四、旅光年空へ

「どもー、毎度ありがとうございます。荷物の運搬は何でもお任せ。いつでも何処でも安全安心の飛ばし屋・秀美でございます。棗さんに瑞帆さん、毎度のご愛顧、どうもありがとさんですー。おおきにおおきにー」

 瑞帆が携帯電話を操作してメールを送信した数秒後、秀美は普段通り何の前触れもなくその場に顕現し、普段と何ら変わりの無い陽気な様子で軽い会釈を重ねていた。そのどこまでも普段通りの秀美の様子に、先刻まで少なからず感じていた仕事の重圧から解放された棗は思わず頬を緩めてしまう。

 秀美と会うのはこれで三度目だったが、初対面の時から変わらない明るさを周囲に振り撒いてくれる彼女に棗は好感を持っていた。まだ数度会話を交わしただけの関係ではあるが、いずれ二人きりでゆっくり話をしてみたいと考えている。

「お久しぶり。相変わらずいきなりのご登場、お疲れ様、秀美ちゃん」

 上げた右手を軽く振ってから、棗は柔和な表情で秀美に会釈する。

 好意的な棗の様子を嬉しく思ったのか、更に晴れやかな笑顔を浮かべた秀美は、その場で右足を軸に一回転してから膝を付き、急に神妙な顔付きになる。頭を垂れ、足の横に手を付いたその姿は、漫画や映画などでよく見る騎士のようだった。

「いえいえ、棗女王様こそお疲れ様でございます。またお会い出来て光栄にございますです、はいー。ワタクシめなどに労いのお言葉、誠に勿体のうございます。ワタクシめの望みはひとえに棗女王様の幸福のみであります、はい。それでですねー……」

 不意に。

 秀美のその三文芝居に飽きているのか、見ていられなかったのか、瑞帆がその場に落ちていた小石を拾い上げ、秀美に向けて軽く投げ付けた。軽くとは言え、その投擲された小石は秀美の額にぶつかる軌跡を描いている。これぞまさしく何事にも容赦のない瑞帆の、あんまりと言えばあんまりな突っ込みと言えるだろう。

 だが、小石が額に衝突する寸前、唐突に秀美がその場から消失した。

 顕現した時と同様、何の前触れも見せない消失だった。

 一瞬だけ訪れる沈黙と停滞の時間。

 と。

「相変わらず容赦ないなー。勘弁して下さいよー」

 陽気な声が響いたかと思うと、再度唐突に棗達の眼前に顕現した。

「相変わらず馬鹿な事してるからでしょうよ。これを期に芸風を変えるとよいよ」

 驚いた様子も、悪びれた様子も見せず、瑞帆が肩を竦めて軽く唇を歪める。

 それに合わせたのか、急に顕現した秀美も軽く唇を歪め、やだよ、と返答した。

 その様子を見て、相変わらずなのは二人のやりとりの方だ、と棗は思っていた。

 陽気な秀美に、多少現時主義な面のある瑞帆。この二人は顔を合わせると、いつも同じ様なやりとりをしている。じゃれ合っているのか、お互いにからかい合わずにはいられないのか、とにかく傍から見ていても非常に仲のいい二人だ。恐らく新参者の棗などでは想像も出来ない信頼関係が築かれているに違いない。

 あたしも誰かとそんな関係になれるかな……?

 棗の脳裏にそんな考えが過ぎったが、少し苦笑してそれを振り払った。それが出来るのは、恐らくまだ遠い未来の事だろう。自らの気持ちすらも未だに何ら整理出来ていないのに誰かと信頼関係を築きたいと思うなど、まったくおこがましい考えに違いない。

