Ⅲ◆消失◆


 ◆


 男性より女性のほうが切り替えるのは早いと言うが、時の流れに任せていれば個人差はあれど、共通して傷は癒えていくものだと知った。


 彼女との別れを乗り越え、高校二年になり数か月が経過していた。夏季の高体連に向け、部活の練習も普段以上に気合いが入り、家に着く時には、時計の針が夜の九時近い日も珍しくはなかった。


 ジジ、ジジ、蝉が羽を擦り合わせる音が重なり合う夜道。この日はゆうくんと会う約束をしていたため、彼の働くガソリンスタンドに向かっていた。いつもと違う道を通ると、同じ地元であるのに別の世界にきたような新鮮な気持ちになる。ただでさえ田舎町だから、こんな時間になると、人気がほとんどなくなる道も少なくはない。


 ジジッ、ギーッ! びくっと肩を揺らしてしまった。蝉が急におかしな声を出したからだ。遠くに飛んでいったのだろう。辺りは急に、しんと静まった。幽霊でも出そうだなんて幼稚なことを考えてしまう。


「……ゃ……」


 ピタリと歩みを止めた。仲間についていきおくれた蝉ではない。かなり微かだが、人っぽい声がする。こんな街灯の少ない細道で――嫌な予感に引き返そうとした刹那。女性の悲鳴が響き渡った。


 動けなくなった。声に聞き覚えがある。消えたはずの傷が、じゅくっと炎症を起こす。


 数メートル先から車が出てきた。俺がいるほうとは逆側にハンドルを切っていったが、その車にも見覚えがある。


 竦む足のふくらはぎを叩いて俺は前に進んだ。左側に出来ている車一台止まれそうなスペースに、携帯電話のライトを向け唾を呑んだ。覗いたのは彼女の顔。明るい茶色の髪の毛には緑の葉がつき、頬は少し切れ血が滲んでいる。息を上げながら俺を睨む瞳は、グレーのカラーコンタクトでギラギラと光っていた。


「ご、ごめっ……」


 彼女の威圧的な態度に何故か謝罪の言葉を口にした俺の手元はブレた。ライトは彼女の下半身を浮き上がらせる。


「何だよ!」


 何だよじゃない。痕。痛々しくおぞましい。青色だったり、赤黒だったり、茶色だったり。他者の手により故意につけられたものだと分かる。


「は!? 何!? 触んな!」


 俺はしゃがむと、手を伸ばし、彼女の腕を掴んでいた。彼女が抵抗すればするほど見える。首、腕、胸元、吐き気がする。痕だらけだ。彼女を放置して車でさった、すれたホストのようなやからの顔が浮かぶ。


「もしかして殴られてるの?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。彼女の瞳がはっと震える。しかし次の瞬間には俺の手をブンッと振り切った。


「だったら何? あんたに関係あんの!?」

「関係あるよ!」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。関係なんてない終わった者同士なのに。


 あの男を選んだのは彼女だ。優くんの言う通り彼女が選んだんだ。だけど俺が望んでいたのは彼女が幸せでいることだ。


 今の彼女から付き合っていた時の大好きだったあの笑顔を思い出すことは出来ない。


「別れなよ」


 未連があるのか? 分からない。けど、あの男と付き合っているべきではないと思った。


「このまま付き合ってたら、きっとずっと殴られるよ。傷つくよ?」


 彼女は笑い始めた、まるで魔女のように。喉をひくつかせて狂ったように。一頻り笑い上げて、見向いた彼女の表情を見て、俺はひゅっと喉を鳴らして尻餅をついてしまった。開いた瞳孔、口裂け女のように上がっている口角。呼吸のリズムもおかしい。


「今日ここで車の中でヤったの。凄いでしょ。あたしはどんな女よりも大切で特別な彼女だからそう言うシチュエーションも盛大に演出するんだって。だからたくさん痕をつけてくれたの。彼のものだって言う印なの。彼はあたしのことが大好きなの。大好きだからいっぱい殴るの。わたしは彼から愛の証をもらってるの。わたしも彼のことが大好きなのいっぱい殴ってくれるから」


 ギャア! 


