九、片膝の汚れ

 久方振りの講義を終え、棗は取り留めもなく大学内を歩いていた。

 特に目的地があっての行動ではなかった。もうすぐ卒業してしまう大学を見返しておきたかっただけだ。四年目ともなると多少の飽きもあるが、これまでと異なる視点では見えているものと見えるものが全然違っているから新鮮なのだ。

 数ヶ月前まで棗は足下に視線を下ろし続けていた。ただ単に性格が暗かったからだけではない。物理的にそうせざるを得なかっただけだ。下ばかり向いて生きていく事しか棗には出来なかった。だから嬉しいのだ。ただ自らの脚で立って歩いていけるという事が。

 視点が違う。空気が違う。眩しさが違う。それこそ全てのものが違う。

 その為にこそ棗は悪魔と契約して魔女になったのだ。

「草津さん、元気だった?」

 不意に声を掛けられた棗は振り向いた。聞き覚えのある声。棗が悪魔と契約するまではそれこそ兄の燕よりも聞いたかもしれない声だった。振り向くまでもなかったかもしれない。構内で久し振りに見るその姿は友人の今井千夏に相違なかった。

 背中まで伸ばした黒髪、ピンク色のお洒落な眼鏡、短めながら清楚さを忘れないミニスカート。細かい点では似ているものの棗より数段女性として魅力的な姿が既に懐かしい。そう言えばうちの大学の眼鏡っ娘コンビなんて呼ばれてた気がするな、と今更の様に棗は思い出す。

 懐かしく思えてしまうのは、千夏と話すのが数週間振りになるからだ。この数週間、棗は千夏と全く連絡を取っていなかった。単に魔女の活動で忙しかっただけであって、千夏をないがしろにしたつもりはなかった。つもりはなかったのだが、やはりないがしろにしてしまっていたのかもしれない。大学に入学して以来、千夏は折を見ては棗の車椅子を押してくれていたというのに。

 千夏は優しかった。筋肉を落とさないための運動にも付き合ってくれた。入学当初は不安だった大学生活を過ごして来られたのは千夏の力がとても大きい。家では燕に支えられて来たが、家の外で支えてくれたのは間違いなく千夏だった。

 それでも最近の棗は千夏の事をほとんど思い出さなくなっていた。決して忘れたわけではない。その存在に思い至る事が少なくなっただけだ。より悪いかもしれない、と棗は罪悪感に囚われる。これでは千夏を車椅子の補助の為に利用していただけだと誰かに言われても否定出来なくなる。

 そんな事を表情に出せるはずもない。棗は罪悪感を押し殺しながら緩やかに微笑む。

「うん、元気だったよ、今井さん。今井さんこそ就活の調子どう?」

「それは言わないで」

 千夏が眼鏡を外して苦笑し、それが彼女の苦笑する時の癖だったと棗は思い出す。

「そう言う草津さんはお兄さんのお仕事を手伝う予定なんだよね?」

「あ、うん、その予定だよ」

 単に就職出来る当てが無いだけだが、対外的にはとりあえずそういう事にしている。一応小説家である燕の何の手伝いをするのかは自分自身でも疑問に思っているが。取材旅行の助手などだろうか。いやいや、そんな建前の言い訳はどうでもいい。

「いいなあ、草津さんのお兄さんって素敵だもんね。うちには弟が居るけど頼りないばっかりで困らせてばっかり。今日だってお弁当を持って行くの忘れて、私に高校まで届けさせたんだよ? いつまでも子供で困っちゃうよね」

「あはは、そうなんだ。あたしは末っ子だから兄ちゃんにそう思われてたりしてね」

「ねえ、そう言えばお兄さんって彼女居ないんだよね? どう、まだ募集してる?」

「どうかなあ」

 棗は首を傾げてみせるが、それは本当に知らなかった。そもそも燕が異性に興味を示すところを見た事が無い。妹の前で異性に興味を示す兄の姿もそれはそれでどうかとも思うが、それを前提として考えても燕が恋人を自宅に連れ込んだ事は皆無だった。外で会っているのだろうか。それとも本当に異性に興味が無いのだろうか。それは棗には分からないし、燕に訊こうと思った事すらも無かった。燕の事は好きだが、それとこれとは全く別問題なのだから。

 それにしても、と棗は考える。大学生活ってこんなに静かだったっけ、と。

 いや、構内は普段通り騒がしい。何を急いでいるのか走り回っている学生も居れば、ブレイクダンスの練習をしている学生も居るし、構内だと言うのに別れ話の様な事をしているらしいカップルまで居る。別れ話はもっと人目に触れない所でやってほしい……、ではなく、とにかく耳が痛くなりそうなくらいには騒がしい大学だった。普段通りに。

 それでも、棗にとっては静かだった。この大学構内には少なくとも下着泥棒の為に魔法を使う不届き者なんて居ないし、特に意味も無く突っ掛かってくる年下の女の子も居なかった。年齢不詳の幼女も居なければ、誰かの首を引き千切る白い魔女だって居なかった。そんな静かで平和な大学生活をこそ棗は望んでいたはずだった。望まなくてはならないはずだった。

 今からでも就職活動をするべきなのだろうか、と棗は考え掛ける。魔女の活動は刺激的ではあったが、自らの命と引き換えにしても経験したいほどの活動でもなかった。そもそもが真の意味での平穏で平坦な生活を望んで悪魔と契約したのだ。車椅子を手放して自由に歩き回るために、今でも自宅で魔女薬を調合しているのだ。これ以上の生活など望むべくもない。望んではならない。

 もうやめよう。白い少女の顛末までは責任を持って見届けるにしても、それが終わればきっぱり魔女の仕事を断ってしまおう。完全に手が切れそうもなければ、最低限の関わりで終わらせてもらえるようお願いしよう。そうして今井さんや兄ちゃんと何も無い平和で静かな生活を送っていこう。就職活動に戸惑ったりしながら大学を卒業しよう。きっとそれが一番いいんだよね。

 棗は強くそう思う。

 そう思うのに、願いはいとも簡単に打ち砕かれてしまうのだった。

「おいメガネ」

「花枝ちゃん……?」

「来いよ馬鹿メガネ、おまえに話があるんだよ」

 そうして突然現れた焦燥した姿の花枝に強く手首を掴まれ、棗はまた非日常の中に身を置かねばならなくなる。

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魔法少女(仮) 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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