五、コンプレックス・イマージュ

 歩く、春の宵闇の路を。

 歩く、自らの足で大地を踏み締めて。

 一歩一歩、踏み締めて、棗は春の坂道を歩いていく。

 瑞帆達と別れ、変身を解いてから棗はゆっくりと帰路に着いていた。

 それは何気ない行為。何事でもない行為。誰しもが簡単に行える単純な行為。

 それでも、棗は自分が大地を踏み締められる事を神に、否、悪魔に感謝する。

 悪魔と契約した棗。それは恐らく、弱過ぎる彼女が弱いながらも選択した運命。

 その運命を選択した事で、これから先、多くの苦難や絶望が彼女を襲うのだろう。立ち上がれないほどに、艱難辛苦に打ちのめされてしまう事もあるだろう。それでも棗は後悔しない。後悔してはならない、と思う。

 棗はこんな何気ない事の為に、悪魔に魂を売ったのだから。

 彼と歩いていく為に、大きな裏切りに手を染めたのだから。

 だから、棗は後悔してはならないのだ。彼女の選択した物の為に。

「……うん」

 大地を踏み締めながら、誰の為でもなく、自らの為に棗は軽く頷いた。

 それは自らの想いの再確認。歩き続ける為の決心だ。

 不意に。

「何を一人で頷いてんだよ、気持ちわりー」

 全てを台無しにする、場にそぐわない冷淡な声がその場に響いた。

 肝心な場面を邪魔された気分で、棗は声の発生源と思われる自らの後方に振り向く。

「あー……」

 発生源を見つけた瞬間、自分でも非常に微妙に感じる声が棗の喉から漏れた。

「何を嫌そうな声出してんだよ、失礼な」

 声の発生源である彼女はやはり慇懃無礼な態度を崩さず、更に普段から変わらない苦虫を八匹くらいまとめて噛み潰した様な、非常に不機嫌極まりない苦そうな表情も崩さずに続けた。どれだけ苦い表情なんだろう、と棗は常日頃から思っているが、声の発生源の彼女は本当にそうとしか表現し得ない苦い表情を四六時中浮かべているので、余計に始末に悪いのだった。

「別に嫌ってわけじゃないけど……」

 棗はその彼女の苦い表情から出来るだけ目を逸らしながら、小さく呟いた。

 非常に胡散臭いと思われるだろうが、実のところその棗の言葉に嘘は無かった。

 棗は別に彼女の事が嫌いではないし、嫌というわけでもない。単に苦手なだけだ。

 しかし、本当かよ、とまたも苦い顔で彼女が呟くので、棗は話を逸らす事にした。

「そんな事よりどうして花枝ちゃんが此処に居るの?」

「いつも言うが、ちゃん付けで呼ぶな、気持ちが悪い」

 彼女……、花枝が棗の言葉尻を狙い撃ち、不躾な言葉を更に重ねる。

 取り付く島も無いとはこの事だ。彼女を相手にすると、話を逸らす事すら至難の業だ。

 棗は軽く嘆息し、少しの間だけ口を噤む事に決めた。

 それにしてもちゃん付けくらいで怒らなくてもいいじゃない、と棗は胸の内で囁く。

 性格の悪い花枝。慇懃無礼な花枝。常日頃から苦い表情を浮かべている花枝。

 花枝は魔女仲間の殆どと仲良くはないし、仲良くなろうともしていない。花枝は誰にでも口が悪く、人の神経を逆撫でする様な事ばかり口にする。花枝は喧嘩早く、気に入らない事があればすぐに癇癪を起こしては他人と衝突する。花枝に関しては、本当に困った点しか思い浮かばない。

 だが、それでも、花枝を完全に無視する事を棗が躊躇っているのも、また確かだった。

 哀しい目をしているから、とか、冷たい手をしているから、とか、斯様な映画や漫画の様な台詞を言うつもりは毛頭ない。そもそも棗にはどんな目が哀しい目なのかも分からない。他人の目を見て感情を推察出来るほど老成していないし、他人の感情を推察出来ると考えられるほど思い上がってもいない。