 闇の中でカラスが鳴いた。


 違う、違う。


 足の感覚がない。


 それでも胸は焼けるように苦しい。


 俺は崩れ落ちた。そこでようやく、カラスだと思った鳴き声が、自分の口から発せられたものだったのだとようやく気がついた。


 見慣れた地元の小さな公園。這いつくばるようにしてベンチに辿り着き仰向けになった。全身から力が抜けていくのを感じる。無抵抗に汗も下へ下へと滴り落ちていく。ひりひりと痛む膝と肘も気遣ってやれない。


 呪いの呪文のように彼女は狂った言葉を口にしていた。息継ぎもせず、噛みもせず、唱えながら俺の頬を包もうと両手を伸ばしてきたのだ。カラスのように叫んだ俺はその場から逃げ出した。自分はカラスの中でも特段飛ぶのが下手で逃げ足が遅いのだ。だから糸をシューッと吐く蜘蛛のような彼女にはあっと言う間に捕まり食われる。考えれば考えるほど恐ろしくなって、だから頭の中を真っ白に塗りつぶして走り続けた。通ってきた道も風景もよく覚えていない。車に轢かれずに済み、今息をしているのは奇跡だ。


 荒い呼吸が整ってきて、生まれかけた自らに対する責める感情を吸い込んでくれたのは浮かんだ優くんの顔だった、“お人よしはもうやめろよ”、と。


 彼女と俺はもう何の関係もない者同士。たまたま道で遭遇したただの人間同士だ。声をかけたのだって間違いだったじゃないか。彼女は助けなんて求めていなかったし、むしろ俺をうざがっていた。あのままあの場に留まっていたら、何をされたか分かったもんじゃないし、機嫌を直して彼女を迎えにきた男と遭遇してボコボコにされたかもしれない。


 逃げじゃなくて正当防衛でしょう? なのに――何でこんなに胸が痛むんだ。


 さっきまでのことは夢だった。すごくリアルな悪い夢。熱帯夜の中かなり激しくうなされた。無駄だと分かっていてもそう言い聞かせることでしか自分を奮い立たせられなかった。


 どうにか身体を起こし、俺はトボトボと帰路を辿った。だがもちろん、夢なんかではなく全てが現実で、人生に一生消えぬひびが入る日を、そう遠くなく俺は迎えてしまったんだ。



 ◆



 セミが姿を消し、少し肌寒いと感じる風が吹き始めた頃。


わたる! 待たせたな!」


 部活終わり、バイトを終えた優くんと地元の公園で落ち合った。会う時はどちらかの家で互いの家族を含めて一緒に食卓を囲むことがほとんどだったが、俺のレギュラー昇格を祝いたいと、優くんが外食に誘ってくれた。優くんのバイト先の店長さんおススメのイタリアンカフェらしい。肩を並べて歩き始める。


「何か今日、空すげーな」

「わ、本当だね」


 視界を少し上向けた。みっちり敷き詰まっている灰色の分厚い雲の隙間から、夕日のオレンジ色がいくつか線のように見えている。珍しく綺麗とは言えない不思議な空。広がっている海洋も同じ色に染まっている。


 ぶるり、どうしてか身体が震えて鳥肌が立った。夏のあの日の出来事が走馬灯のように流れる。頬に触れてきた彼女の手の感覚が、背筋を掘るように強く撫でる。


「航、何か、平気か?」

「へっ?」

「顔色悪くね? 無理してんなら言えよ。別に今日じゃなくてもまた時間作るし」

「ううん。全然体調悪くないよ。お腹すいたなあ」

「そっか。ならいいんだけどよ、本当に気分悪いなら言ってくれよ。俺に変な気ぃ遣う必要ねぇんだからな」


 優くんは鋭い。目を山型にして腹を抑える動作を取ったが、正直、走馬灯は俺の食欲を完全に奪っていた。


 優くんに話すべきか。あの日、ああやって言い聞かせて、自分の中で終わらせたつもりでいた。だけど心がもやもやしてるじゃないか。折角の優くんの好意を無駄にしたくないし、おいしい食事の味をちゃんと感じたい。けど、話したところで何が解決されるのかも分からないし、また別れた時のように優くんの気持ちも暗くしてしまう気がして。


「航、航」


 名を二度呼ばれてはっとした。優くんの表情から、もしかすると二回よりもっと呼んでくれていたかもしれない。足が止まる。


「携帯、鳴ってねぇか?」


 優くんの視線が俺の制服のズボンの左ポケットを指した。ぶるぶるとバイブ音が上がっている。太腿と接触しているのに全然気がついていなかった。


「あっ、本当だ。ごめん、ちょっと……」


 慌てて左ポケットから携帯を取り出して、俺は固まった。俺の目がおかしくなっていないなら、ディスプレイに映っているのは彼女の名だ。


 嘘、どうして。頬に向かって両手が伸びてくる。俺は叫んだらしい。アスファルトの上で跳ねた携帯電話が転がった。それを拾いディスプレイを見た優くんは、俺みたいな顔になった。


