三、風は予告なく吹く

 標的を視界に捉えた時、常にペースを崩さない瑞帆が珍しく感嘆の声を上げた。

「おやおや、これは、これは……。これは相手を流石と言わざるを得ないね」

 棗の方も驚きを隠せなかった。信じ難い光景が眼前に広がっていたからだ。

「こんなの初めて見たよ」

 つい棗はそう呟いてしまっていたが、それも無理のない話だった。

 棗達の眼前に広がる光景はあまりにも常軌を逸していた。

 比治山スカイウォーク傍に位置する登り坂において、何と標的は自転車のペダルを漕ぐ事もなく、しかもハンドルから手を放して、悠々と登り坂を進んでいたのである。いや、正確に言えばペダルの上の足は動いてはいるが、坂道でも涼しげな表情からはペダルを別の力で動かしているのは一目瞭然だった。

 この現象こそ常軌を逸していると言わずに、何と言うべきだろう。

 幻視を有する魔女の知人である真白に、標的は自転車に乗って現れるだろうとは聞いていたものの、まさかこれほどまでに常識を外れた登場の仕方をするとは思ってもいなかった。棗は思わず標的の大胆さ、能力の高さに感服する。

 そして、それは瑞帆も同じ様だった。神妙な表情が少し深まっている。その瑞帆に声を掛けるのは少しだけ憚られたが、これからの行動のために訊ねないわけにもいかない。棗は標的から目を逸らさずに小さく訊ねた。

「あれは……、間接系の攻撃魔法……でいいんだよね?」

 瑞帆は小さく頷いてから、棗の言葉を継ぐ。

「そうさね。小規模だけど、間違いない。標的の奴、攻撃魔法で自転車の姿勢を制御しながら、おまけにペダルまで漕いでやがる。一見、馬鹿馬鹿しいが、かなり魔法を使いこなしてる証拠だよ。まさしく日常生活に生かせる上手な魔法の遣い方ってやつだね。見習わせて頂きたいもんだ。んでもって、更に恐ろしいのが……」

「あれだけ魔法を使いこなしておきながら、変身してないってところ……だよね?」

 魔女は変身をしなければ多量の魔力を扱う事は出来ないが、変身しなければ魔法を使えないというわけではない。上位クラスの魔力を有する魔女であれば、変身をしなくとも限定的ではあるがある程度の魔法ならば扱う事が出来る。

 かく言う棗も変身しないままでも微少な攻撃魔法程度なら扱えるが、その威力は爪楊枝をその場に立たせ続けられる程度でしかない。手品には使えるが、逆に言えばそれ以外には使い様がない。

 無論、それは棗に限った事ではない。

 古参の魔女である瑞帆でさえ、変身をしていない状態では手を使わずにうちわで自分を仰げる程度の攻撃魔法しか扱えないと前に聞いた事があるし、棗の知る他の魔女も、変身をしなければ扱える魔法はその程度のものだった。

 それ故に驚異的なのだ、今回の標的は。

 恐らく標的が変身した時の魔力は棗どころか古参の瑞帆ですら遥かに凌駕し、その魔力値は単純計算で五倍近くにも至るだろう。恐るべき相手。棗達の様な低級の魔女などでは正面に立つ事すら憚られるほどの強大な敵だ。

 やれやれ、とでも言わんばかりに、瑞帆が肩を竦める。

「まともにやったらウチ等の負けだったね。変身せずにあの魔力とは驚異的だよ」

「うん、危なかったよ」

 と、棗も肩を竦めて応じると、だけどね、と呟いて、瑞帆が軽く嗤った。

 魔女に相応しい漆黒の笑みだった。彼女もまた、闇に生きる一人の魔女だ。

「ま、流石に真正面からやればウチ等なんて瞬殺だったろうけど、それならいつも通り相対しなきゃいいだけの事さね。そのための真白の幻視、そのための変身、そのための待ち伏せってわけだ。だから、あいつも常時変身してりゃよかったんだ。これはそれを怠った標的の落ち度であり、さっき言った通り、ウチ等は簡単な仕事で稼げるってわけだ」

