七、螺旋、或いは聖なる欲望
何だったのだろう、あれは。
自宅の湯船の中で棗は考える。考えまいと思っても考えてしまう。
まさか近場の山中で殺人を目撃してしまうとは思っていなかった。殺人事件など巷にはありふれている事は理解している。殺人事件のニュースを耳にしない日など存在しないし、ニュースにならない殺人も多数存在している事は頭の中では分かっている。それでも、殺人を目撃してしまうのは初めてだった。人が死んでいる姿を目撃したのは初めてではないが、過去に目撃した死者のその死に方とは一線を画していた様に思う。
何しろ首が引き千切られているのだ、それだけで常軌を逸している。恐らくはあの白い少女に素手で行われた凶行。完全に無理とは言わないが、あの白い少女の細腕で人間の首を引き千切ったとするのなら強化系の魔法を利用したに違いない。あまり例のある魔法ではないが存在しないわけではないと花枝が言っていた。花枝もある意味強化系なのだ。自らと似た魔法には興味があるのだろう。
常軌を逸している点はもう一つ。引き千切られた首の持ち主の表情だ。棗もそれほど視力に優れているわけではないが、あれから数時間経った今でも鮮明に思い出せる。あの少女は確かに喜びに満ちた表情を浮かべていた。いや、正確に称するのなら悦びか。首を引き千切られながら悦楽を感じるはずはない。余程の事が無い限り。
つまり余程の事があったというわけだ。考えられるのは強化系の応用。自らのみならず他者にまで強化系を使用出来る汎用性。その魔法を持って殺された少女は白い少女に神経系か脳内を侵されたのだろう。それで悦楽のままに死んでいけたのだろう。訳が分からない。棗は頭を抱えたくなってしまう。
訳が分からないと言えば殺人の動機もそうだった。一見した限りでは猟奇殺人か快楽殺人の印象を受けるが、そうだとしても常軌を逸している。何故わざわざ殺人を快楽の源としてしまうのだろう。メリットが全く見受けられないどころかデメリットだらけだ。特にこの現代日本では。他にも快楽の源など大量に存在しているというのに。
そう考えるのは、棗にとって殺人は復讐のための行為だったからだ。どうしても人を殺したくなる動機などそれ以外に考えられなかった。復讐のため以外に殺人を犯して何の意味があるというのだろうか。棗にはそれが分からない。
棗にも殺したいほど憎い相手が過去にあった。夢の中で何度殺したか分からない。今でもその顔を見たら飛び掛かってしまうかもしれない。自分の中の激情を抑えられる自信が無い。それほどまでに憎い相手が確かにあった。
それでも殺さなかったのは、殺せなかったのは、他に優先事項があったからだ。復讐の熱情に全身を支配されている余裕は存在しなかった。それほどまでに棗は自身の生存のために追い詰められていた。だから、自らの復讐から目を逸らし、その優先事項に全身全霊を注ぐ事に決めたのだ。これからも注いでいくのだ、精一杯に。
否、注いでいくと決めたはずだった。今になって棗の決心は揺るぎ掛けている。
あの白い少女と視線を交錯させて、生命の危険を感じて、思うのだ。
これからあたしはどうなってしまうんだろう、と。
白い少女の事を、秀美は任せて下さいと言っていた。花枝や瑞帆も不機嫌そうながら後処理を請け負ってくれた。真白の能力を用いれば白い少女の正体を探るのもそれほど困難ではないだろう。棗に出来る事など一つも無いし、何かしようとしたところで足手まといでしかないだろう。つまり、棗が白い少女の事を気に掛ける必要は無いのだ。後で秀美達に出来る限りの謝礼を支払う事以外には、棗は何も出来ない。
それでも、と棗は思う。秀美達の事は信じている。棗など足下にも及ばない魔力を有しているのだ。白い少女をどう処理するにしろ信頼して待つしかない。それでも仮に白い少女が真白の幻視系の包囲網を潜り抜けて自分の眼前に現れてしまったとしたら。棗はそれをこそ恐れてしまっているのだ。
自分自身が殺されてしまうのはある意味しょうがない。新人の魔女とは言えあれ程までに軽率な行動を取るべきではなかった。例えるなら浮かれた斥候が不注意に敵軍に発見されてしまう様なものだ。自身が殺されるだけならむしろ幸運。自軍の全滅すら考えねばならない愚行でしかない。
棗が恐れるのはその被害が周囲にまで伝播してしまう事だ。最愛の人にまで被害が及んでしまう事なのだ。最愛の人とはつまり……。
「棗」
不意に掛けられた声に棗は思考を現実に戻される。
視線を向けると声の方向、つまり湯船の反対側の端には当然だが燕が座っていた。
「どうしたんだい、棗? 鳥肌が立ってるじゃないか。お湯の温度が冷たかったかな?」
言われて気が付いた。棗の肌には確かに鳥肌が立っている。無論、湯の温度が原因ではなく恐怖のためだ。いけない、と棗は思った。これ以上の心配を掛けてはならない。ただでさえ、これまでに人以上の心配を掛けてしまっていたのだ。もう、燕には笑顔しか向けたくない。だからこそ、棗は燕に笑顔を向けるのだ。裸眼でもはっきり分かる燕の心配そうな顔に向けて。
「大丈夫だよ、兄ちゃん。お湯の温度もちょうどいい感じ。ちょっとね、この前観たホラー映画を思い出しちゃってただけだよ」
「そうなのかい?」
「そうそう、ホラーってお風呂場で襲われるのが基本でしょ? それでちょっとだけ連想しちゃったんだよね」
「まあ、確かによく見るシーンだけどね。でも、寒かったらちゃんと言うんだよ?」
「分かってるって」
微笑んだ棗は湯船から立ち上がり、そのままいつもの様にバスチェアに腰を下ろした。
「ん、身体を洗うかい?」
「うん、お願いね、兄ちゃん」
そうして、棗は燕に頭からシャワーを掛けられる。棗は髪から洗ってほしいタイプなのだという事は燕もよく知ってくれているから当然だった。燕の指の感触は丁寧で気持ちが良かった。長年の経験もあるのだろう。棗の洗ってほしい所を熟知している指使いにはいつもながら安心を覚えた。
髪を洗われながら、また棗は思う。
失くしたくない。この人の笑顔だけは絶対に失いたくないと。
自分が殺されてしまうのはしょうがない。それは自業自得だ。白い少女の凶行を目撃してしまったからというだけではなく、悪魔と契約して魔女の力を得てしまった事自体がそれこそ地獄行きを告げられても文句は言えない行為なのだ。奇蹟を望んでしまった代償なのだ。そればかりは確実に棗の過ちなのだから。
それでも、燕だけは、最愛の兄にだけは、笑顔で居てほしかった。
こんなにもあたしを大切にしてくれてる兄ちゃんにだけは……。
だから、棗は恐れる。だからこそ、棗は決心する。
この白い少女の事件、自分には何も出来ないにしても、兄だけは傷付けさせないと。
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