一、夕凪LOOP

 黄昏。

 陽光の残照が緋に染まりつつある、昼と夜の狭間の時間。

 棗は眼鏡の奥底に位置する自らの眼を細め、稜線の向こうに沈みつつある夕陽を何となく見つめていた。昼間よりは弱まりつつあり、されど強い輝きを失わない陽光に若干の眼の痛みを感じるが、それでも彼女は黄昏から瞳を逸らす事が出来なかった。

 数年前までは興味どころか憎しみさえ覚えて見つめていたはずの黄昏を、今現在の彼女は形容し難い胸の高鳴りを自覚しながら見つめてしまっている。斯様な心境、及び感受性の変化に彼女自身ですら驚きを隠せない。

 環境が変われば、心の中身まで変わるもんだなあ……、と棗は己の現金さに苦笑する。

 最近自覚し始めたんだけど、あたしって結構適当な人間なのかも……。

 思い、肩を少し竦めると、不意に後方から予期せぬ強い風が吹いた。まだ少しの肌寒さを感じさせる春風が、棗のワンピースのロングスカートを靡かせる。

 適度に露出させた二の腕を両の掌で摩りつつ、棗は小さく呟いた。

「うわっ、やっぱりまだ寒い。半袖のワンピースはまだ早かったかな?」

「だから、山中で薄着はまだ早いって言ったじゃないのよ、棗」

 答えを期待した呟きではなかったが、その独り言には予期せぬ応答があった。

 棗のすぐ隣で、多少呆れ気味の表情を浮かべる少女がそう応答していた。

 右目が金色、左目が銀色という世にも奇妙なオッド・アイ。長い黒髪を纏めた桜色のリボンが頭頂部でふわりと風に揺れ、両側で結んだ幼いツーテールも印象的な甘い香りを漂わせる少女。されど強気そうな雰囲気が見て取れる釣り目を有し、その釣り上がった目に呼応させんとするかの如く、手も足も腰も首筋もか細く、研ぎ澄まされた針のような印象を周囲に与える。そのか細い発育不順の姿は、少女と称するよりも寧ろ童女に近いか。

「どんな仕事も身体が資本よ、棗。アンタ、もう二十歳もとっくに過ぎてるんだから、そろそろ自己管理しなきゃいけない年頃だってくらい自覚しなさいよ」

 確かに棗は既に二十一歳の大学四年生だったが、それをどう見ても半分くらいの年齢にしか見えない童女に言われるのは、棗としても何となく納得がいかなかった。無論、彼女の年齢は外見通りのそれではない事は、棗自身もよく知っているのだが。

 ただ、彼女の語る事は、確かに真っ当な正論でしかない。

 複雑な心境を抑え、眼鏡を右手で軽く弄びながら、棗は軽く頭を下げた。

「いや、確かにそうだよね。瑞帆ちゃんの言う通り、確かにもうちょっと山の気温とか考えとくべきだったよ。そんなに高い標高じゃないのに、こんなに気温の差があるなんて思わなかったし……。ほら、あたしって……、アレだったでしょ? だから、あんまり登山とかした事なくって……」

 棗がそこまで言うと、童女……瑞帆が嘆息して遮った。

 何処となく口端に笑みも軽く浮かべているようだ。

「別に怒ってるわけじゃないって。そんなに謝らなくても結構。仕事に支障さえ出なければ、棗がどんな格好をしてようと問題ないしね。ただアンタが体調を崩すと色々と大変でしょ? ……って言うかさ、棗の服って繋ぎの服って言うか、ワンピースが多いよね。それも暖色系の令嬢っぽいの。そういうのが好みなわけ?」

「うん、まあ……、好みと言えば好みかな……」

 はっきりとしない棗の返答を怪訝に思ったのか、首を傾げて瑞帆が続ける。

「あによ、その歯に何か挟まったみたいな返答は?」

「だって、こういう服装が好きだって、言ってたんだもん」

「だ……」

 誰が? と問おうとしたのだろうが、すぐに瑞帆は手を出して自らその先を遮った。若干呆れ返った表情も見せている。どうやらこれから棗が誰の事を話そうとしているのか、これまでの経験から厭というほど理解しているのだろう。

「いや、みなまで言わなくてよいよ。分かったから」

「あたしは動き易い服の方が好きなんだけど、可愛いからって勧めてくれて……」

「分かってるから言わなくてよいよ」

 棗としてはまだ語り足りなかったのだが、我の事ながら瑞帆の言う事も分からないではなかったので、仕方なく口を噤んだ。その程度には棗も自覚しているのだ、自分が彼の事ばかり話題に出してしまっている事くらいは。

 だが、それは必然だった。

 棗の世界には長く彼と自分しか存在しなかったのだから。棗と外界との接触は彼を通じてしか有り得なかった。現在はその特殊な状況下から解放される身になったとは言え、それでも棗の精神を構成する何割かは彼だと断定しても相違あるまい。それほどまでに棗には彼しかいなかった。それほどまでに棗には彼が大切だったのだ。

「まあ、それはそれとして……」

 不意に瑞帆の言葉に真剣な調子が含まれる。

 棗は彼への想いを頭の中心から頭の片隅に移動させ、瑞帆の顔を正面から覗き込む。

 その棗の様子を見て取ると、軽く頷いてから瑞帆が続けた。

「もうすぐ標的がここに来る。正確には眼前の道路を自転車で通り過ぎる予定。その待ち伏せの為に、我々魔法少女隊はこのいちいち肌寒い比治山の藪の中で虫や葉っぱに紛れながら、もうそろそろ二十分ほど待ち続けているわけなんだけど……」

「分かってるって。あと、お互い魔法少女って年齢でもないよね」

「違いないけど、その辺は放置の方向でよいよ。……とにかくウチ等の目的はその標的の確保。別に難しい仕事じゃない。犯罪者には違いないが、警察が出張る程でもない軽犯罪者。実際なら放っておいても構わない程度の悪人だけど、依頼があったからね。捕らえなきゃいけない対象になっちゃった。だから、ウチ等はここで葉っぱにまみれてる。警察の業務の範疇でない手合いの相手をするのはウチ等の仕事……」

「社会はそうして廻ってる……って?」

 棗が囁くように言うと、瑞帆は頭に落ちて来た葉を手で払いながら微笑んだ。

「人の言葉を取らないように。でも、棗の言う通りさ。社会は裏も表もそうして廻ってるし、おかげでウチ等も懐も潤うってわけさね。何せ日本経済は長い不況下に喘いでるらしいからさ、お金は幾らあっても困らない。ウチ等は生きていかなきゃいけないからねえ、どうあっても……」

 らしからぬ真剣な物言いだったが、瑞帆の言葉に何ら間違いは無かった。そう。二人は生きていかなければならない。恐らくは多くの犠牲を払って、棗達二人はこの場に存在していられるのだから。

 その為に瑞帆はここに居るのだし、その為に棗もここに居る。こんな形でしかないにしろ、こんな方法でしかないにしろ、自分の足でどうにか歩いていけるために。己の選択肢を正しいと思える為に、否、正しい物とする為に。

 眼鏡を掛け直し、棗は再び空を仰ぎ、黄昏に眼を細めた。

 広島県南区に位置する比治山の山中、比治山スカイウォーク付近の藪の中。

 まだ肌寒さの残る春風に髪を靡かせつつ、自らの選択肢を信じる為に。

 自らの足で、立ち、歩き、生きていく為に。

 その為に、棗は、魔女として、この場所に在る。

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