「まるで悪役だね」

 棗は軽口を叩いたが、その彼女も瑞帆と同様に暗黒の笑みを浮かべていた。

 卑怯だ。自らでも自覚出来る程に完全に卑怯ではあるが、それでも彼女等の手法には間違いがなかった。己の戦力は最大限でありつつ、敵の戦力が最小限の時に戦いを仕掛けるのは、兵法として基本中の基本だろう。

 勿論、少なくとも、標的は変身もしないまま、無自覚に外出などするべきではなかったのだ。そこを他の魔女に狙われてしまって、その結果、全てを失う事になっても、それは標的の自業自得であり、因果応報でしかないのだから。

 瑞帆は棗の表情を愉しそうに見つめ、それから緩慢に標的に向けて腕を伸ばした。

 右の掌を開き、左手を肘の辺りを支える様に添える。

 瑞帆が得意の攻撃魔法を使う時の癖だった。別に掌から攻撃魔法を放出するわけではなく、単に気分の問題らしい。その体勢を取った方が何となく魔力を集中させ易いと、前に瑞帆から聞いた事がある。

「さてと、そろそろ一気に終わらせちゃおうかね」

 何でもない事の如く、軽く瑞帆が呟いた。

 確かに何でもない事だった。

 これこそが彼女の生業。魔女の生業であり、即ち棗の遂行すべき生業なのだから。

「プロセス乙、開始……だね」

 棗が瑞帆に囁くと、既に標的は眼前五メートルほどの場所を横切ろうとしていた。

 それほどまでの近距離にまで至っても、標的は棗達の気配には気付いていなかった。変身していないとはいえ、多少は棗達の魔力の気配を察知してもよさそうなものだが、まったくもって間抜けな事に、自らの魔法で自転車を漕ぐ事に気を取られているらしく、棗達の方向に視線を向ける事すらなかった。

 棗は軽く嘆息し、両手で眼鏡の蔓をしっかりと両耳に掛け直す。

 近眼の棗の矯正された視力の瞳に、標的を確実に捉えた瞬間。

「……ッ?」

 声にならない叫びが上がり、標的が自転車から投げ出された。

 急激に速度をいや増した強風に、標的の自転車が横殴りに吹き付けられたためだ。人間をも彼方まで運び去りかねない強風に抗えず、標的は宙を舞う。自転車のハンドルから手を放していた標的は、当然ながら成す術もなかった。一瞬後には驚愕の表情を浮かべながら、大きな音を立てて地面に倒れ伏していた。

 倒れ伏した標的は痛みに耐えながら、どうにか立ち上がろうとしていた。

 標的もまた魔女だ。自らの身に何が起きているのか、完全ではないながら理解しつつあるらしかった。少なくとも自分が攻撃を受けている事は理解しているに違いない。既に遅過ぎる事だが、今更ながら変身しようとしているのだろう。

 しかし、残念ながらやはり遅過ぎるのだった。

 標的は見えない力に圧迫され、何者かに羽交い絞めにされているかの如く、その場から動けてはいなかった。正確には痙攣程度には動けてはいるが、それ以上の事は出来ていない。無論、標的は動かないのではない。動けないのだ。

 横殴りに吹き付けたはずの強風は、今度は天空から標的のみを押し潰さんとするかの如く、圧倒的な風圧となって標的に降り注いでいた。否、吹き注いでいた。標的周辺の落葉が吹き散らかされ、上空にまで舞い上がる。あまりにも強烈過ぎる風圧に、標的どころか棗まで吹き飛ばされてしまいそうだ。

 しかし、標的を中心に突如強くなった風に圧迫されそうになりつつ、相変わらずの風圧に多少たじろぎながらも、棗は緩慢ながら確実に自らの足で歩き出していく。瑞帆が自らの役割を果たしている以上、棗も己の役割を果たさなければならない。

