五章:ディストラクションヘノ導線
◇16.奇妙な二人の語らい①
時計の針は二十三時を回った。学習塾でのアルバイトを終えた
仁子は、とりあえず航と会いたがった。それもこんな遅い時間にだ。夜以外の時間はダメなのかと問うたところ、ダメだとハッキリ返された。びびり性の航は、どうしてなのかとその場で仁子に重ねて問うことは出来ず、二つ返事で了承してしまった。
そもそも理由が分からない。どうして仁子が自分と会いたがるのか。目的の想像がつかないために、頭の中で疑問符は回るばかりだ。
何より合流したとしても、仁子と会話出来る時間は三十分ほどしかない。地域からして彼女の終電は午前〇時よりも前のはずだ。そんな僅かな時間でも、夜に航と話したいこととは一体何なのだろうか。
広場に辿り着くと、すぐに仁子の姿が目に入った。周囲を歩くどんな女性よりも美しい彼女だからこそ、ひとりで待たせたのは間違いだった。若い二人組の男にナンパされている。
近づいて、聞こえてきた仁子の声に、航は立ち止った。
「すみません、人を待っているので」
「そんなやついいじゃん。俺らと遊ぼうよ」
「すみませんが結構です」
「え~、頑なだなー」
毅然とした態度で誘いを断り続けている仁子。
「あ!」
ぼんやりとしているうちに、仁子が航に気がついた。チッと舌打ちすると、男二人は航を睨みながら渋々去っていった。他人からみたら彼氏がきたと捉えられておかしくはない。
「ごめんね。お待たせしちゃってぇ」
「私のほうこそバイトで忙しい日に無理言ってごめんなさい」
「あのさ、仁子ちゃん。時間ないと思うから、とりあえず用件を先に……」
おかしなことを言っただろうか。仁子の瞳は何を言っているのだと言わんばかりに航を見返している。まばたきを二度ほどしてから航が言葉を繋ぎ直そうとしたその時だった。耳に聞き慣れたハスキーボイスが入り込んできたのは。
仁子に二の腕をギュッと掴まれ、上げかけた声を航は何とか呑み込んだ。そのまま仁子にグイグイ引っ張られるまま木陰に隠れる。目の先に見えるのは梨紗だ、間違いない。
「きたわね」
視線を鋭くした仁子はスパイのようだ、と思った航の鈍感な心は、ふいに刺激を受けた。
「ちょっと待って、仁子ちゃんさ」
「なあに?」
「まさかだけど、今日の目的、これじゃ、ないよね?」
「これ以外に何があるのよ。あ!」
仁子の声に、視線は再び梨紗へと導かれた。現れたのは長身の男性だ。真也の
本当に梨紗は多種多様な男と夜を過ごしている。さらなる現実をつきつけられたようで、航の胸は痛んだ。
「動くわ! いくわよ!」
「ちょっと待って仁子ちゃん!」
「待てない! ほら、もたもたしないで!」
「これストーキングだよ!? ねえ!」
航の腕を掴んだまま、仁子はくるりと真顔で向き直ってきた。
「何言ってるのよ。これは尾行よ。
一体何に感謝する必要があると言うのだろう。才色兼備の美女までも狂わせる梨紗は罪だと思う。意気揚々としている仁子に腕を掴まれたまま、ぐにゃぐにゃに折れてしまいそうなほど力が入っていない航の身体は引きずられ、ベタベタと腕を組んで歩いている梨紗と男のあとをつけ始めた。
ある程度の距離をおきながら、道いく人を盾にしながら、見失わぬように追いかける。メイン通りからどんどん外れ、気がつけば怪しい雰囲気の通りに迷い込んでいた。そうだろうと分かっていたにせよ気まずい。「一時間ポッキリ三千五百円」「お泊りコース一万二千円」など、男女の夜を煽るワードがところせましと並んでいる看板に記されている。
「仁子ちゃん」
もう帰ろうよ、と言いかけた航だったが口を封じた。梨紗と男が立ち止り、あるホテルの看板を眺めている。今宵の場を決定したらしい。吸い込まれるように二人はその中へと入り込んでいった。
よかった、これで任務は完了だ。結局よく分からないが仁子はとりあえず男と一緒にいる梨紗のあとをつけたかったのだろう。こんな夜道にひとりでつけるのは不安だし、だから都会暮らしの手ごろな航を呼び出した、そうに違いない。
つけ終わった。仁子の目的は満たされた。さあ帰ろう、と改めて航が言おうとした刹那。
「朝まで待ち伏せ及び監視は辛いわ。私達も入らない?」
仁子の提案を航はすぐに日本語だと理解することが出来なかった。
朝、待ち伏せ、入る、ここに?