 棗が花枝を無視出来ないのは、もっと至極単純な理由である。簡単な事だ。花枝の身長は背の低い棗よりも更に低く、童顔の棗よりもまだ幼かったからだ。身長は百四十五センチメートル前後。ショートボブの栗色の髪が余計に彼女に幼い印象を与える。それも瑞帆の様な嘘臭い少女とは異なり、花枝は真の意味で少女と言える雰囲気を漂わせていた。

 年齢はまだ十四歳なのだと、前に秀美から聞いた事がある。

 十四歳。十四歳なのだ。その年齢に棗は多少の驚きを隠せない。

 魔女の契約を悪魔と結ぶには一つ条件がある。殆ど無条件で詐欺みたいな契約を結ぶくせに、何故かどの悪魔もその条件だけは譲らないらしかったし、棗の専属の悪魔もそれだけは譲ってくれなかった。

 その条件は人によっては大した条件ではないかもしれないが、それでも棗にとっては少し無茶のある条件だった。偶然にもと言うべきか、どうにかその条件を満たしていたため棗は魔女になる契約を結べたのだが、花枝は十四歳でその条件を満たしているわけだ。

 十四歳にして、恐らくは自ら魔女になる条件を満たした花枝。その花枝が何を思い、何を遂げようとして魔女になったのかは分からないし、これから先も分かる事はないだろう。ただ、そこには自分と同じく何かを犠牲にしても成し遂げたい物があったのだろう、と棗はそう感じるだけだ。まあ、花枝の事を分かろうとしたところで、花枝自身が拒否する事は間違いないだろうが。

 棗は何となく少しだけ花枝に視線を戻してみる。

 すると、やはり花枝は不機嫌に、苦虫を更に噛み潰して言った。

「何を急に黙りこくってるんだよ。そんなにアタシと話したくないのか? ん?」

 どうしろと言うのか。

 言葉を掛けてみても不機嫌、口を噤んでも不機嫌ではどうしようもない。

 棗は深く嘆息した後、その場に居るはずの悪戯好きの彼女に後を任せる事にした。

 ほんの少し声を張り上げ、助けを求めて呼び掛けてみる。

「隠れてないでもう出てきてよ。分かってるんだから。ねえ?」

 夕暮れの比治山の山中に響く棗の悲痛な訴え。

 そう。花枝が此処に居る以上、当然ながら彼女もこの付近に居るはずなのだ。傍に居るくせに、わざわざ先に花枝を棗と接触させ、傍から観察しているという意地の悪い行動を取っている彼女が。

 数秒だがひどく長く感じられる沈黙の後、不意に棗は背中に柔らかい感触を感じた。

「あはは、そんな泣きそうな声を出さないで下さいよ、棗さん」

 柔らかい感触の持ち主の彼女は、軽く悪戯心を含んだ声色で棗の耳元に囁く。

 振り向くまでもない。秀美が空間を跳躍して後ろから棗に抱き付いてきたのだ。これまた言うまでもなく、柔らかい感触の正体は秀美の胸の感触だった。しかし、あれ? と思った棗は、秀美に抱き付かれたままで首だけを後ろに回してみる。秀美の意外にも大きめの胸の感触は別に問題なかったが、変身している秀美は胸にさらしを巻いているはずなので、これほどまでに柔らかい感触をしているはずがないと思ったからだ。

 その答えは思いの外に簡単だった。

 振り向いて確認した秀美の姿は変身後の学ラン姿ではなく、前に量販店で購入したと自慢げに言っていた、ラフながら女性的な印象を与えるセーターとハーフパンツを着用した姿だった。どうやら空間を跳躍した一瞬後に変身を解除し、その後に棗に抱き付いてきただけらしい。道理で胸の感触を感じるわけである。