 そう。この風圧こそが瑞帆の魔法だった。

 風……、と言うよりは気圧を操作する魔法。それが瑞帆の得意魔法だ。

 少年漫画の風使いの如く、鎌鼬の真空波により自在に敵を切り刻む、とまではいかないが、四方数平米の極局地的にならば大型台風レベルの風圧を発生させる事が出来る。あまり使い道のない魔法だが、人間を拘束するのにはうってつけの魔法だった。

「やっちゃいな、棗」

 右掌を標的に向け、魔法を発動したままで瑞帆が片目を瞑る。

 うん、と棗は頷き、親指を立てた。

 その行為を知れば、知人の魔女の花枝あたりに、仕事中に余裕を見せ過ぎだ、と叱られるかもしれなかったが、瑞帆が風圧で標的を捕縛した瞬間に棗達の仕事は終わってしまっているので、別に問題はなかった。所詮、棗の仕事など殆ど後始末に過ぎないのだ。

 だが、棗が標的まで徒歩数歩の距離まで近付いた瞬間、これまで夢にも思っていなかった事が起こった。これまでこなしてきた過去五回の仕事の最中にも経験のない、ある意味で驚愕すべき初体験だった。

「おまえ等……、何者だ……?」

 その言葉は標的のものだった。標的が喋ったのだ。

 瑞帆の風圧に押し潰されそうになりながら、口を開く事が出来た標的は初めてだった。恐らくは先刻まで使用していた間接系の攻撃魔法をどうにか防御に応用し、瑞帆の風圧を相殺しているのだろう。しかも、おまえ等、と言っている事からも、この状況で瑞帆の姿をも視認出来ているらしい。

 一瞬、棗は胸の動悸が激しくなった。少しだけ、背筋が凍った。

 だが、それだけだった。

 見たところ標的は喋る以上の事は出来ていないようだ。変身もしていない状態で瑞帆の魔法を若干ながら相殺出来るのは流石と言わざるを得ないが、それでも変身後の魔女と変身前の魔女の圧倒的実力差は、どうやっても覆せそうもなさそうだった。

 棗は胸を撫で下ろし、風で鼻先にずり落ちかけていた眼鏡を両手で緩慢に掛け直す。

「へえ……。噂通り強い魔女だったんだね……」

 棗としては思わず率直な感想を口に出しただけだったのだが、標的はそれがどうにも気に喰わないようだった。表情を苦痛と憤怒に歪ませながらも、棗を強く睨み付ける。身体に穴が空いてしまいそうなほど強い視線だった。

「質問に答えろ……。何者だ、おまえ等……ッ!」

 息も切れ切れながら、標的は言葉を発し続ける。

 余程、己を嵌めた魔女の正体が気になって仕方がないらしい。

 勿論、棗には質問に答える義理は何もなかった。それに余計な事を言うと、後で瑞帆に叱られてしまいそうだ。棗は肩を竦めながら、無言のままセーラー服の胸ポケットの中から小さな瓶を取り出した。

 掌大の銀色の小瓶。

 この中身を標的の周囲に撒き散らせば、棗達の仕事は完全に終了する。

 だが、棗の取り出した小瓶を目にした瞬間、標的の目の色が変わった。どうやら棗達の素性について思い当たる事があるらしい。まさかこいつ等……、と標的は呟いたが、やはり残念ながら、棗はその呟きに答えてあげる事は出来ないのだった。

 棗は無言で小瓶の蓋を外し、標的の眼前で立ち止まる。

 その仕種を見て、標的も棗が己の問いに答えるつもりがないと悟ったようだ。

 視線を伏せ、身体から力を抜いて、自らに言い聞かせるかの如く呟いていた。

「何でだよ……? 俺、何も悪い事してないのに……。畜生、ついてねえ……」

 悲痛な面持ちだった。標的の彼は本気で自らの非に思い当たりがないらしい。

 標的の彼……、真白の情報に曰く、永田晴彦はその名の通り男性だった。

 女顔に加え、その長髪を栗色に染めてはあるものの、一見しただけでも分かるくらいには男性らしい雰囲気を醸し出している。その細身でありつつ整った相貌は、周囲の女性から大きな好評を得ている事だろう。