全てが繋がった航は叫ばずにはいられなかった。
「いやいやいやいや無理無理無理無理!」
「
何も起こらない、それには航も同感だったが、そう言う問題ではない。しかし、仁子の目は断固として揺るがない決意をひょうひょうと語っている。
「そうなんだけどさぁ! お、怒られちゃうし!」
仁子の決意を突っぱねるために、慌てた航の口から飛び出したのはどうにも出来ない言いわけだった。
「誰に?」
誰とは
「り、梨紗ちゃん、に?」
自分でも支離滅裂意味不明だと航は自覚した。本人がそう自覚しているのなら、他人から見た航はその何倍も支離滅裂意味不明だ。しかし仁子の理解と解釈はそれらを超えていた。
「なあんだ。やっぱり二人、実は付き合ってるのね。だとしたらこの状況は完全に理解不能の域だわ。いくら経験がないからって、自分の彼女が他の男と寝るのを容認する彼氏がどこにいるのよ! しっかりしなさい!」
「や、あの、仁子ちゃん、そうじゃないよ。そうじゃなくて」
「私と小宮くんは絶対にないから大丈夫。さ、いきましょ」
「えっ……えええええええええええええ!」
今この空間は灰色には染まっていない。それなのに、仁子が航の二の腕を掴んでズルズルと引っ張る力は
無駄に煌びやかで高級感のあるエントランスに、航の心の激しい震えは止まらない。
「あら、受付のかたは? すみませーん!」
急に大きな声を出した仁子の口を背後から航は両手で覆った。
「何よ」
「い、いないんだよ、こう言うとこはあんまり、受付の人」
「そうなの? どうして?」
「そ、それは、俺も分かんないけど……」
「じゃあ、どうやって入るの?」
仁子の問いに、周囲の健全な同大学の男友達からの予備知識で持ち合わせていた回答を航が口にしようとしたその時、後続の利用者がエントランスに入ってきた。利用販売機の室内の写真と部屋番号が記載されているパネルボタンを見て、いちゃいちゃと楽しそうにしている。販売機にお金を投入しカードキーを発行すると、カップルは仁子と航の横を通り過ぎエレベーターに乗り込んでいった。
「冷静に考えてみると、異常だし、異様よね、この空間って」
「それは、どういう」
「だって、くる人くる人、みんなその目的なわけじゃない? 隣も、隣もよ? 恥ずかしくないのかしら」
「みんなとは限らないよ。終電逃して泊まる人だっているかもだし。第一ここをその目的で利用する人達はそんなこと考えないでしょ。自分達の世界に入ってるんだから。梨紗ちゃんだって、現にそうだし……」
「確かに。その通りね。歩いてるときからモード入ってる感じだったわよね。如月さん」
「……ねえ、仁子ちゃ」
「小宮くん、六○二号室が空いてるわ。他の部屋より少し高めだけど綺麗そう。ここにしましょ」
航の言葉を遮り、仁子は販売機の前に移動すると、財布から一万円札を二枚取り出した。慌てて航はその手を掴む。キッと見上げてきた仁子の目に、航は自身の財布から一万円札を二枚取り出して降参の意を示した。
エレベーターで六階に上がると、通路には毒々しい真っ赤な色をした絨毯が敷かれていた。前を歩く仁子に、俯きながら航は続く。梨紗が今何階のどの部屋にいるのかは分からないが、限りなく近い場所で乱れているその姿を六○二号室に辿り着くまでのたった短い時間の中で想像しかけては何度も黒で塗りつぶした。
カードキーを通して仁子が扉を開けると写真以上に掃除のいき届いた綺麗な部屋だった。広々とした空間、ふかふかのダブルベッドにL字型のソファ。大きな画面の薄型テレビ。
「すごーい! お風呂も広いわ。もっといろいろハレンチな感じなのかと思っていたけど全然普通のホテルね!」
「そう、だねーっ!」