 棗は表情を少し緩め、でもさ、と秀美に向けて軽く囁いた。

「酷いよ、秀美ちゃん。あたしたちの様子、遠くで観察してたでしょ?」

「いやー、棗さんと花枝ちゃんの組み合わせが見たくって、つい観察しちゃってました」

 悪戯そうな表情を崩さないまま、棗の言葉に秀美が無邪気に笑う。

 本当にもう、と言葉だけは怒りつつも、気が付けば棗も軽く微笑んでいた。

 悪戯好きながら、憎めない子だった。彼女の表情を見ていると文句を言う気も失せてしまう。やっぱりあたしは秀美ちゃんの事が好きなんだろうな、と棗が思った瞬間、妙に痛い視線に気が付いた。棗の刺し殺さんとするばかりの強い不満を有した視線。無論、その視線の発信源は眼前に居る不機嫌な少女に違いなかった。

 普段から苦い顔をしている花枝だったが、今の花枝の顔はその普段の何倍も苦そうだった。眉間に皺を寄せ、口元も引き攣り、顔面には少し青筋が立っている。そう。苦さと怒りを器用に同時に表現すると、丁度現在の花枝の様な表情になるだろう。

「えっと……」

 何を言うべきなのか、すぐに頭に浮かんで来ない。

 どうしたものかと棗が口籠っていると、それを察したのか秀美が棗の背中から離れ、踊る様に軽やかな足取りで花枝の後方に回り、花枝の頭に手を置いてから自らの身体を乗せた。簡単に言えば、二人でトーテムポールの如き体勢を取っていた。

 斯様な馴れ馴れしい行為を嫌いそうな花枝だが、意外にもと言うべきか秀美のその行為を拒否したり振り払ったりはしなかった。それどころか不機嫌な表情が若干緩み、世にも珍しい優しげな相貌を覗かせている。勿論、棗が秀美と同じ行動を取ろうものなら、何の迷いもなく棗の四肢を切断しているだろう。それだけ秀美は花枝にとって特別なのだ。棗にとっての彼と同じように。

「どうしたんよ、花枝ちゃん。私と棗さんの仲に妬いちゃったん?」

 悪戯な笑顔を浮かべた秀美が意地悪く聞くと、花枝は顔を俯かせて視線を落とした。

「違うやい」

 そう言いつつも、花枝の頬は少し赤く染まっているように見えた。棗の扱いとは天と地ほどの違いがあると言わざるを得ない。花枝がその思いやりの百分の一でも棗に向けたのなら、棗と花枝はとてもいい友人になれるだろう。そんな事は未来永劫無いだろうが。

「照れるなよー」

「違うやい違うやい」

 二人は棗を気にする事もなく、優しい表情で更にふざけ合っていた。外見は全く似ていないが、それでも傍から見ていると仲の良い姉妹に見えなくもない。性格は正反対に見えつつも、何処かで繋がり合っている物があるのだろう。あまり関係ないが、よく見れば花枝の着ている服も量販店で見かけた事がある服だった。恐らく二人して仲睦まじくお互いの服を選び合ったに違いない。

 その仲睦まじい二人を見守っていてもよかったのだが、残念ながらこの肌寒い春の夕暮れにいつまでもこうしているわけにもいかなかった。棗としてもそれほどまでに暇と言うわけでもないのだ。花枝のその後の反応が恐ろしくはあったが、嘆息した後、意を決した棗は気になっていた事を秀美に尋ねる事にした。

「ところで秀美ちゃん達はどうしてこんな所に? あたしに何か用でもあったの?」

 その棗の言葉に、おっと、と秀美が呟いてから、頭を掻きながら続ける。

「そうでした。忘れちゃってました。実はですね、あの下着ドロ君を真白さんに引き渡した後、棗さんにお別れの言葉も言ってなかったのを思い出しまして、これは失礼極まりないと思って、舞い戻って来た次第なのであります」

 何処まで本気なのかは分からないが、例えお世辞の様なものだとしても、棗は秀美のその言葉が純粋に嬉しかった。とある事情で過去からそう人付き合いが多い方ではない棗にとって、秀美の様に自分を気に掛けてくれる人間が居るという事は、想像以上の喜びを与えてくれる。

 と。

 不意に少しだけ表情を崩し、秀美が得意の悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「それと……、この我儘娘が真白さんの店には居たくないって言い出しまして」