「おい、航……」


 走ってなんていないのに全力疾走したばかりのように息が上がる。鳴り止まないバイブ音は、俺の心を責め立てる。


「航、出ろよ」


 優くんは俺の手に携帯を握らせた。中学の時から大事に使ってきたのに、ボディが欠けて、傷だらけになってしまった、まるで彼女のように。


「おせっかいだったら申しわけねぇけど、出たほうがいいと思う」


 優くんの目を見て泣きそうになった。いつだって優くんは俺の味方でいてくれる。


 もう大切な彼女じゃない。だけど助けたい。携帯電話を開く。鼻から一度深く酸素を吸ってから俺は通話ボタンを押し、耳に押し当てた。


「も、もしも」

『助けて! 助けて!』


 喉がすり切れて血が滲んでいるような声を聞いて、弾けるように俺は走り出していた。後ろから、優くんがついてきてくれている。


「もしもし!? 聞こえる!? 今どこにいるの!?」

『いっ……ま……うっ』


 彼女の声に混ざって、ボコッと嫌な音と男の声が聞こえた。逃げていたけど捕まった? 空はもうオレンジの色を失っている。


「もしもし!? もしもし!?」


 呼びかけるが彼女から返答はない。代わりに聞こえてくるのは雑音に混ざった男の唸る声。それでも走り続ける。無意識に俺の足先は、夏のあの出来事の方角へと向いていた。


『たっ……けて……』


 微かにそう聞こた瞬間、バリッと激しく割れる音に鼓膜が殴られた。通話が繋がってることに男が気づいたのかもしれない。連絡手段は途絶えた。もう自分の勘を信じるしかない。


「すみません! あの、今ですね」


 初めの大きかった彼女の救いを求める声が、受話部から漏れていたのかもしれない。何かを察した優くんがかけた先は百当番だ。優くんが渡してくれた携帯を受け取った俺は、震える声で警察に話した。その間も足は止めなかった。絶対に止まってはいけないそう思った。だけど、その全ては自らを気休めたいだけだったのかもしれない。結果全てが手遅れだった。


 俺の勘は正しかった。彼女は夏のあの場所にいた。だけどもう息をしていなかった。壊れてしまったフランス人形のように足と手は意図されていないほうへと曲がり、髪の毛には枯れ葉がたくさん絡まり、頭部は流れ出た血液によって生まれた池に浸っていた。着ている制服は乱れ、ところどころが破かれ、生々しい色をしたあざがいくつも見えていた。非現実的すぎる凄惨な光景だった。


 俺は彼女の傍に崩れた。腰が抜けてしまったと言ったほうが正しいかもしれない。ぱっちりと開いたままの両目、そこから溢れ続けていたのだと分かる涙の痕が頬に残っていた。


 間に合わなかった。救えなかった。彼女は俺に助けを求めていたのに。


 転瞬、元から暗かった俺の視界はさらに闇へと浸かった。左頬がアスファルトに擦れ、刺すような痛みが走った。見上げた先には全身黒色の服を纏っているひとりの男。犯罪者が典型的にする格好だ。サングラスで顔を隠しているが分かる。彼女をこんな無惨な状態にするのはあいつ以外に考えられない。頬の痛みが先行したせいで隠れていたが、どうやら殴られたのは頭部だったらしい。くらくらする。鈍痛が脳全体を支配する。


「てめぇ!」


 優くんが男に掴みかかった。優くんより男の図体は大きくがたいがよい。だけど、優くんは食い下がった。最後の最後、男が優くんの腹を蹴って逃走するまで、諦めずに力の全てを振り絞っていた。


 俺は下半身から力が抜けてしまい立ち上がることが出来なかった。いつまで経っても優くんに護られてばかりで、弱くて、どうしようもない。どうして強くなれないんだ、どうしてお人よしなんだ、どうして変われないんだ。切れた頬に涙が滲ん痛くて苦しかった。だからもっと辛くて苦しい思いをした彼女の冷たくなったからだを震える手でずっと撫でていた。


 この瞬間に俺が出来る、せめてもの行為だった。



 ◆



 男が逃げ去ってすぐに、優くんは再び警察とコンタクトを取った。現場にすぐ何台ものパトカー、続いて救急車と消防車が到着した。


 俺と優くんは連れていかれた病院で軽い手当を受けたあと、警察署に連れられ任意の事情聴取を受けた。上手く呂律を回せない俺に代わって、優くんが必要最低限のことを答えてくれた。辛かったね、警官が言う当たり前のたった一言でも、俺の捲れ上がって弱っている心には堪えた。辛かったのは俺じゃない。