バスルームを見て感動している仁子が戻ってくる前に、航は見つけてしまったコスプレ衣装の貸し出しについて書かれている一枚ペラのメニューをこっそりとビデオデッキの下に隠した。うろうろと室内をチェックし、テレビをうっかりつけてしまわないようリモコンも棚に仕舞った。それ以外に怪しそうなものは幸い見当たらない。これで仁子の言う普通のホテルに仕立て上げられたはずだ。
バスルームから戻ってくるなり、仁子はダブルベットの上に仰向けでダイブした。際どい位置までスカートが捲れ上がっている。航は掛け布団をサッと仁子の下半身にかけてから、ソファに座った。
「……小宮くんって、優しいわよね」
「優しいんじゃなくて気が弱いだけだよ。てか、仁子ちゃん、今の絶対他の男の人の前でやったらダメだよ。大半が手なんかすぐ出すんだから。自分の身は、自分でも護らないと」
「それ、私じゃなくて、本当は如月さんに言いたいことでしょ」
無言になってしまうことは、頷くとイコールだ。仁子は身体を起こすと、枕をクッション代わりにして抱き締めた。
「見て、この爪。この前如月さんがやってくれたの、凄くない?」
仁子が揃えた両手の甲はこの位置からだとよく見えない。航は立ち上がり、ベッドの縁へと移動した。
「そうなんだ。凄い、可愛いデザインだね」
「やってもらってる間に、いろいろ話していたんだけど、如月さん、本当の恋をしたことがないんじゃないかなって思ったの。好きな人に対してって、ほんの少しのことでも気持ちがうろうろするじゃない? 小宮くんのことも、あの揉めごとを引き合いにして少し聞いてみたの。けど分からないって言ってた。私は如月さんは他の
先程の仁子の超越した解釈はわざとだったのだと気がつかされた。
分からない、その梨紗の言葉は言いわけだと分かる、同じ言いわけを航も使っているから。仕舞いに因果に逃げる部分もまるで同じ。
今まで以上によく分かった。第三の物語を戦い抜く苦しみが。
「その意地に関する部分なんだけど……言ってたの」
「ん?」
「
ここで出てくると思っていなかったその名に航は身を乗り出した。確実に梨紗の闇に繋がるものを握っている
「如月さんと、友達になりそびれたって」
「なり、そびれた……?」
聞き慣れない言葉に、航の口から飛び出た声には怪訝さが籠った。
「私も、聞いた瞬間は、小宮くんと同じ感情を抱いたわ。あくまでも似たもの同士だって言うのよ。笹原さんは、如月さんは笹原さんと出会いたくなかったって思ってるって。聞かれたわ。仁子ちゃんは自分を故意に傷つけてきた人間を許せるかって、この先永遠に根に持たないって誓えるかって。私、頷けなかった。重たすぎたの。笹原さんの瞳孔の開いた潤んだ
杏鈴の語り口は変わらず遠回しだが、これは思わぬ収穫だ。仁子に話したのと、航に話したのとではヒントの側面が全然違っている。
梨紗と杏鈴の間にある闇、夢を見ない日常、男を求める夜、それと――。
「ありがとう。仁子ちゃん。気を遣わせてごめんね」
「話してはいけないことって思っていたんだけど、共有すべき時も、あるわよね」
「うん。介入や他言は間違うと人を深く傷つけるけど、そうすることを恐れたために、取り返しがつかなくなることだってある……難しいよね」
枕をより強く抱き締めた仁子は、まだ何か言いたげだ。しばし、間が続く。
「……お湯沸かせるし、お茶淹れようかぁ。無料みたいだし」
「小宮くん」
動こうとした航の服の裾は、仁子の細長い右の指に摘ままれた。こんなに間近で仁子の顔を見たのは初めてだ。隙のない整ったパーツは、彼女に対してそういう感情がなくても惹き込まれるものがある。再燃した輝紀への罪悪感には、やはり温かいお茶が必要だ。裾を離してもらうべく、航が仁子の右腕を持った途端、再び仁子の口は開かれた。
「
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