廊下だった。高校に入学してすぐの頃だった。あたしは思わず振り返った。真っ白に透き通った肌。ふわふわの甘い巻き髪。水量の多い大きな瞳。お人形さんみたいで可愛い、それが杏鈴あんずへ抱いた第一印象だった。



 ■Past RI■



 高校に入学してから、あたしは平凡な楽しい日々を送っていた。自分で言うのはどうかと思うけど、中学校の時から学年の中心系と言われるグループに属していたあたしは、高校でもそのままその所属を引き継いでいた。


 高校一年生の時のクラスで仲よくなった派手な五人の友人とは、高校二年生にあがってクラスが別れても、中休みや昼休み、放課後に集まってつるんでいた。特にグループを仕切っているリーダーの女・Aは、見た目のギャル度の高さから、周囲の女子が目をつけられないよう怯えていると耳にすることもよくあった。けど、実際一緒にいるあたしのAに抱いている印象はよく笑って明るくてノリのよい性格だったから、外部がごちゃごちゃ言っている印象については、然程気に留めていなかった。


 あたしは生まれ持った性格上、基本他人に深い興味がない。仲がいい悪いの程度は関係ない。親しき仲にも距離は必要と考えていたからだ。その場が楽しければ何でもいいのだ。他の五人と違ってくるもの拒まず去るもの追わずなあたしは、グループが違う子とも分け隔てなく話していた。交遊関係はわりと広めだったと思う。


 高校生活の充実度が大きく左右される恋愛の部分に関しても、問題なく満たされていた。高校一年生の夏休みから付き合っていた彼氏は五つ年上。Aが紹介してくれた人で顔もそこそこイケメン。筋肉質で背の高いサーファー系の男だった。見た目がドストライクだったから告白してもらえた瞬間は有頂天になった。


 高校二年生になってから早くも一ヶ月が過ぎようとしていたある日の放課後だった。


「おっつー!」


 いつも通りの軽いノリで、あたしは仲よし六人の集合場所になっている一組へと向かった。既にあたし以外の五人が集まっていたが、その周囲を取り巻く空気は普段と異なっており、やけに重かった。


「何? 何かあったの?」


 その空気の重たみの原因となっているのはAらしい。不機嫌の度合いが半端じゃない。眉間にはありえない数の皺が寄り、椅子に片膝を立てて、じっと床を睨みつけている。


「Aの好きな人に彼女出来たらしくってさ」

「まじ!?」


 Aが片想いしていた男、Bはごく平凡な男子だった。Aには超絶イケメンに見えていたに違いはないが、客観的に見ると格好いいよりは可愛い系で、草食系且つ文化系男子だった。外見だけで言うとAとは全く釣り合わないと断言出来た。サッカー部ほどはモテないが、書道部らしい特有の優しい雰囲気に、Aのほかにも彼に惹かれていると言う女子はゼロではなかった。


 遊んでそうな見た目に反し、Aは非常に一途で乙女だった。あたしとは似ても似つかない典型的な女の中の女。一度好きになったらそう簡単に他の男に目は向けない。高校一年生の入学式で一目惚れしたBへの想いは強かった。奥手なBに対し、本当は男からはこられたいタイプのAが、自ら連絡をして放課後に二人きりで会ったり。聞いていた限りでは、かなりいい感じで、もう付き合える射程圏内だとAは確信までしていたのだ。それが何故。


「まじBタチ悪すぎじゃね?」

「最低だよね。さんざんAに気いある振りしてさ」

「チャラすぎ~」


 仲間がAに向かって励ましの意味を込めてBの悪口を次々に吐き出したが、あたしはそれに賛同は出来なかった。あくまでも平和に仲よくがあたしのモットー、陰口は最も嫌いだった。あたしはAの顔を覗き込んだ。


「まあ落ち込む気持ちも分かるけどさ、男はひとりじゃないじゃん。BなんかよりAにはもっといい男がいるって。この先出会いだってたくさんあんじゃん」

「そうかなあ……いいなあ、梨紗りさみたいにモテるなら立ち直りも早いのに」

「何だそれ、あたしがいつモテたって?」

「無自覚ってこわーい」


 あとから分かった話なのだが、学年の中心タイプの男子達がふざけてとっていたオリジナル統計的に、あたしは学年でモテる女子の上位にランクインしていたらしい。誰とでも気さくに話せるのは唯一の自分の特技だったし、このギャルグループに属していてもその点に好感があったのかもしれない。