 そう。標的の永田は『男性の魔女』だ。

 一般に男性の魔女は英語圏ではウォーロック、仏語圏ではソーサラーと称されるが、何故か日本には男性の魔女の呼称に適する言葉は存在しない。無理矢理に翻訳すれば魔男と呼称する事も可能ではあろうが、語呂も悪い上に一般的に浸透していない事から、魔女達の間ですらもその呼称は使用されていなかった。

 前に棗は、だったら男の魔女は魔術師とでも呼べばいいんじゃない? と瑞帆に言ってみたのだが、魔術師と魔女じゃ微妙に意味合いが違うのさ、と返され、妙に納得してしまった事がある。魔術師はどちらかと言えば手品師に近い意味合いであり、悪魔と契約して能力や技術を得る魔女とは別の存在であるように棗自身も感じたからだ。

 とにかく永田はその男性の魔女であり、意外にも永田のような男性の魔女は少なくなかった。棗もこれまで魔女の仕事を遂行してきた中で、数人の男性の魔女と対面した事がある。真白曰く、男性の魔女は魔女全体の三分の一を占めているらしい。

 でもなあ……、と棗は悲痛な表情で己の無実を信じる永田を見下ろしつつ、複雑な心境に至っていた。別に永田の悲痛な面持ちに同情したわけでも、無論、彼の整った相貌に心奪われたわけでもない。永田の精神の中に確実に巣食っている漆黒の闇が、何となく哀れに思えてしまったからだ。

「自分は悪い事をしてない、って本当に思っているの?」

 気が付けば棗は自らの考えを言葉にしてしまっていた。彼が本当に自らの行為に非がないと思っているとするならば、滑稽を通り越して哀憐すら感じさせられてしまう。

 そして、彼は本当に滑稽を通り越した魔女のようだった。棗の哀憐の感情の篭った言葉に一筋の光明でも見出したのか、永田は少しだけ口の端を歪ませる。その行為こそ更に自らを貶めているとも知らずに。

「ああ、そうだよ……。人違いじゃないか……? 俺は確かにおまえ……、いや、あんた達と同類の魔女だけど……、広島の『魔女連盟』を敵に回す様な事はしてないはずだ。俺は確かに連盟には所属してないが……、無所属ってだけであんた達は無抵抗で変身もしていない魔女を捕まえて、どうにかしようってのか……?」

 まったく見事な口の上手さだった。

 その整った相貌と相俟って、口から出任せを何の躊躇いもなく言葉にするその口の上手さで、これまで彼は多くの女性を騙してきたのだろう。並の女性であれば、彼の眉唾な魅力に簡単に心奪われてしまっていたはずだ。

 しかし、残念な事に棗と瑞帆は既に永田の憐れな本性を知っているし、更に生憎ながら棗の胸の内には永田など比較対象にすらならないほど愛おしい彼が常に存在していた。斯様に騙されようもない自分達に対し口八丁を駆使するとは、滑稽を通り越した哀憐以外の感情を感じる事など棗には出来ようもなかった。

「棗、パス!」

 不意に瑞帆が魔力を緩める事なく、藪の中に転がっていた革の鞄を投げて寄越した。

 唐突の事に少し驚きながらも、棗はどうにかその鞄を落さずに左手で受け止める。

 その鞄こそ、先刻、永田が瑞帆の魔法で横殴りに吹き飛ばされた際に、彼と共に放り出された彼の自転車の籠の中に入っていた鞄だった。口八丁に好青年を演じる永田の本性が詰まっているパンドラの箱の如き鞄だ。希望は遺されてはいなさそうではあるが。

