二、覚醒都市

 標的の気配を瑞穂が捉えたのは、黄昏が沈み掛け、闇が少し深まった頃だった。

 待ちくたびれつつあった棗に向かい、多少高揚した口調で瑞帆が囁いた。

「標的の気配を捉えたよ、棗。まったく、散々待たせてくれちゃって……。聞いてた話と違うじゃんか。後で真白の奴に文句の一つでも言ってやらないといけないね。報酬も割り増しで要求してやろうかね」

「仕方ないよ、瑞帆ちゃん。真白さんの幻視だって、万能ってわけじゃないんだから。そこまで言うのは可哀想だよ。割り増しは二割くらいにしとこうよ。……それより標的の気配ってどの辺り? もうすぐにでも来るの?」

 立ち上がり、首や手足を鳴らしながら、その棗の言葉に瑞帆は応じた。

「あと五分程度ってところだね。早く変身しておきなさいよ。……って言うかさ、棗もウチみたいに最初から変身しとけばいいじゃん。そうしたら能力の差異にもよるけど、若干は標的の気配も感じられるし、不測の事態にも対応出来るっしょ?」

「やだよ……」

 嘆息しつつ、即答した。即答せざるを得なかった。無論、仕事をこなさなければならない以上、いずれかは変身しておかなければならないし、早めに変身しておいた方が利便性もある事は棗自身もよく分かってはいるが、それでも嫌なものは嫌なのだ。

 数ヶ月前、ある目的から悪魔と契約する事に成功した棗は、悪魔の力を借りる事で魔法という技術を扱える俗に言う魔女という存在になった。悪魔と契約して魔女になってしまった以上、魔女として行わなければならない生業、魔女として従わなければならない規律が存在している。

 その為、現在、棗はその魔女の力を行使し、様々な依頼を受けているというわけだ。

 それだけならば構わなかった。自分は得たい物を無理矢理に自然の摂理を曲げてまで得たのだ。その代償を支払わなければならないのだという事は、棗自身もよく理解しているつもりだ。犠牲なくして何かを得る事など出来ない事を、棗は痛いほどに知っている。

 それでも、理不尽で意味の分からない要求くらいは拒否してもいいんじゃないかなあ、と思わなくもない自分自身が棗の胸の中の何処かに存在するのもまた事実であり、それを責めるのは流石に酷というものだろう。

「別にそんな嫌がるほどの事でもないっしょ?」

 毎度の如く変身を嫌がる棗に、やはり毎度の如く首を捻って瑞帆が呟いたが、棗としてもこれだけは譲れない所であった。他は譲れても、これだけは絶対に譲りたくない。そもそもその契約事項自体、詐欺のようなものなのだから。

 これまた数ヶ月前、契約が完了した瞬間、テレビアニメなどでよくある魔法少女モノの類に漏れず、悪魔と契約した魔女は変身して姿形を魔法少女のそれにしなきゃ魔法を使えこなせないんだよねー、これが。と、契約するまで一言もそんな話をしていなかったくせに、棗と契約した極悪非道な悪魔は掌を返して、急遽追加された契約事項を嬉々として語り始めた。

 そんな事は聞いてないし、契約書に書かれてもいない、と棗は断固として抗議したのだが、無論の事、聞き受けられなかった上に、ちゃんと記載してあるから観念しなさい、と逆に説教されてしまった。後で探してみたのだが、悪魔の言葉通り確かに魔法を使いこなすには変身しなければならない、と確かに契約書にはそう記載してあった。虫眼鏡で見なければ確実に見つからない程度の小さい字で、だが。

 詐欺だ、ペテンだ、出鱈目だ、と棗は愚痴をこぼしたが、既に後の祭り。悪魔と魔女になる契約を交わした以上、棗は厭でも変身せざるを得ない。悪魔と契約するという事は、とどのつまりそういう事なのだった。

 故にこそ棗は毎度大きな嘆息をこぼしてしまいたくなるが、無論、いつまでも変身せずにいられるわけでもない。肩を大きく落とし、もう一度だけ大きく嘆息すると、眼鏡を外してから立ち上がった。