「どうしたんすかー、棗さん? ちょっと顔が暗いっすよー?」

 またも不意に秀美の声が響く。

 棗がその声の方向に顔を向けた瞬間、またも秀美がその場から消失した。

 あっ、と棗が思う間もなく、次の瞬間には背面から誰かに両頬を軽く抓られていた。

 その誰かはどこまでも陽気な態度を崩さず、楽しげな声色を響かせる。

「暗い顔してたら運気が逃げますよー。悲しい時でもスマイルですよー、スマイル」

 振り返るまでもない。棗の両頬を抓っているのは秀美だった。

 棗はほんの少しだけ微笑んでから、ありがとう、何でもないよ、と秀美の両手首を自分の両手で包み込んだ。両頬を抓られながらの言葉なので変な発音になってしまったが、どうやら何を言っているのかは分かってくれたらしく、秀美は棗の頬から指を放してからまたしてもその場から消失した。

 次の瞬間、秀美が顕現したのは、棗から手を伸ばせば届く距離の真正面だった。

 陽気さの中に温かみのある笑顔で、秀美は棗の両手を優しく両手で包んだ。

「よかった」

 彼女の囁いてくれるそのたった四文字の言葉に、棗は少しだけ救われる。

 自分より年下で、小柄な自分より少しだけ背の高い少女に、棗はいつも救われている。

 救われてしまっている。それがよきにしろ、悪きにしろ。

 棗の魔女の仕事仲間、坂下秀美はまだ十七歳だった。

 彼女の得意魔法は既に何度も使っているようにテレポーテーション……、つまり瞬間移動だ。原理的には悪魔の棲んでいる魔界と呼ぶべき異空間に干渉し、その異空間から現代科学においても存在のみは提唱されている瞬間移動に必要である膨大なエネルギーを含有するというエキゾチック物質を魔法によって抽出し、移動座標の固定に必要である膨大な演算を悪魔の技術で製造された生体量子コンピューターにアクセスして処理する事で可能にしたものであるらしい。

 棗どころか秀美自身もよく分かってはいないし、別に特に知らなくてもよかった原理なのだが、棗が初めて秀美と会った時、秀美の契約した悪魔が頼んでもいないのに事細かに説明してくれた。棗がそんなに好きではない珈琲三杯を飲み干すくらい長い時間を掛けて本気で嫌気が差すくらい丁寧に説明して下さった。どうも秀美の契約した悪魔は等身大のカブトムシの姿をしているくせに科学的な説明が大好きな悪魔らしい。

 因みにそのカブトムシの説明の際、それまで棗と一緒に居た瑞帆と秀美、そして花枝はいつの間にか揃ってその場から居なくなっていた。長ったらしい説明を聞きたくなくて逃げ出した気持ちも分かるが、せめて棗としては初対面の悪魔と二人きりになる気まずさを察してほしかった。カブトムシだし。いや、棗を気遣って珈琲を何度も入れてくれるくらいには、気配りの出来る紳士であったのが不幸中の幸いではあったが。カブトムシだけれども。

 いや、カブトムシの事はどうでもいい。今は秀美の話だ。

 その秀美は主に花枝と組んでいる魔女なのだが、頼まれれば他の魔女の仕事も手伝う便利屋的な存在であり、瑞帆も好んで秀美に仕事を頼んでいる。仕事内容は先刻秀美自らが発言していたように、瞬間移動の魔法を生かした荷物運搬を主としており、その点で多くの魔女達から重用されているらしい。勿論、その底抜けに明るい態度、長髪をポニーテールに纏め、一重の細目ながら常に微笑んでいるように見える爽やかな雰囲気から、瞬間移動の魔法を抜きにしても様々な魔女から人気がある。

「それにしても……」

 不意に呟いて、棗は眼前に居る秀美の漆黒の学生帽に軽く手を置いた。

「悪魔って本当に何を考えて生きてるんだろうね……」

 嘆息がちにそうこぼすと、あたしも同感っすよ、と秀美は軽く苦笑する。当然ながらその二人の言葉は悪魔の存在定義について哲学的に語り合おうとしたそれではない。勿論、二人の言葉は秀美の変身後の服装について語り合ったものだ。