 嘆息しつつ、棗がその鞄の留め金に手を伸ばすと、永田が悲壮な声色で軽く叫んだ。

「あ、ちょ……ッ! 俺の鞄……ッ!」

 永田の言葉には一切応じず、棗は鞄を引っくり返してその中身を地面に投げ出す。

 瑞帆の風圧に多少靡きながらも、それは風に飛ばされずにその場に撒かれた。

「うわあ……」

 棗の口から呻き声に似た言葉が漏れる。

 呻き声以外に何を言葉にすべきなのだろう。瑞帆も苦笑しているようだった。

 その場には眼を背けたくなるほどの、永田の醜悪な本性が確かに存在していた。秀麗な相貌の裏側に隠された彼の本性にして、彼の鞄の中に入っていた物……。それこそ色彩豊かに鮮やかで妙に肌触りのいい布……、つまりは大量の女性用下着だった。

 少なくとも二十枚近くは入っているだろうか。その場に撒かれた使用済みと思われる色鮮やかな大量の女性用下着は、春先の比治山を華やかに染めていた。そんな物で華やかに染めたところで滑稽なだけではあったが。

 勿論、残念ながらと言うべきか、幸いにと言うべきか、その大量の女性用下着は永田の私物というわけではなかった。一応、依頼を受けた際に、彼に女装の趣味はない、と真白から聞いている。別の意味で着用してはいるかもしれないけれど、とその後で真白が意地悪そうに付け加えてはいたが、棗はその言葉を聞かなかった事にした。

 しかし、その主にスキャンティが多い傾向がある大量の女性用下着が彼の私物ではないという事は、つまりそれらの女性用下着は全て彼が盗んできた物だという事でもある。真白の言葉を信じるのならば、永田は毎週月曜日、大学からの帰り道で下着を盗み、自転車で自宅に帰るのを日課にしているらしい。

 勿論、他人の秘密をいとも簡単に暴き出す幻視魔法を得意とする真白の言葉には、疑う余地など寸分もない事を棗達はよく知っている。それ故に棗達は真白の言葉を信じて犯行後の永田を待ち伏せていたのだし、そうとは知らない永田は戦利品を鞄の中に詰めて意気揚々と家路を辿ってきたわけだ。帰宅後、鞄の中の戦利品で何をするつもりだったのかは想像したくもないが。

 そう。真面目に考えると棗も情けないのだが、今回の棗達の仕事は下着泥棒である永田の捕縛なのだった。依頼内容の詳細はこうだ。最近、下着がよく盗まれるので、どうにか犯人を捕まえて欲しい。しかも、どういう事か、何故か集合住宅の高層階ばかりが被害に遭っているので、どうかその謎も解いて欲しい、との事だった。

 当然の事だが、下着泥棒の被害は一戸建てか集合住宅の低層階の住人に集中する。それは無論、わざわざ高層階の下着を盗む奇特な下着泥棒などあまり存在しないからであり、だからこそ、一戸建てや低層階の住人は下着泥棒に警戒して様々な対策を取っている。

 しかし、それは逆に言えば、集合住宅の高層階の住人は、まさかわざわざ高層階まで盗みに来るはずはないだろう、とあまり警戒していないという意味でもある。そこを狙い目として、永田はまんまと集合住宅の高層階のベランダに干されている女性用下着ばかり盗んできたというわけだ。

 間接系の攻撃魔法とは、言い換えれば物体移動の念動力である。自転車のペダルを漕ぐのと同じ要領で、目を付けた女性用下着を自らの手元にまで移動させれば、いとも簡単に下着の盗難は完了する。勿論、その女性用下着が干されている場所が高層階であろうが、低層階であろうが念力を扱える永田には関係がない。寧ろ高層階の方が無警戒な上に自らに疑いが掛かり難くなるので、永田にとっては遥かに盗み易くなるわけだ。

