六、白昼夢

 坂を駆け下りる寸前、棗は不意な違和感に囚われた。

 何度も感じた事がある気配、されど、現状では知覚するはずもなかった気配を、棗はその五体で捉えていた。有り得るはずがないとまでは言わないまでも、滅多に起こり得る事のないその現象に、棗は気持ちの悪い違和感を禁じ得ない。

 要は感じたのだ。魔力の気配を。

 通常では有り得ないはずだった。変身していない状態の魔女が、何者かの魔力の波動を感じる事などまず無いし、棗自身、それは初めての経験だった。無論、それは完全に存在しない可能性でもない。変身していない状態でも魔法を扱える魔女は数多い。同様に、変身していない状態でも、魔力を感じる事は不可能ではないはずだった。

 足を止め、棗は軽く周囲を見渡してみる。

 魔力の気配の発生源らしき場所は、即座に感覚的に分かった。

「山道……?」

 気が付けば、棗は呟いていた。

 いや、棗自身が立っている場所も山道には違いないのだが、それは舗装された道路の山道という意味だ。棗が感じた魔力の気配は、真の意味での山道、つまり、道路沿いのガードレールの外側にある、木々や雑草が生い茂る獣道の方から発されていた。

 何だろう、と考えつつ、棗はガードレールに手を置いて身を乗り出し、魔力の気配を五体ではなく視覚で探してみる。当然ながら、棗のその行動に深い動機は無かった。それは不意な物音の正体を確かめてみるとか、机の上に箱が置いてあったので開けてみるとか、その程度の動機からの行動だった。仮に同じ状況に置かれたのなら、誰しもが同じ行動を取っていただろうというくらい、人間にとって自然な行動だった。

 そして、棗は見つけた。見つけてしまったのだ。魔力の発生源を。

 最初は何が起こっているのだろうと思った。

 魔女である棗にも非日常的過ぎて、脳の処理が追い付いていないようだった。

 その場所には、非日常的な点が二箇所あった。

 一箇所目はあまりにも異彩を放つ少女がその場に立っていた事だった。

 上半身に長めの白いキャミソールを着用した高校生くらいの少女。ズボンやスカートなどは履かず、キャミソールの丈だけで見事にワンピースの如く着こなしている。それだけでも、山中で目にするには十分に非日常的な光景だが、それよりも一際目を引くのは彼女の肩よりも長く伸ばした髪だった。無論、肩よりも長い髪を有した少女など大勢居るが、流石に彼女の様な髪の色をしている少女はそうは居まい。

 純白だったのだ。彼女の日本人形のように整えられた長髪は。

 場違いこの上ないが、何故だか棗はその少女の異常性を、綺麗だ、と感じた。

 非日常的な点の二箇所目は、その白い少女の足元に誰かが倒れている事だった。

 倒れているのは、白い少女と同じ年頃の少女であろうと棗は感じた。女性物のブレザーの学生服を着用していたし、年格好も白い少女と同年代に感じられたからだ。ただ、確信は持てなかった。通常であれば、誰しもが一目見ただけで、そのうつ伏せに倒れ伏した誰かが少女かどうか判断出来るだろうが、残念ながら現在の状況ではそうはいかなかった。

 顔が判別出来なかったからだ。どうやっても顔の確認が出来なかったからだ。

 無論、棗の近視が悪化したわけではない。

 その誰かがうつ伏せで倒れているからでもない。

 無かったからだ、顔が。その誰かの頸から上が、丸ごと存在していなかったからだ。

 少し目を凝らすと、その誰かの首筋付近は大量の血液で真紅に染まっている事が分かるし、その切断面には筋繊維や血管が雑然とした姿で確認出来た。そのひどく荒々しい切断面は、恐らくその誰かの首が鋭利な刃物などで切断されたのではなく、何かの強大な力で無造作に引き千切り取られた事を意味しているのだろう。

「死んで……る……?」

 不意に棗は至極当然な事を呟いてしまっていた。

 生きてなどいるものか。

 頭全体を引き千切られて、生きていられる人間など存在するものか。

 当然、生きているはずなどないが、棗はそれを理解したくはなかったのだ。

 だが、その感情は、誰かが死んでいるという現実を理解したくないという、ある意味で普通の理由からではなかった。その誰かの死を理解してしまえば、認めてしまえば、棗はもう今までの棗ではあれなくなる。気楽に魔女稼業を行えていた以前の棗にはもう戻れなくなる事を、頭の何処かで分かっていたからだ。

 そして、その棗の考えは恐らく、今すぐにでも現実のものとなる事も確かだった。

 棗が魔力の発生源から白い少女と誰かの死体を発見して、まだ十数秒しか経っていなかったが、それは棗が多くの感情を脳内で駆け廻らせるには十分な時間だったし、白い少女が棗の姿を発見するにも十分過ぎる時間だった。気が付けば、恐らく棗の気配を感じたのであろう白い少女は、視線を上げて棗の姿をその視界に捉えていた。棗も彼女から目を逸らせずに、そのまま目を合わせてしまっていた。

 交錯する二人の視線。

 最初に棗が思ったのは、この子も眼鏡を掛けているんだな、という間抜けな事だった。遠目には分かりづらかったが、白い少女が伏せていた顔を上げた事で、掛けられている眼鏡がはっきりと確認出来た。全体的に非日常的な姿をしているその少女が眼鏡という日常的な装飾品を着用しているという事実は、棗の中でひどく印象に残った。

 そして、棗は更に確認してしまう。少女がその右手で、切断された人間の頭を鷲掴みにしていたのを。いや、切断されたのはなく、引き千切られた人間の頭か。とにかく、彼女の足元に倒れている誰かの頭である事には違いあるまい。これはやはり、白い少女がその誰かの頭を引き千切った事を意味しているのだろう。