 この我儘娘と言うのは、無論花枝の事だった。花枝のこめかみに自らの拳を軽く押し当てながら、秀美は大仰にわざとらしい溜息を吐いてみせる。

「まったくもう……、どうしてこの子はこんな我儘な子に育っちゃったのかしらん」

 だが、その言葉とは裏腹に、秀美は軽く微笑んでいた。花枝も秀美に合わせるようにしてやはり珍しい笑顔を見せている。そのやりとりは、この二人が本当に仲の良い、強い信頼関係に結ばれた二人であるのだ棗に感じさせた。

 そうして微笑み合いながら、棗には決して浴びせない優しい声色で花枝が呟く。

「仕方ないだろ。せっかく秀美と一緒に帰ろうと思って待ってたのに、よりにもよってあの変態を連れて来るのが悪いんだ。あんな淫獣と一秒でも同じ空間に居るくらいなら、この根暗メガネと顔を合わせてた方がまだマシだっての」

 色々と酷い言われ様だが、花枝のその呟きで棗は現在の状況の全てが把握出来た。

 花枝の言うあの変態とは瑞帆の事であり、根暗メガネは考えるまでもなく棗の事だ。

 要は秀美の仕事の帰りを真白の店で待っていた花枝が、秀美と一緒に現れた仲が悪いと言うか根本的に馬の合わない瑞帆の姿を見つけ、それに機嫌を損ねて何処か瑞帆の居ない場所に連れていけ、と秀美に駄々をこねたのだろう。その結果、何処に行こうかと考えた秀美は先刻、棗に別れの挨拶を伝えていなかった事に気付き、折角だから移動魔法で花枝と共に棗の下に舞い戻って来たというわけだ。

 この情報量でここまで把握出来るあたしって凄いなあ、と自負しそうになったが、苦笑してから棗は自分の頭を振ってその考えを振り払った。自画自賛が気恥ずかしくなったからではない。普段から彼女等三人の関係をぼんやりとでも見ていれば、誰にでも推理出来る事だったからだ。

 花枝はその性格ゆえに秀美以外の殆どの人間と良好な関係ではないが、取り分け瑞帆との関係は本当に本気で本質的に良好ではなかった。性格的に合わないだろう事は二人の性格を見るだけで想像に難くないが、更に瑞帆の方が花枝に嫌われているのを自覚しつつ、それでいて遠慮なく下世話で下品な話を嫌がらせとして振り続けているのだから、斯様な二人に良好な関係など築けるはずもない。根本的に合わない二人なのだ。

 なるほど、と棗は秀美達に聞こえないように小さく呟いた。その言葉は花枝と瑞帆の仲の悪さに対してのものではなく、つい先刻の秀美の言葉についてのそれだった。

 秀美は先刻、棗に別れの挨拶をする為に戻って来たと言った。勿論、その言葉に嘘は無いだろうが、この場所に戻って来たのは棗に挨拶するためと言うより、花枝の我儘に付き合ってあげるためという意味合いが強いだろう。花枝が瑞帆と同じ場所に居たくないと言い出さなければ、秀美はそのまま花枝と真白の店でラーメンを食べていたに違いない。

 その現実に一抹の寂しさを感じはしたが、棗はそれを言葉に出したり、表情に出したりはしなかった。寧ろ心の奥底に沈め、その事についてそれ以上考えないようにした。理由は何であれ、秀美が棗の事を少しは気に掛けていたのは紛れもない事実ではあるし、そういった感情を人に見せないというのが棗自身の性質であったからだ。

「それより秀美」

 不意に花枝が普段の苦そうな表情に戻って言った。

「このメガネへの挨拶は終わっただろ? 早く帰ろうぜ」

 相変わらず不躾で遠慮のない発言だが、それはそれで花枝らしくはあった。

 棗は少しだけ苦笑し、何気なく秀美に視線をやると、彼女も棗の方に視線を向けながら軽く苦笑していた。そうして二人で視線を交わして首を傾げ合うと、棗が口を開くよりも先に秀美が花枝を嗜めた。