 瞬間移動を何度も使用している事から分かるが、秀美は既に魔力を解放させている。

 それはつまり、既に変身を終えているという事だ。

 それはつまり、現在の秀美の番長風の学ラン姿は彼女の趣味ではないという事だ。

 ご丁寧に目を覆う箇所に丁度切れ目が入った学生帽を被らされ、白いさらしを胸に巻かされ、挙句の果てに履物は下駄という有様だった。ボーイッシュな雰囲気を持つ秀美によく似合っている服装であるだけに、余計に物哀しさが漂っている。それが秀美の変身後の姿だった。毎度の事だが、棗は悪魔の服装に対するセンスを疑わざるを得ない。

 更に問題なのは、現在棗もセーラー服を着させられているために、秀美と二人で並ぶと無駄にお似合いになってしまっているという事だった。そういった服装をしているのが一人だけならば、誰かが傍から見ていたとしても罰ゲームか何かだと好意的に解釈してくれるかもしれないが、二人揃ってしまうとそういう趣味なのだと誤解されかねない。どういう趣味かと問われても説明したくはないが。

 そう棗が思っていると、瑞帆が厭らしく笑みながら棗と秀美の背中を叩いた。

「相変わらずさあ、アンタ達、二人並ぶとコスチュームプレイ中のガチ百合カップルっぽいよね。勿論、『プレイ』は性的な意味ね。秀美が男装して攻めて棗が女装して受ける。そういう感じでしっぽり愉しむ素敵な趣味をお持ちのガチ百合カップルだね。素敵なパートナーをお持ちで実に羨ましいよ。結婚式には呼んでくれ」

「そういう事は、思ってても口に出してくれなくていいよ……」

 棗が肩を落とすと、瑞帆は更に大きく笑んで余計に強く二人の背中を叩く。

 小さいくせに、発言だけじゃなくて行動自体もおばさんっぽいなあ、と背中を叩かれながら棗は不意に思った。無論、その可憐な少女の肉体は、瑞帆の仮の肉体なのだろうという事は何となく棗にも分かってはきているのだが。

「それより、秀美?」

 急に真顔になって、瑞帆が真剣な口振りで言った。

「そろそろこの下着泥棒、ちゃっちゃと運んでくれないかね? 陽も沈んできたし、肌寒い宵闇の風に吹かれて体調を崩したくないしさ。秀美達がガチ百合で乳繰り合うのは仕事の後にしてくれると助かるね」

 この下着泥棒というのは、当然ながら永田の事だった。棗の魔法薬で気絶して十数分、永田は未だに眼を覚ますどころか身動き一つ出来ていなかった。それはそうだ。棗は魔法薬をその様に調合している。少なくともあと二時間以上、永田は気絶という名の眠りの中にあるだろう。

 秀美は少し苦笑したように口端を歪め、それからまた軽く跳躍する。

 一瞬後、顕現したのは、手を伸ばせば倒れ伏す永田に届く距離の場所だった。

 倒れ伏す永田を見下ろしつつ、秀美は残念そうな口振りで呟く。

「話には聞いてたっすけど、この人が下着泥棒ですかー? 一見、いい男なのに、残念な趣味をお持ちっすねー。大体、女物の下着なんか盗んで、こういう人達は何するつもりなんですかねー? いやー、ナニするつもりってのは分かるんすけどねー」

 言葉の前半では残念そうにしていたものの、後半、秀美は厭らしく笑っていた。

「誰が上手い事を言えと」

 そう吐き捨てた後、瑞帆は軽く風圧を操作して秀美の頭を軽く小突いた。

 秀美も瑞帆にそうされる事は予測していたようで、頭を掻きながら破顔する。

 つられたように瑞帆も意地悪く微笑んでいる。

 やっている事は下らないが、それでも二人とも晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 やっぱりいいコンビだ、と思いながら、棗も気付けば軽く微笑んでいた。あたしも前よりは笑えるようになったんだなあ、と棗は一抹の寂しさと小さな喜びを同時に感じる。動機はどうあれ、理由はどうあれ、棗は最近、些細な事でも笑えるようになっていた。それが良い事なのか悪い事なのか、それは棗自身にも分からないけれども。

「さってと」

 伸びをしながら軽く笑みつつ、秀美が自らに言い聞かせるように呟いた。

「瑞帆さんの言うとおりちょっと肌寒くなってきましたし、この下着泥棒さん、さっさと運んじゃうっすね。棗さんと愛欲と肉欲に溺れた禁断の放課後を過ごすのは、その後のお楽しみって事で」