笹原ささはらとかさ、まじ趣味悪くね」

「あいつ普通に陰キャだし、可愛くない」

「絶対Aのがいいのに。見る目なさすぎ」


 仲間の悪口の矛先はBからBが手に入れた彼女へと変わった。仲間に向かってAが悪口をやめるよう折角促してくれたのに、あたしは間の悪い質問をしてしまった。


「笹原って誰?」


 折角やみかけた悪口はあっさり復活し、仲間はその女子についてやいやいと説明してくれた。そのBが手に入れた女子こそが杏鈴で、高校に入学してすぐの頃に見たお人形さんみたいで可愛い子の顔と苗字が一致したのがこの時だった。


 杏鈴とあたしは全く関わりがなかった。あたしのいるグループを陽とするなら、確かに杏鈴は陰に属していた。同じ学年だから廊下で擦れ違うことは初めての出会い以降もあったが、杏鈴はいつも丸メガネをかけた地味な女子とつるんでいて、控え目な雰囲気が滲み出ていた。特にクラスが一緒にならない限りは関わることはないだろうと思っていた。


 正直にあたしはBにはAより杏鈴のほうが合うと思った。いい感じと思っていたのはAだけで、BはAに対し友人としての気持ちしかなかったのだろう。Bはずっと杏鈴のことが好きだったに違いない。仲間が言った悪口は単なるあてつけ、Aを励まし、立てるためだけの暴言だ。杏鈴はあたしがすれ違って、わざわざ振り返ったほどに透明感を持っている子だ。男受けしないわけがない。


 仲間が飛びかわせる無意味な悪口が止まらず飽き始めていたちょうどその時、タイミングよく彼氏から救いのコールが入った。


「彼氏だ。今日は抜けてもいい?」

「相変わらずラブラブだね、しょうがないなあ、いってきていいよ」


 少しだがようやくAが微笑んでくれたことにほっとした。誰だって友人の暗い顔なんて見たくないだろ?


「よろしく言っとく、また明日なー」


 だけどこの時、ほっとなんてしてしまったあたしは大バカだったんだ。


 ◆


 Bと杏鈴に対する悪口はその日で出切ったらしく、翌日からは普段通りのうるさいテンションにAは戻った。女は総じて切り替えが早い生き物らしい。いずれにせよ悪口続きは嫌だったし、Aの心に残る傷心もみんなでわいわい過ごしているうちに癒えていくだろうと思っていた。


 AがBに失恋してからちょうど一週間が経った。眠たい目を擦りながらぼんやりと聞いていた朝のニュースで気象予報士が梅雨入りすると言っていたその日の放課後は、見事にどしゃぶり。六時間目あたりから雲は怪しい色をしていたが、こんなに降らなくてもいいだろって。天気予報を舐めていたあたしは傘を持ってきていなかった。


 元々彼氏と会う約束をしていたから、それを知る仲間はいつもの教室にはもういなかった。さすがに傘なしで学校から出るのは厳しい。廊下で立ち往生しているうちに生物の教師に捕まった。運んでほしいと大量のプリントの山を押しつけられたあたしは、ずるずると足を引きずりながら生物室へ向かった。


「しっつれいしまーす」


 両手が塞がっていたため左足で器用に引き戸を開けた。誰かがいるだなんて思っていなかったから心臓が止まったかと思うくらいに驚いた。


 すぐに第二の衝撃を襲ってきた。歌だ。何て美しい音だろう。トゥルーボイスとはこの声のこと。凛としていてそれなのにどこかしなやかで、透明で、心が洗われる。黒の長方形の六人かけのテーブルに、ぽつんとひとりで座っているその歌声の主は、つい最近、仲間内で激しい悪口の対象となった人物。少し変な気持ちになりながら、あたしはテーブル上にプリントを置いて引き戸を閉めた。


「笹原さん、だよね」


 分かっているくせにそう聞いてしまったのは緊張していたからだと思う。


 あたしに気がついた杏鈴は、ぱっと口から音を奏でるのをやめた。


「そう……だけど」

「歌、めちゃくちゃ上手いんだな。びっくりしたよ」


 あたしは杏鈴の向かい側の椅子に腰を下ろした。折角褒めたのに杏鈴は特に嬉しそうではない。それどころか少し戸惑っているように思えたから、あたしは話題を変えることにした。


