Ⅱ◆変貌◆

 ◆


 俺と同じように、彼女も入学した当初から俺のことを気になってくれていたらしい。クラスも一緒にならないし、中々関わるきっかけがない中で、遂に巡ってきたチャンスがあの引退試合だったとか。気軽に話せるようになったからこそ、彼女の中で、どんどん気持ちは膨れ上がったらしい。通う高校は別々になってしまうし、このまま伝えずに離れたら後悔すると思ったから告白したのだと、のちに話してくれた。



 高校一年になってからは、俺は引き続きバスケットボール部で、彼女は帰宅部兼ファミリーレストランでのアルバイトで精を出す中、平日どこか一日と毎週土曜日を会う日と決めていた。俺の部活が休みになった時は、近くの水族館に出かけたり、遊園地にいったりもしたけれど、大抵は試合があるか、一日練習だから、夜に待ち合わせをして公園で話したりすることが多かった。


 高校生になって、彼女はますます可愛くなった。軽いメイクもするようになり、制服もよく似合っていた。俺の見えないところで悪い虫がついていないか心配だったが、そんなことを口にしても彼女は困るだけだし、何より彼女と過ごせる時間を大切にしたいと思っていた。


 高校一年の夏休みのある日のことだった。部活終わりの十九時過ぎ、待ち合わせ場所に指定されたコンビニに向かった。ラフなTシャツにスキニーデニム姿の彼女、


いつも通りに可愛いが、何かが足りない。


「待たせてごめんねぇ」

「うーうん。全然」


 気がついた。笑った顔にいつもの明るさがない。鈍感な俺でも気がつけるほどにあからさまだった。すぐに問おうと思ったが、彼女がふわりと歩き出したので、口を噤むしかなかった。


 肩を並べてしばらく歩いていると、彼女が俺の手を握ってきた。いつもは伝わってくる温もりにドキドキするのだが、この日は違った。ひんやりとした空気が血管を通り、心臓に流れ込んでくる。続く無言。心臓が、嫌な汗をかき始める。


 路地を曲がったところで、彼女は足を止めた。次の瞬間、握った手をぐいっと引かれ体勢を崩した俺は、唇に熱を感じた。街灯に照らされていても辺りは薄暗い。彼女の濡れた瞳と紅色に染まった頬は、光の中で幻想的に浮き上がっている。ぼおっとしていると、彼女はまた俺の唇を塞いできた。


「こ、ここ、道だよ」


 彼女とキスをするのはこの時が初めてではなかったが、俺は混乱していた。毒気のあるこの夜の空気がそうさせたのだろうか。それ故に気の利いた言葉をこの時、選べなかった自覚がある。


「あたしとキスするの、嫌?」

「そうじゃない、けど」

「今日、うち親いないんだ……くる?」


 正直に怖いと思った。目の前にいるのは彼女のはずなのに、彼女ではない別の人間であるように感じられた。目の奥は研ぎ澄まされていて、俺の何倍も一気に大人になってしまったような、置いてきぼりにされてしまったような、そんな気持ちにも攻め立てられ、ますます動揺した。


「こ、今度に、しようかな。ご両親いないのに、勝手にあがるって印象悪い気がするし。折角だったら、ちゃんと、挨拶したいしさ」

「……そっか。そうだよな」


 寂しそうな顔をした彼女に、今度は俺からキスをした。精一杯の軽い口づけ。そうしたら彼女は笑顔になって、いつもみたいな明るい顔になった。


 流れ上、彼女の誘いが何を意味しているのか、彼女が何を求めているのか分かっていた。だけど俺は元々この年齢で付き合うと言うのも早いな、と思っていたタイプの人間で、ましてやキスだって同じで。ファーストキスも彼女のほうからされたかたちだった。


 無論、俺は高校生のうちにキスより先には関係を進めるべきではないと思っていた。万一に妊娠なんてさせたら責任を取れないし、彼女の今後の人生を傷つけてしまう。彼女のことが本当に大事だからこその考えであり、行動だった。


 それから間もなくして、彼女は激変した。ナチュラルだったメイクは濃く、ひざ丈だったスカートはかなりの膝上に、ナチュラルブラウンだった髪色は金色に近い茶髪に染まり、ボブだったヘアスタイルはカールつきのエクステンションにより一気に伸びた。あまりの変貌ぶりに彼女だと気がつくのに数秒遅れたくらいだ。くぐもった声で、どうしたの? と問うと、イメチェンイメチェン、と楽しそうに彼女は言った。


 以前、高校に入ってから出来た友人に、彼女の高校名を伝えて驚かれたことがあった。高校に上がるより前から将来のなりたい職業に教師をイメージしていた俺は、それを見据えて進路を選択した。県内での偏差値はそこそこより上で、学内の雰囲気も整っていた。一方、彼女の通う高校は、はっきり言って県内での偏差値は下位ゾーン。校則なんてクソくらえがテーマのようなもので、イメチェンした彼女のように派手に着飾っている生徒が大半を占めていた。


