サクラが咲いた日

白田 まろん

第1話 痴漢と少女

「あれ? 久しぶり!」

「え?」


 満員の通勤通学電車の車内で、俺は目の前に立っていた少女に声をかけた。その声が少し大きかったせいで、周囲の視線が一気に集まってくる。


 この日は四月の第二週、つまり多くの新入生が初めて通学する日でもある。満員電車に乗ったことがないとは言わないが、彼らはこれから毎日このすし詰めの寿司になるというわけだ。


 俺は人を押すのも押されるのも嫌なので、数本送ってでも座れる電車を待つ。その俺の前に、乗客に流されるようにやってきて、必死に吊革に掴まっていたのがくだんの少女だった。ピンクのポロシャツに上下白のブレザーの制服は、まだこなれていない初々しさを感じる。しかし何となく彼女の様子がおかしい。気分でも悪いのかと思ったが本人が言ってこない以上、下手に席を譲るなんて簡単に出来るものでもない。


 ところが、である。


 俺の目に一瞬見えたのは、彼女の尻を触っている痴漢の手だった。ただ少女の様子を見る限りではあまり騒ぎ立てない方がよさそうだ。何故なら彼女が表情に出さないように必死に堪えているように感じたからである。そこで俺は大きめの声で彼女に話しかけることにした。知り合いがいると分かれば、さすがに痴漢を続けることなど出来ないだろう。


「あ、ごめん、人違いだった」

「い、いえ! お久しぶりです!」


 思った通り痴漢の手はどこかに引っ込んでいたが、俺はこの少女と会うのは初めてだ。だから目的を達して人違いだったと言ったのに、思いもかけず彼女の方が否定しなかったのだから驚いたよ。


 単に俺が覚えていなかっただけというわけではなく、相手は正真正銘初対面の少女である。しかもどう見ても俺と年齢が一回りは違う高校生だ。どこかで会ったような気もしないではないが、おそらくは他人のそら似というやつだろう。そんな子とは会話が続くどころか産まれることさえ困難である。もちろんこの流れで自己紹介なんか出来るわけがない。唯一の救いは、そこで俺の降りる駅に到着したということだった。


「じゃ、俺ここで降りるから」

「は、はい。あ、私も降りなきゃ。さっきはありがとうございました」


 それにしても可愛らしい子だった。きめの細かい透き通るような肌にサラサラとした背中の中程までの髪は、時折陽の光を反射して栗色に輝く。長い睫毛まつげと大きな瞳は、まだあどけないはずの顔に色気さえ漂わせている。大人になったらきっと相当の美人になるに違いない。


 もっともそんな彼女とは、道ですれ違うことはあってももう言葉を交わすことはないだろうと、その時は思ってたんだ。




「というようなことがあったんだよ」

「で、朝から満員電車で女子高生をナンパしたと。通報しておきますね」

「だからナンパじゃねえって」

「そんなことより池之内いけのうちさんとも今週いっぱいですね」


 俺の名は池之内亮太りょうた、あと二年もすれば三十路みそじ街道に突入するサラリーマンだ。システム系の仕事をしているが悲しいかな、プロジェクトの終了と共にこの会社に俺の居場所がなくなることがすでに決まっていた。


「引き継ぎは一通り済んだし、もう俺来なくていいんじゃないか?」


 俺は締め日の関係で今週末までここに出社しなければならない。しかしやることがないのでモチベーションがダダ下がりというわけだ。出来れば有給を使って次の仕事を探したいところなんだけどな。


「池之内さん、もう有給残ってないって言ってませんでしたっけ?」

「まあね、そうなんだよ」

「会社も冷たいですよね。奥さん……あ、すみません、嫌なこと思い出させてしまって」


 彼はこれまで共に働いてきた竹内たけうちという、俺より二つ下の後輩である。悪い奴ではないのだが、時々一言多いのが玉にきずといったところか。仕事に関しては多分俺よりも出来るんじゃないかと思う。第二フェーズに入るプロジェクトは彼が中心となって進められるのだ。


 その彼が言った通り、俺はもう有給を使い切っていた。嫁さん、というか元嫁さんと言うべきなんだろうが、彼女のために二十日分は溜まっていた有給を、昨年の冬に全て消化したのである。


「いや、いいさ。それより今日昼はどうする?」

「もう昼飯のことですか? まだ十時回ったばかりですよ」

「やることねえんだから仕方ないだろ」

「すみません、今日は彼女と約束してるもんで」


 竹内は同じビルに入っている別会社の女子社員と付き合っている。何でも大手企業の秘書課の子で、しかもその企業の社長令嬢だそうだ。俺もちらっと見ただけだがかなりの美人だったと記憶している。


「あと一週間で会えなくなる俺より、お前は彼女を選ぶというわけか」

「池之内さんとは今週でお別れかも知れませんけど、彼女とはこれからもずっと付き合っていくつもりなんで」

「フラれちまえ!」

「見苦しいですよ」


 そう言って笑う竹内を見ながら、俺は心の底から不公平感を感じていた。

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