「そもそも何してんのこんなとこで」

「髪巻いてた」

「はっ?」

「ここ、一年生の時からずっと、放課後はわたしの髪巻き場なの。生物の先生緩いから、開けてって言ったら開けてくれるんだ」


 意外だった。見た目から女の子らしいほわほわした話しかたをする子だろうと想定していたが全くの逆。淡々としているがここまで追求されているのは珍しいし、たった今の発言で、清楚の着ぐるみは呆気なく剥げ落ちた。この魔性的ローテンションで、生物教師も容易く手の中に堕とし込んだのだろう。


 ギャップと言うものに男は弱いとも聞くし、Bは杏鈴のこういうところにも強く惹かれたのかもしれない。何より抱いていたイメージと違った部分が見えたことで、あたしは途端に、ちょっとおもしろくなったんだ。


「いつも放課後って、ひとりで?」

「うん。そうだよ。今日は彼氏の部活が終わるまでの暇つぶしも兼ねてるんだけどね」

「ふーん、早速Bとラブラブなんだな。ってか、さすが、さりげないの上手いね」

「何が?」

「一年の時からずっとってことは、男の切れめ、ないんでしょ。放課後になって巻き直す意味ってデートしかないって。マメだねー、彼氏の前ではちゃんとしてようってさ。あたしなんてめんどくさくて常にこれ」


 あたしは明るいトーンの茶髪の長い毛先を持って杏鈴に見せた。校則は厳しくない学校だったから、この時から髪の毛はバリバリ染めていたし化粧もばっちりしていた。


「そんなに染めてるのに綺麗だよね。如月きさらぎさんの髪の毛って」


 巻き終えたふわふわの髪の毛を、くしゅくしゅと仕上げ揉みしながら、真っ白な頬を少しだけ桃色にしとろんとした顔で微笑んだ杏鈴に、女であるのにドキリとした。その表情にだけでなく驚いた理由はもうひとつ。


「ちょっと待って。今、如月さんっつた?」

「うん」

「何で知ってんの?」

「何でって、同じ学年だし、ある程度はね」

「そういうもんか。あたし、この前まで笹原さんのこと笹原さんって知らなかった」

「如月さん、周囲に深い興味ないでしょ」

「まあ、そうだね」

「同類のわたしでさえ覚えてたんだよ。結構やばいよそれ」


 いつもの放課後、教室に集まるツレにそう小バカにされたら嫌悪を示しただろう。けど、杏鈴に言われるのはどうしてか嫌な気がしない。それに“同類のわたしでさえ”と言う言葉に、妙な安堵さえ感じた。多分、杏鈴も同じ安堵を感じていたんだと思う。


 あたしが急に立ち上がると、杏鈴の元から大きい両瞳がさらに大きくなった。どすんと足を組んで杏鈴の隣に座り直して背中を見せた。


「じゃあさ、今日で下の名前も覚えるから髪巻いてよ」

「いいよ」


 押しつけがましいと思ったが、特に嫌な顔せず杏鈴はあたしのストレートロングの髪の毛に触れ始めた。杏鈴の白くて細い指が髪の隙間をスルスルと通り抜ける感覚は悪くなかったし、コテを持ってはいるものの人生で一度も上手く巻けた試しがなかったあたしは、彼氏に会う前に可愛くしてもらえるラッキーに嬉しみを感じた。


「わたしの下の名前は、あんず」

「へえっ! 超可愛いんだけど。どんな字書くの?」

「あんずの“杏”に、“鈴”であんず」

「まじ!?若干キラキラってね?」

「そう言われるのが一番嫌」

「ごめんごめん。悪気はなかった。何て呼べばいい? 杏ちゃんとか?」

「そう呼ばれるのが一番嫌」

「ねー、嘘でしょ。わがまま」

「わがままじゃないじゃん。何か、如月さんとは相性が悪いかもね」

「そんなんやだ。今日しゃべったばっかなのに。じゃあ素直に杏鈴って呼ぶな」


 あたしはこの日初めて、杏鈴の名が杏鈴であると言うことを知った。


「いいよ。如月さんは?」

「あたし? 梨紗。如月梨紗」

「えー、そっちの名前のほうが全然可愛いよー」


 そして杏鈴もこの日に初めて、あたしの名前が梨紗であると知ったんだ。

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