 一度、彼女にどうして今の高校を選んだのか聞いたことがあった。返ってきたのは、勉強が得意じゃないから受かりそうな公立を適当に選んだと言う、将来の目的が明確に見えていない子がよく口にするテンプレートの回答だった。


 俺は学歴で人を決めると言う価値観が嫌いだったから、彼女の高校を咎めてきたその友人に内心よくない思いを抱いていた。俺は彼女のことが好きで、彼女も俺のことが好きでそれで幸せだと。だけど彼女がこんな風に変化して、彼女の周囲の多くの人間に、たったひとりの彼氏は影響力では勝てないのだと言う現実を叩きつけられた気がした。嫌いな価値観を認めなければならなくなるような、ぞっとする予感がした。



 俺の抱いた不安は的中し、彼女はどんどん面影をなくしていった。メールや電話も毎日していたものが、季節が流れるに連れ、三日に一回、一週間に一回、一ヶ月に一回、と減少していった。連絡が上手くとれないから、会うはずの約束はなくなっていった。


 会わなくなってから半年が経とうとしていた。このままでは自然消滅する。むしろ彼女はそれを狙っているのかもしれない。もうすぐ高校一年の終わり、春の陽気を迎えると言うのに。去年の春は――大好きな彼女の笑顔が浮かんでくる。温かかった。幸せだった。なのに今は、冷たい風が身体をギスギスに蝕むだけだ。


 どうしてこうなってしまったのだろう。あんなに楽しく穏やかに一緒の時間を過ごしていたのに。大切に思っていた。大事にしていたつもりだった。どこで嫌われることをしてしまったのか思い当たる節がない。今だって会いたい。世論なんてどうだっていい。見てくれなんてどうだっていい。あの声が、あの笑顔が見たい。そんなに遠くに住んでるわけでもないのに遠い。彼女の家にいってみようかな。バカだな、場所を知らないだろ。


 ふと、俺は足を止めた。巡る。脳の血管を逆流する、寂しそうな、物足りなさそうな彼女の顔。


 今日は土曜日、時刻は午後十七時、もしかしたら。きた道を俺は全速力で戻り始めた。会えないなんて言いわけだ。一か所だけ会える確率が高い場所がある。終わりを迎えるのが怖くて自ら避けていた。


 辿り着いたのは、チェーンのファミリーレストラン。ディナータイムに入っているせいで、駐車場はまずまず埋まっている。勇気を出して入口の扉を引いた。出迎えてくれた店員に彼女のことを尋ねると、先程上がったばかりだと告げられた。


 まだこの周辺にいるかもしれない。俺はポケットから携帯電話を取り出した。彼女の番号を呼び出す。プルルルと耳の中にこだましてくる発信音。出ない。諦めて切ろうとしたその時だった。


「もっしもーし」


 彼女の声がした、背後から。


 自分から呼び出しておいて見向かぬわけにはいかない。ぎこちなく首を回した。彼女の隣には見知らぬ男。彼女の腰に腕を回して身体を密着させている。体格がよく、百八十センチを余裕で越えていそうだ。


「なあ、誰こいつ」


 グレーのカラコンの入った不気味な瞳が俺を蔑む。こんがり焼けた黒い肌。ブリーチで染め上げられている汚らしい茶髪。耳と唇にはピアス。口周りを囲う髭。ファーコートにだぼっとしたジーンズ。そんな男に彼女は嬉しそうに自らも身体を引っつけている。


 一体、俺は何を見せられているんだ? 彼女の彼氏は俺だろう? 冷静になれと言い聞かせるがなれそうにない。ドクドクと心音はうるさくなるばかりだ。


「さき車いってて、すぐいくから」

「おー、分かった」


 彼女がそう促すと、俺を睨みながらも男は歩いていく。向かう先に見えるのはブランド車。特に車に興味がない俺でも分かった。


「何か、用?」


 小首を傾げて彼女は俺を見ている。とぼけた顔に怒りさえ湧かない。自分に対する虚無感が心を支配する。ただ確かめずに帰るわけにもいかなかった。答えが分かっていても。


「今の、誰?」

「彼氏」


 彼女の表情は微塵も歪まない。俺から視線も逸らさない。一切悪いと思っていない態度だ。俺は声を絞り出した。


「えっとさ、俺の勘違いだったら申しわけないけど、別れるとか、ちゃんと話してないよね俺達」

「じゃあ今話す。別れよ」


 終わりなんて、恋じゃなくても呆気なく迎えるもの。犬のように泣き喚いたらそれこそ今以上にださい。俺は堪えた。


「……分かった。一応、理由だけ聞いてもいいかな」

「理由? んー、飽きちゃった。わたると一緒にいるの。ほのぼのしてて平和だけど、刺激がないんだよね」


 その通りだ、彼女が求めている刺激に俺は応えなかった。だからと言って関係をうやむやにしたまま股をかけてもいい理由にはならない。怒りたかった。喚いてやりたかった。けど、そんなことしてもみっともないだけ。浮気をしたのは彼女だが、負けは負けだ。彼女を満たしてやれなかった自分に責任がある。