「まあ、これも仕事だし、我侭を言ってる場合でもないし、そろそろ変身するよ」

「了解。標的ももうすぐ近くにまで来てるから、ちゃっちゃと済ませちゃいなよ」

「こちらも了解」

 その言葉と同時に、棗は己の内に魔力を集中させ始める。

 瞼を閉じ、身体の力を抜きつつも、周囲の自然に漂う微かな魔力の波動……悪魔曰く魔素……を五体全体で受け止め、集合させ、凝縮させ、少しずつ己の魔力へと変換する。微かな魔素が少しずつ純然たる魔力へ、渺茫たる力へと変貌していく。

 己が魔素であり、魔素が己である。

 斯様な感覚が棗の五体に流れ始めた瞬間、彼女は膨大な魔力を解放した。

 棗の白いワンピース、下着、パンプスまでもが極小の粒子に変貌し、棗の周囲に胞子の如く漂う。粒子は空気上を漂いつつ、原子すらも全く異なるであろう新たなる粒子へと変貌していき、先刻とは全く異なる材質へと姿を変貌させていった。そうしてその粒子が若干の新たな外観を成した時、粒子は再度棗の肉体に魔力の衣として装着され始める。

「……装着完了」

 棗がそう呟いた瞬間には、既に彼女の変身は完了していた。

 時間にして十秒弱。

 それだけの僅かな時間で棗は魔の衣を纏う魔女へと変貌を遂げていた。

 上半身は白を基調とした袖の短い上着。その襟元に赤いネクタイを柔らかく巻いており、下半身には膝下十㎝までの長さの紺のプリーツスカートが装着されている。また、短めの白いソックスと、土足禁止の建物に入る際の履物……つまり上履き……も古めかしいながらも伝統を感じさせる。

 それが棗の変身後の姿……、セーラー服だった。

 あまりの恥ずかしさに棗は顔を俯かせるが、瑞帆が素直な感嘆の声を上げた。

「やっぱ似合うじゃない。恥ずかしがる事、無いよ。うん、よく似合ってる」

 その瑞帆の言葉に冷やかしの様子は微塵も含まれていなかったが、それでも棗は複雑な表情を浮かべる事しか出来なかった。実は棗の高校の制服もセーラー服だったのだが、その時分には殆どの人間から、似合わない、馬子にも衣装、という辛辣な意見ばかり得ていたのである。高校を卒業してかなりの時間を経て、今更になってその制服が似合うと言われてみても、恥ずかしい以外の何物でもないというものだろう。

「恥ずかしい……」

 棗は眼鏡を掛けつつ、瑞帆の顔を出来るだけ見ないように呟いた。

 自分の顔が熱くなるのを感じる。恐らく今の自分は赤面している事だろう、というその考えが悪循環的に余計に棗の顔を紅潮させた。耳が隠れる程度の短い黒髪でどうにか自分の表情を隠し、俯いて棗は自分の足下を見つめる。

 勿論、その場に何かが落ちているわけでもない。疎らに生い茂る雑草があるだけだ。

 しかし、その場に注目すべき物が何も無い事で、逆に少しだけ落ち着く事が出来た。瑞帆と雑草以外に今の自分の姿を見ている者は居ないのだ。それならば当然かなり恥ずかしくはあるが、それでも任務を遂行するまでは己の羞恥心に耐えられる事だろう。

 そう考える事で少しだけ落ち着けた棗の感覚に、微少ながらこれまで感じた事がない魔力の気配が飛び込んで来た。変身し、多少なりとも落ち着けた事で、周囲の魔力の気配を察知する事が可能となったわけだ。

 思わず、この感覚……、と棗は小さく呟いていた。

「この感覚……、思ったより気配が小さいね。という事は、今回の標的の誰かさんはまだ変身してないって事だよね?」

 瑞帆は風に靡く自らの長髪を右手で掻き揚げつつ、小さく頷く。

「だろうね。昔ならいざ知らず、最近の魔女は常時変身してる事が少ないからね。棗みたいな恥ずかしがり屋さんが多いんだろうさ。ウチみたいにずっと変身したままなら楽なのに、最近の魔女の感性は分からないね」

「……発言が老けてるよね、瑞帆ちゃんは」

 棗が苦笑しつつ指摘すると、あにさ、と瑞帆は呟いてから不機嫌に頬を膨らませた。その仕種だけ見れば外見相応の可愛らしい童女に見えなくもない。まあ、中身はあたしなんて比べ物にもならないくらいのベテラン魔女なんだけどね、と棗は胸の内だけで呟き、それから瑞帆に対抗して少しだけ自分の頬を膨らませる。