「こらこら。そういう態度は失礼なんだって、いつも言ってるじゃん? 礼儀正しくとまでは言わないけど、ちゃんとしたマナーくらい覚えようねー。私、知ってるんよ。花枝ちゃんが本当は優しい子だってねー」

「誰が本当は優しい子だよ。茶化しながら言っても説得力が無いぞ」

 だが、そう言いつつ、その後、花枝はそれ以上秀美に帰宅を催促する事は無かった。棗に謝る事も、それどころか視線を向ける事すらなかったものの、それでも花枝の態度としては格段に柔らかいものであるのは間違いない。本当に優しい子なのかどうかはともかく、彼女が秀美の言葉だけは聞く事はやはり確かなようだった。

 そんな複雑な精神性を有している花枝の頭を撫でながら、それじゃあ、と秀美が棗に軽く切り出した。

「一緒に帰りましょう、棗さん。棗さんとは一度ゆっくり話してみたかったんすよ」

 その申し出は非常に嬉しい物だったが、だけど、と棗は少し口籠る。

 それだけの仕種で棗が何を言おうとしているのか察したらしく、秀美は片目を瞑って可愛らしく応じた。

「分かってるっすよ。棗さんって移動魔法が苦手なんすよね? 便利なのに、一度も私の移動魔法に便乗しないんですもん。苦手なんだろうなってのは思ってました。まあ、確かに原理も理屈も何もあったもんじゃない胡散臭い魔法ですからねー、アレ。自分の得意魔法の事をそう言うのも何ですけど。でも、大丈夫ですよ、最初から歩きで電停まで見送るつもりだったんで。宇品の方っすよね、棗さんの家」

 秀美のその言葉に、棗はすぐに表情を向ける事は出来なかった。

 自分は今、どういう表情をするべきなのだろう、と棗は視線を散漫とさせてしまう。現在の慣れない状況に感情と思考が反応し切れていない。誰かに気を遣われる事に慣れていないのだ。花枝は言うまでもなく、瑞帆も他人に対して気配りを行う性格ではないし、友人がほぼ居ないに等しい棗にとって、彼以外の人間が自分に気を配ってくれるという現象は皆無に等しかった。故に棗は混乱してしまうのだ。

「あ……、ありがとう……」

 視線を伏せ、自らの表情すら自分で分からないまま、棗はそう呟いた。

 秀美の方を見る事も出来ず、目を伏せたままで比治山の坂を下っていく。

 何故だかひどく申し訳がなかった。

 秀美と仲良くなりたいとは思っていたが、優しくしてもらいたいわけではなかった事に、棗は気付いてしまっていた。勿論、優しくしてくれる事自体は嬉しかったが、自分が優しくしてもらえるだけの価値のある人間だとは、棗にはどうしても思えなかった。気には掛けてもらいたいが、優しさに触れる事が恐ろしかった。

 だからこそ、戸惑う。

 だからこそ、棗は自らの感情に名前を付けられず、視線を伏せてしまう。

 だから。

 棗は秀美達を置いて、少し足早に一気に坂を駆け下った。

 別に二人から逃げ出したわけではない。少し落ち着こうと思っただけだ。

 距離を取り、いやに騒ぐ鼓動が落ち着くまでの時間を稼ぎたかった。

 大丈夫。一分もあれば、痛む胸も、辛い鼓動も、溢れる感情も治められる。妙な行動を取った自分を秀美達が若干怪訝に思うかもしれないけれど、それだけで終われる、と棗は思った。秀美達の怪訝な表情には、ちょっと風を感じてみたくなっただけ、と気障な台詞で誤魔化したりして、秀美と花枝に呆れられたりして、その後には、きっと普段通りの草津棗であれる。新人魔女で、瑞帆にからかわれたり、秀美に笑い掛けられたり、花枝に苦い表情を向けられたりする草津棗であれるはずだ。そんな草津棗でありたいのだ。

 だから、少し早足になるだけ。落ち着いて、深呼吸をする時間を作るだけだ。

 それだけだった。

 それだけだったのだ。その時に取った棗の行動は。

 だが、その棗の行動が、幾多の運命を無惨に決定付ける事になった。

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