 彼女が殺したのだ。その同じ年頃の少女を。

 殺されたのが少女と断定出来るのは、引き千切られた頭が間違いなく女性の物である事を漸く確認出来たからだ。倒れた誰かの服装と背丈から予測していた棗の考えが的中したわけだが、別に嬉しくも何ともなかった。

 それよりも気になるのは、引き千切られた頭のその誰かの表情が妙に……。

 それから先を、棗が考える事は出来なかった。

 不意に白い少女が棗の方向に向かって、足を出していたからだ。

 走るわけでもなく、ただ悠然と緩慢に白い少女は歩き始める。

 どうするべきなのだろうと棗は考える。ひどく現実感が無かった。夢でも見ているかの如き感覚が全身から離れない。人が死んでいるという事実、人を殺している魔女が存在するという事実。まるで悪い夢だ。何もかもが寝苦しい浅い眠りに見る悪い夢の様だった。

 白い少女が棗まで十数メートルの距離まで近付いただろうか。

 白い少女が無造作に右腕を振り上げた瞬間だった。

「棗さんっ!」

 秀美の甲高い声が耳に届いたかと思うと景色が暗転した。

 無音。暗黒。奇妙な浮遊感。三半規管が狂ってしまったかの如き感覚。

 多くの不快感に眩暈と頭痛を起こした棗が、その次に焦点が合った瞳で見たのは見慣れた場所と見知った顔触れだった。

「うわっ、びっくりした。秀美ってばもう戻って来たの、……って、棗?」

「おやまあ」

 不思議そうな顔で棗を見ていたのは瑞帆と真白だった。まだ気絶している永田の衣服を脱がし、全裸にして転がしているのはとりあえず気にしない事にする。この二人ならそれくらいの事はするだろう。いやいや、それよりも何が起こってしまったのか。不安に心臓が高鳴りながら周囲を見渡していると後頭部に強い衝撃を感じた。

 思わず涙目で後方に視線を向けると、普段の十倍以上苦い虫を噛み潰した様な表情の花枝が棗を睨み付けていた。その拳が握り締められているのを見るに、棗の後頭部を思い切り殴ったのは花枝だったらしい。

「この……、馬鹿メガネ!」

 花枝の激昂が棗の耳を痺れさせる。

 まだ事態が呑み込めない棗は、泣きそうになりながら項垂れるしかなかった。

「まあまあ、花枝ちゃん、抑えて抑えて。それはそうとすみません、棗さん」

 秀美の優しい声色には少しだけ落ち着けたが、彼女が何故謝っているのかは棗には分からなかった。秀美に限らず、花枝に限らず、事態の進行が何もかも突然過ぎた。結局は頭の回転が速い方ではない棗でしかない。所詮はその場で戸惑うしかない程度の小娘でしかないのだ、棗は。二十一歳の女子大生だと言うのに。

「移動魔法、使っちゃいました。棗さんが移動魔法苦手なのは知ってるんですけど、緊急事態だったんで、本当にすみません」

 秀美の説明でようやく棗にも事態が呑み込め始めた。

 秀美が自分を助けるために移動魔法を使ってくれたのだ。花枝と一緒に真白の店まで跳躍してくれたのだ。だから瑞帆と真白が不思議そうに首を傾げているのだ。予定より早過ぎる秀美達の帰還を疑問に思っているのだろう。

 秀美を責めるつもりはない。移動魔法が苦手なのは確かだけれど、あの場で逃げ出さなければどうなっていたのかは分からないのだから。

 そして、花枝が自分を殴った理由。棗はその理由も分かり掛けてきた。簡単な事だ。花枝は棗の軽率な行動をこそ苦々しく思って怒ったのだ。奇妙な魔力を察知したからといって、何も近付く事はなかった。自分の目で確かめる必要など一つも無かったのだ。更に言えば照れ臭い気持ちで秀美達から少し離れる必要も無かった。何もかもが裏目に出ていた。花枝が起こって棗の後頭部を殴るのも当然だった。

 だが、それでも、花枝は棗を気遣ってはくれたのだろう。本気で怒っているのならば『かみそり・花枝の事』だ。得意の切断魔法を使って、棗の髪を丸坊主にするくらいの事はしていたはずだ。新人魔女にとって不可抗力だったと思ってくれてはいるのだろう。

「ご……めん……なさ……」

 謝罪の言葉が形を成さない。今更になって恐怖が全身を駆け抜けていた。

 あたしは何を見ちゃったんだ? あの白い女の子が誰かを殺していたのか? それも首を引き千切るみたいな暴力的な方法で? そんなの普通の女の子に出来るはずがない。だったらあの白い女の子は魔女なのか? ううん、別にいい。あの白い女の子が魔女でも、誰かを殺してても別にいいよ。それはそれであの白い女の子が勝手にやった事なんだから。あたしには関係無い。あたしはただ不思議に思って見ちゃっただけなんだ。

 でも……。

 あたしは見ちゃったんだよね、あの白い女の子の殺人を。目まで合わせちゃったんだ。あんな白内障みたいな濁った白い瞳、初めて見た。あれは変身? こんな秋口にキャミソールみたいな肌寒い恰好で居るはずないよね? だったらやっぱり変身した魔女だよね? 秀美ちゃんのおかげであの場からは逃げられたけど、犯行現場を見られたあの女の子は何を考えるんだろう。目撃者を消そうとするんじゃないだろうか? いや、そんな事なんて気にしない? 分からない。殺人者の考えてる事なんて分かるはずない。

 多くの思考と感情が棗の中を目まぐるしく駆け巡った。

 湧くのは疑問と不安ばかりで、まるで眩暈する様で、結局棗はその場に大量に吐いた。

 正確には近場に居た花枝のシャツに、だが。

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