 馬鹿馬鹿しく感じられはするものの、これはある意味で恐ろしい。攻撃魔法という一般人には扱えない技術を利用しているが故、警察には決して犯行の立証が出来ない。それどころか、永田という犯人にすら間違いなく辿り着けないだろう。

 まさしく迷宮入り間違い無しの完全犯罪だ。

 それ故にこういう事件こそ、魔女でしか解決出来ない魔女の仕事なのだった。

「何だよ、もう。いいじゃんかよ……。好きなんだよ。仕方ねえじゃんかよ……」

 不意に永田が棗達から目を逸らして、消え入りそうな声で呟いた。

 独り言らしく、誰からの返事も期待していない様子に見えたので、棗はその永田の言葉に対して何の反応もしなかったが、彼もその棗の無反応を何ら意に介してはいないようだった。やはり独り言だったのだろう。

 棗は少し肩を竦め、蓋を外して、うつ伏せの永田の頭上に小瓶を軽く放り投げる。

 刹那、瑞帆の風圧の風音が若干弱まり、棗の銀色の小瓶が永田の頭上で宙に浮いた。

 何の事はない。瑞帆が風圧を弱め、小瓶を浮かせる事に魔力を集中させただけだ。

「ま、少しだけ眠っといてよ」

 瑞帆が外見年齢に似合わぬ軽口を叩いてから、風圧を巧みに操り、宙に浮いた小瓶の口を少しずつ地面に向けていく。そうして小瓶の口が完全に地面の方向を向いた瞬間、小瓶の中から如何にも毒々しい粉末が散布されていった。

 通常、こんな風の強い状況ならば、文字通り吹けば飛ぶように軽い粉末など意図もしない場所にまで疎らに散らばってしまっていたところだったろうが、流石は熟練の魔女と言うべきか、瑞帆はまたも巧みに風圧を操り、永田の全身に降りかかるよう微妙な調節をしながら粉末を完璧に無駄なく散布していた。まるで一流のパティシエがシナモンをケーキの上に振り掛けるような見事な手捌き、否、魔法捌きだった。

 そうして毒々しい色の粉末が無駄なく永田の身体の上に散布された瞬間、気が付けば一瞬にして毒々しい色が消失していた。無論、粉末自体が消失したわけではない。永田の肉体に吸収され、全身に浸透しているのだ。故に一瞬にして毒々しい色が消失しているわけなのである。

 因みに棗はこの光景を見る度、これこそ驚異の浸透力、と思っていたりする。

 既に抵抗を諦めているらしい永田は、粉末を散布されている際もそっぽを向いて何事かを小さく呟いていたが、粉末が完全に彼の体内に浸透したらしき瞬間にだけ一瞬の痙攣を見せると、それきり呟きどころか何の動きすらも見せなくなった。

「お仕事完了……かな」

 呟いて、棗が瑞帆に視線を向けると、彼女も軽く肩を竦めて魔法を解除していた。

 暴風が止み、そよ風すらも消失し、唐突に無音が辺りに訪れる。勿論、正確には無音ではないが、先刻までの暴風音に較べれば無音にしか感じられない静寂だ。本来なら春の逢魔ヶ時はこんなにも静かだったのか、と棗は少しだけ感嘆に似た驚きを感じた。

 と、季節の情景に感慨深くなっている場合ではない。棗は瑞帆の風圧であらぬ方向に乱れてしまった自らの髪を手で解しながら、散布した粉末の影響で動かなくなった永田に視線をやった。死んでいる……わけではない。一見死んでいるようにも見えるが、よく観察すれば、彼自身の呼吸の影響で肩が連動しているのが分かる。

 そう。永田は単に気絶しているだけだ。

 これが棗の得意魔法だった。

 いや、魔法と言うには少し語弊があるかもしれないが、これこそ棗が悪魔と契約する事で得られた技術である事には違いなかった。実は先刻、棗が放り投げた小瓶の中にあった毒々しい粉末……、あの粉末は毒々しい外見に違わず、本当に毒だった。あの粉末こそ、棗が悪魔と契約する事で得られた知識と魔力で調合した神経毒なのだ。

