第2話 ラーメン屋で?

「あれ陽子ようこのやつ、まだ帰ってないのか」


 それは始まったばかりの日常が壊れ去った日のことである。普段ならとっくに帰宅して夕飯の支度をしているはずの妻の姿はなく、俺が家に帰り着いた時にも灯りは消えたままだった。結婚してまだ半年、金に余裕がない俺たち夫婦は共働きで将来に備えていたのだ。


 そこへスマホのバイブ機能が着信を伝える。


「母ちゃんか、どうした?」

「亮太! 陽子さんが……」


「陽子ならまだ帰ってないみたいだぞ」

「違うよ! 陽子さんが大変なの。すぐ前原まえはら病院に!」

「何だよやぶから棒に……」


「陽子さんが交通事故に!」

「な、何だって!」


 俺が病院に到着した時、すでに陽子は帰らぬ人となっていた。ブレーキとアクセルを踏み間違えた老人の車が歩道に突っ込み、まだ若かった妻が犠牲になってしまったのである。


 寒い冬の日のことだった。


 妻とは今から二年ほど前に知り合って以来、約一年間の交際を経てのゴールインだった。俺は陽子を心から愛していたし、彼女も俺を愛してくれていたと思う。だから突然大切な妻を奪われた俺は、しばらくの間放心状態で過ごしていた。仕事に復帰したのはそれから約一ヶ月後だったのである。




 竹内にフラれた俺は仕方なく近所のラーメン屋で昼食を摂ることにした。特に有名店でも何でもない普通のラーメン屋だが、この辺りはオフィスも多く昼時は行列になる。それを見越して少し早めに会社を出たのだが、同じ考えの人も少なくなかったようでしばらく待たされることになった。


「あれ?」


 何だか聞き覚えのある声に振り返ると、そこには今朝出会った少女が驚いたような顔で立ち止まっていた。いや、正直俺も驚いたよ。


「今朝の……?」

「はい!」


 そう言えば今日は学校も入学式とかオリエンテーションのみだろうから、この時間に下校するのは不思議ではない。しかし何という偶然なんだろう。


「お次の方」


 その時ラーメン屋の店員が空席を知らせに出てきた。


「お、お二人様でよろしいですか?」


 どうでもいいがこの店員、少女を何度もちら見している。ちょっと失礼じゃないか。そして何故どもった。


「え? いや……」

「はい、二人です!」

「って、ええ?」

「私今日寝坊しちゃって、朝ご飯食べてないからお腹ペコペコなんですよ」


 小声で耳元に囁かれたのでちょっとくすぐったかったが、こんな可愛い女の子と一緒にランチ出来るのなら嬉しい誤算である。ラーメンの一杯や二杯おごるくらいどうということはない。ところが席に着くなり彼女がこんなことを言い出した。


「ここは私に出させて下さい。今朝のお礼です」

「いやいや、さすがにそういうわけには……」

「大丈夫です! お小遣いもらったばかりですから」


 もらったばかりと言っても高校生の小遣いなんて、社会人の俺から見ればたかが知れている。一番安い醤油ラーメンでもこの店は一杯六百五十円もするのだ。二人で軽く千円以上飛ぶのに、彼女に奢らせるわけにはいかない。


「気持ちだけ受け取っておくよ。ここは俺が出すから好きな物を食べるといい」

「でも……」

「いくらお礼と言われても女子高生に奢られるのは社会人としてダメな気がするから」


 俺が笑いながら言うと、彼女はちょっと口を尖らせていたがすぐにニッコリと笑いかけてくれた。ころころ変わる表情が何とも可愛らしくて癒やされる。


 それはそうと店員に続いて客たちも彼女にちらちらと視線を向けている。確かに可愛い女の子だとは思うが、こっちが気がついていないとでも思っているのかね。


「じゃ、お兄さんと同じ物を食べたいです」

「いいの? ラーメン炒飯チャーハンセット、しかも炒飯特盛りだけど」

「もう! いじわる!」


 結局二人ともラーメン半炒飯セットを注文した。


 昼時のラーメン屋ではそれほど長居出来るわけもなかったが、軽く自己紹介は済ませた。彼女の名は夏菜なつなといい、やはりこの春から高校に通い始めた一年生だそうだ。ちなみに苗字は聞くのを断ったよ。個人情報はあまり漏らさない方が身のためだと、渋る彼女に言い聞かせて俺も下の名前しか名乗らなかった。


 その後彼女がこんなことを教えてくれた。それは今朝痴漢されていた時、怖くてどうしようもなかったこと。そこに俺が声をかけてどれだけほっとして涙が出そうだったかということである。あの時はまともに礼も言えず名前すら聞けなかったので、せっかくの入学式やオリエンテーションも上の空だったらしい。


「この次は絶対にお礼させて下さいね!」

「分かった分かった」

「あ〜、もう私に会うことはないとか思ってません?」

「ぐっ!」


 しまった、図星を突かれて貴重なチャーシューを噛まずに飲んじまったよ。


「そ、そんなことないよ。またそのうち偶然に」

「偶然じゃダメです!」

「でもほら、学校に通っていればまた……」

「また、何ですか?」


 そう言えば俺は今の会社を今週いっぱいで退職するんだった。しかし個人的な事情を初対面、厳密に言えば二度目だけど、会ったばかりの下の名前しか知らない女の子に語る必要もないだろう。


「あ、会えるってば」


 だが、この時うっかり目を逸らしたのがいけなかった。夏菜は疑いの眼差しで、俺の顔をじっと見つめるのだった。

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