「それに別に最近の魔女が特別に恥ずかしがり屋ってわけじゃないよ。だって瑞帆ちゃんの変身ってそこまで目立たないじゃない。瑞帆ちゃんみたいにそんなに恥ずかしくない変身なら、あたしだって四六時中変身したままでも構わないよ」

「そうかい?」

「だって、瑞帆ちゃんの変身って瞳だけじゃない。両目の色が変わるくらいの変身なら、あたしと代わってほしいよ。どうして瑞帆ちゃんの変身はそんな簡単なので、あたしのはセーラー服なんだろ……。悪魔の趣味とは言っても、不公平だよね」

 変身しなければ魔力を上手く扱えないのは魔女ならば誰しもが共通している点ではあるが、変身後の姿は何もセーラー服だけに限らなかった。棗の変身後の姿がセーラー服であるというだけだ。

 棗には瑞帆以外にも数人の魔女の知人がいるが、その変身後の姿は各々で人それぞれだった。ナース服に変身する魔女もいれば、特撮のヒーローのような装甲を装着する魔女もいたし、酷い例になると幼稚園児が着るスモックを着させられる魔女まで存在した。どうやら各々が契約した悪魔の趣味が反映されるらしく、それらの魔女と比較すれば、変身後の服装がセーラー服程度で済んだ棗は、ある意味で運が良かったのかもしれない。

 しかし、その痛ましい変身後の服装が多い事に反し、何故か瑞帆の変身は両目の瞳の色が変わるだけの軽い変身で済んでいた。瑞帆曰く、古参の魔女は派手な変身をしないとの事だ。派手な変身をさせられるのは最近魔女になった者だけであり、どうも近年になって悪魔の趣味が急激にマニアックになり始めたために、最近の魔女だけがその被害を被っているらしい。理不尽過ぎて、棗は再びの嘆息を禁じ得ない。

 不意に瑞帆が棗の肩を軽く叩いて微笑んだ。

「まあ、そう言いなさんな。ウチのこの程度の変身だって、結構目立ったもんよ。当時はカラーコンタクトなんてなかったからね。そりゃ目立って仕方がなかった。オッド・アイの人間なんて漫画のキャラ設定にはよく使われるけど、現実では普通に過ごしてれば一生出会わないくらい珍しい存在だからね。周囲の好奇の目に晒された事も一度や二度じゃなかったよ。ウチもそういう苦難の道を歩んできたってわけさね」

 瑞帆ちゃんって本当に何歳なんだろう……、と棗はこれまで何度も浮かんでは消えていたその疑問を瑞帆にぶつけようとしたが、それが言葉になる事はなかった。訊ねたところで答えてもらえる疑問ではないだろうし、それよりも急に瑞帆が神妙な顔付きに変わっていた事が大きかった。

「ど……」

 どうしたの? と問おうとして、慌てて棗は自らの口を噤んだ。

 感じたからだ。標的の魔女の気配がもうすぐそこにまで来ているのを。

 瑞帆もそれ故に神妙な表情をしているのだろう。そう思い、棗は先刻よりも数段小さな声で瑞帆に囁いた。経験が浅いとは言え、棗も魔女を生業とする者だ。気を抜く場所と引き締める場所の違いくらいは心得ている。

「来たね」

「ああ、来たよ。気を引き締めなよ。今回は標的が変身してない事だし、作戦は『プロセス乙』でいいだろうね。ウチが締め上げ、棗が標的を気絶させる。この程度の相手なら簡単な仕事さ。三分も掛からない。さっさと終わらせて、ラーメンでも食べよう」

「了解だよ」

 その棗の言葉の後には沈黙が訪れた。

 黄昏に似つかわしい沈黙。長く続くわけではない、喧騒と紛糾の直前の沈黙だ。

 不意に棗が視線を移すと、黄昏はもう沈みかけていた。

 当然の如く、黄昏時は終わり、世界は夜を訪れさせようとしている。

 始まるのだ。夜に棲み、夜を往く、魔女達の時間が。

 闇に覆われ、闇を纏い、闇に潜伏し、闇に疾走する。それが魔女なのだから。

 刹那。

 魔女達の領域に、漆黒の戦闘領域に、標的が足を踏み入れた。

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