 その言葉には棗も瑞帆も流石に突っ込まなかった。

 秀美の方も突っ込みを期待してはいなかったようで、無言のままにその場にしゃがみ込むと、倒れ伏す永田に手を伸ばして彼の首筋に軽く触れた。前に棗が秀美から聞いた話なのだが、秀美の移動魔法は彼女に触れている物を彼女の記憶する指定の場所に瞬間移動させられる類の魔法らしい。無論、正確に能力、効果範囲などを突き詰めて考えるのなら、その説明ではかなり語弊があるらしいのだが、概ねはそういう魔法だと考えて実用的には問題ないとの事だった。

「んじゃ、ちょっくら真白さんのお店まで跳んできますね」

 秀美がそう言った瞬間、不意に瑞帆が声を上げた。

「あ、ちょっと待った」

「何すか?」

「下着ドロ君だけ運んでもらう予定だったけど、やっぱウチも真白の店まで連れてってくれない? ここから元宇品まで帰るのも面倒だし、ちょっと真白に話しておきたい事もあるしね。運賃は少しだけ多く払うからさ、頼むよ」

「水臭いっすね。長い付き合いだし、瑞帆さんは無料で運んであげるっすよ」

 秀美が厭な素振りも見せずに答えると、悪いね、と微笑んだ瑞帆は盗まれた下着を詰め直した永田の鞄と自転車を秀美の近くにまで運ぶ。その彼女の姿を見て、依頼された仕事を単純に終わらせるだけでは一流の魔女とは言えない、と彼女が前に言っていたのを棗は思い出していた。瑞帆の言うように、確かに標的の荷物をそのままにしていては周囲の住民には大迷惑だろう。特に大量に女性物の下着が詰まった鞄など放置された日には、それを発見した住民も大いに対応に困るに違いない。

「ときに棗?」

 永田の荷物を運び終えた瑞帆が、秀美の腕に触れながら小さく首を傾げて言う。

「アンタはどうする? 一緒にラーメン食べる約束をしてた気がするけど、アンタもウチと一緒に秀美に運んでもらう? 後で合流するのも二度手間だし、そっちの方がアンタも楽でしょ? ま、アンタ次第だけど」

「ううん、遠慮しとく。二度手間を掛けさせるのも悪いし、ラーメンは今度にしようよ」

 棗は悩む事もなく、その瑞帆の厚意を即答で断った。失礼かもしれなかったが、棗としてもそれは譲れなかった。実を言うと棗は移動魔法が苦手だった。様々な魔法を利用しておいて今更ではあるが、どうしても移動魔法だけには抵抗がある。特に深い理由はない。過去にSF小説で、ワープとは移動技術ではなく、対象の殺害・再構成技術なのであるという説を読んで以来、瞬間移動にいい印象を持っていないだけだ。

「そ? じゃあ、ラーメンはまた今度って事で」

 気を悪くした風でもなく、軽い感じで瑞帆が応じる。長い付き合いではないが、瑞帆も棗が移動魔法を苦手としている事を何となく分かっているのだろう。それ以上深く棗を誘う事もなく、秀美に視線をやると軽く頷いた。跳躍してくれ、という意味だろう。

「報酬は明後日くらい、いつもの口座に振り込んでおくから」

 その言葉を最後に、一瞬後には秀美、永田と共に瑞帆はその場から消失していた。

 手を振って見送る時間すらなかったが、まあ、いいか、と棗は思い直した。どうせ瑞帆とは会おうと思えばすぐに会える。連絡先も知っているし、呼べば気軽に応じてくれるだろう。ラーメンを一緒に食べるのはその時で十分だ。そう軽く考えていた。

 予知魔法を有さぬ棗には、気付きようもなかったのだ。この次に二人が再会する際、棗自身も多少なり予感していた何かが予測よりも遥かに早く生じ、それが周囲をも大きく巻き込んで、取り返しのつかない事態へと変貌してしまっている事に。

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