 警察署まで迎えにきてくれた母親は、何も言わずに抱き締めてくれた。その優しさに胸がはれつしてしまいそうなほど苦しくなって、翌日、俺は別人のように目を腫らした。


 優くんの咄嗟の判断は正しかった。男はその日のうちに見つかり逮捕された。男は容疑を否認していたらしいが、あの場所で彼女が死ぬ前に、男と彼女が一緒にいるのを目撃したかたの証言や、彼女の身体から検出された体液によって罪が立証された。それでも男は今も否定し続けている。極めて悪質とし一度終身刑の判決が出ているが控訴し、裁判は今も続いている。


 間もなくして彼女の葬儀が行われた。参列するべきか考えるまでもなく否と判断した俺は、それ以上にもそれ以下にも何も考えられず自室に引きこもっていた。心が痛んで仕方がない。この痛みを持ったまま、まともな顔で追悼出来る気がしなかったし、そうすることは偽善者のように思えた。


 その日の夕方、あるひとりの人物が俺の家を尋ねてきた。中学の同級生で、彼女が一番仲よくしていた親友の女の子だった。


 散歩に誘われ一緒に海沿いを歩く。海洋は真っ青なはずなのに、どうしてか泥水のように濁って見えた。しばらく無言が続いて、口を開いたのは女の子のほうだった。


「ごめんね小宮こみやくん、急にきちゃって」


 俺は首を横に振った。自分だけよくない面をするのはずるいが、口角を上げようすると、眉が自然と下がってしまう。


「あの子さ、小宮くんのこと、好きだったよ」


 微かに開いた口元から音のない息が漏れた。唇が震える。この子は――。


「あの男と付き合うならちゃんと小宮と別れなよって、当たり前のことだけど言ったんだ、わたし。だけど、あの子全然別れ切り出さなくてさ。好きだったら年頃だし相手の身体に興味持つのって、わたしは普通のことだと思ってだけど、あの子はそれを直接的に小宮くんに言ったら気持ち悪いって思われるとか、嫌われるって思ってたみたい。小宮くんは心が綺麗だからって。好きだからこそ悩んじゃったみたいだった。だから変な方向走ったんだよね。小宮くんと正式に別れてからやけくそにあの男に没頭してる気がして遠回しに言及したことはあった。けど、暴力振るわれてるのに幸せだって言うんだもん。あの子笑うんだよ。いっぱいあざつくってんのに、いつも笑うの。あの顔で、あの可愛い笑顔で。わたしがもっと強く言ってたら……けど、言えなかったんだ。あの子に嫌われたくなかった。友達だからこそ怖くて止められなかった。だからせめて、あの子の本当の想いを、どうしても小宮くんに伝えたかった……ごめんね」


 何て返事をしたか正直よく覚えていない。ただこの子に謝らせるなんて、俺はどこまで最低なんだと思った。彼女を思って、彼女のことを考えて、誰もが悲しんでいる、悔んでいる。彼女を失った悲しみはきっと生涯完全に消えることはないだろう。ご遺族のかた、友人、知人、彼女を思う全ての人の心に残り続ける。


 あの日、俺は彼女を受け入れてあげなかった。彼女の欲求に気がつきながらも無視をした。自分の抱えるポリシーを捨てられなかった。そんな貞操観念なんて投げ捨てて、彼女を抱けばよかったのかもしれない。たったそれだけで彼女の命を護れたかもしれない。そう思うくせに、やっぱり抱けないし、抱くべきではなかったと思うのだ。


 大切だった。大事だった。本当にそう思っていたのに。俺にはみんなのように彼女を心に残し続ける資格はない。


 いつの間にか女の子と別れて自宅へ向かっていた。遠くのほうに人影が見える。黒いスーツ姿、どんどん近づいて顔が分かって足を止めた。


「航!」


 ようやく一時的に失っていた音が聞こえるようになった。優くんは正面から俺の両肩を掴んできた。


「しっかりしろ、航!」


 身体を揺すられ力の入っていない首がぐらぐらと揺れる。この感覚、この台詞、蘇る、過去の記憶が。


「何があっても変わらねぇ、約束したろ! 俺に航が約束させてくれたんだろ!?」


 そうだ、約束した。この先どんなに辛いことがあろうとも、乗り越えて生きようって。


 後悔しても、うじうじしても、いくつものもしもを仮定したとしても、戻らないものは戻らない。強くなるのは難しい。けれど負けないように懸命に生きることは出来る。


 俺が唯一彼女に出来る償いは、優くんと交わした約束を護り続けることなのかもしれない。


 虚ろになっていた世界に、少し光が戻ってきた気がした。吹いてきた潮風は、悲しい香がした。







 ■Past WATARU END■

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