 魔法薬とでも称するべきだろうか、数ヶ月前、棗は悪魔と契約する事で、現在の人類の技術では調合が不可能な薬剤を調合する事が可能となった。いや、棗のそれは調合というより、むしろ錬金術に近いだろう。その薬剤はどう考えても薬剤の原料になり得ない成分に棗の魔力を含有させる事で、初めて生成可能となる魔法薬なのだ。これぞまさしく、悪魔と契約せねば生成しようのない魔の薬剤と称して違いない。

「しかし、相変わらず恐ろしい威力だねえ、その神経毒。本当に一瞬で気絶しちゃってるよ。そんな凶悪な毒を自由自在に扱う魔女、草津棗婦人……、これこそ本当の毒婦って感じかしらん?」

 動かなくなった永田を見下ろしつつ薄笑いを浮かべている瑞帆が、軽口を叩く。

 棗は眼鏡を掛け直しながら、人聞きの悪い事言わないで、と苦笑を浮かべて返した。そもそも棗が瑞帆に付いて仕事を手伝っているのは、ひとえに瑞帆の無駄な労力を省いてあげるためなのであり、その手段については感謝されこそすれ、凶悪だの毒婦だのと言われる筋合いではないのだから。

 因みに瑞帆の無駄な労力と言うのは他でもない、標的を行動不能にするための労力の事である。動物でも人間でも、捕縛すべき対象を行動不能にするのは想像以上に難しい。暴れる相手を捕縛するのは至難の業なのは言うまでもなく、ドラマや漫画などでよく見る頭に衝撃を与える事で気絶させるという方法も、現実的には不可能に近いらしい。無論、棗自身、試した事はないのでよくは知らないのだが、人間は頭部に衝撃を与えられても気絶する事は殆どなく、痛みに悶絶するか、意識が少し朦朧とするだけなのだと前に瑞帆に聞いた事がある。しかも、逆に頭部に衝撃を与えて気絶してしまった場合は、まず間違いなく脳挫傷なので後の始末に困るのだそうだ。

 それ故に棗の様な能力の持ち主が必要となるわけだ。

 対象を傷付けず、一瞬にして気絶させる事の出来る神経毒……、いや、棗の使い方はむしろ麻酔薬か。対象に吸い込ませる必要もなく、皮膚から吸収させる事でも効果のある即効性の麻酔薬。睡眠薬として有名なクロロホルムも実はかなり長い時間、対象に吸い込ませなければならないという現実の前では、まさに理想的な薬剤だと言えるだろう。

 だったら、魔法薬さえあれば、別におまえが瑞帆と一緒じゃなくてもいいんじゃないのか? と前に底意地の悪い花枝に突っ込まれた事もあるが、棗はそれに対しては苦笑する事でお茶を濁した。確かに花枝の言う通りではあるのだが、何故か棗はそうしたくはなかった。それは自分の薬の使い道を見届けたいという責任感からの行動でも、仕事は自らの手で間違いなく遂行せねばならないという使命感からの行動でもあったが、それ以上の別の感情で動いているのも確かだった。

 しかし、棗は何となく、その感情に名前を付けたくはなかった。

 隠していたい感情を言葉で片付けられるほど、棗はまだ達観出来ていない。

 だからこそ、棗は瑞帆の隣に居る。

 だからこそ、棗は掛け替えのない何かと引き換えに、悪魔と契約したのだから。

 だが、その感情が……、その感傷が……、後々に棗自身を魂の牢獄の如く取り込んで、逃れられない因果で追いつめていく事に、その時の棗は気付いていなかった。否、もしかすると既に気付いていたのかもしれない。気付いていて、それでも尚、彼女は認めるわけにはならなかった。他の誰にも認められなくても、自分の選択肢を正しかったのだと思い続けるために。思え続けるために。

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