「ごめんね。いい彼氏でいれなかったね……幸せになってね。もう、二股しちゃダメだよ」


 ちゃんと笑えているか分からなかったが、ぐだぐだするのは今以上に男らしくなくなると思ったから、俺は出来るだけ優しくなるように、彼女に向ける別れの言葉を選んだ。


「あんがと、航も元気でね」


 笑った彼女の顔、ひとつも変わらない。俺が大好きなままの笑顔だ。背を向けて男の乗る車へと向かって走っていく彼女の背を見て、鼻の奥がツンとした。


 ◆


「うお! 航! びびった、くんなら連絡……」


 俺がその足で向かったのはゆうくんの元だった。俺の顔を見た優くんは、背中を擦りながら家に入れてくれた。自己責任だと言い聞かせたけど傷ついた。悔しいけど、情けないけど、涙が止まらなかった。


 優くんの部屋でこたつに包まりながら淹れてくれたほうじ茶を啜っていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。彼女との関係がおかしくなっていることを話していなかったから、優くんは俺のした話のところどころで目を大きくしていた。


「……大変だったな」


 慰めてくれる人がいるだけで、こんなにも心の痛みが安らぐとは。また目に涙が滲んでいたようで、優くんがティッシュを一枚取ってくれた。


「しっかし、だああああーっ! ムカつくぜ! ふざけんじゃねえええーっ!」


 茶卓を両手で叩きつけ優くんが突如叫んだ。びっくりして俺の目からは涙が飛び跳ねた。


「あ、わり。今のは航の代わりに叫んでみたっつーか」


 笑えてきた。止まらない。俺が笑ったからか、暗くなっていた優くんの表情も普段通り明るくなった。


「よかった。しょげてる航なんて見たくねぇんだよ。ちっせぇ時から見過ぎてもうお腹いっぱいなんだ。笑ってる顔とか、ちげぇ味の顔が見てぇよ」

「ごめんね。そうだよねぇ」

「俺の高校にさ、あいつと同じ学校の女と付き合ってるやつがいんだけど、そう言うのあるらしい」

「そう言うの?」

「高校入って経験ないのがダサいとか。特に女子の間で。あの学校ギャルギャルしいやつばっかじゃん。学年で立ち場強い女に目つけられんのが怖くて、焦って相手探してみたいな子も中にはいるんだってさ。バッカみてぇって思うけどな」


 もしかして彼女もそうだったのだろうか。純粋な興味も少なからずあっただろうが、いじめの対象になりそうで慌てていたのかもしれない。そうだったとして、俺は彼女を救えただろうか――答えは否だ。


「そう言うのも含めてさ、あいつには新しいその男のほうが縁あったってことなんじゃねぇかな。普通に幸せそうな感じだったんだろ?」

「うん、そうだね」

「航との関係に、はっきりけじめつけないで何で平行したのかはちょっと気になるっちゃ気になるけど、航が変に責任感じる必要はねぇよ。向こうがそうしたんだから。これでうじうじ悩んだら怒るからな。航のお人よしは過ぎる時があんだよ」

「うっ……さすが、優くん、鋭い……」

「あったりめぇだろ。何年一緒にいるとおもってんだよ」


 部屋の扉が開いた。ちら、ちら、とこちらを覗き見ているのは優くんの弟のあゆむくん。当時は三歳。日曜の朝にやっている戦隊ヒーローのフィギアを手に、にこにこしている。


「歩くん、こんにちは。おいでーっ」


 優くんの家をよく訪れていた俺は結構なつかれていて、手を広げると歩くんはテテテテと小さな足を動かし胸に飛び込んできた。すりすりと顔を擦り寄せてくる様子が愛おしい。さらに心の傷が剥がれていく気がした。


「さっき下でほうじ茶淹れてる時、歩、泣いてたんだぜ」

「えっ?」

「いつもびーびー泣き喚くくせに、声殺して泣くからどうしたよって聞いたら、わたるくん、泣いてる、可哀想って」


 じっと見上げてくる歩くんの頬には確かに涙の筋があった。柔らかい頬をふにゅふにゅ触る。また涙が出そうだ。こんな幼い子にでも悲しいは伝わる。彼女の笑顔は彼女だった。だから彼女にもきっと、俺の思いや感情は伝わっていたと思いたい。


 俯いてはいられない。関係が修復出来るわけじゃないんだから。出会いだってこの先まだまだたくさんある。優くん家から出たところで、裸の木に一生懸命しがみついている桜の蕾を見た。まさに自分だ。辛抱の時を乗り越えれば、きっと道は開ける。

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