鏡に金槌


 どうして。

 頭の中で何度も繰り返す。

 どうして。どうして。

 いつ間違えたのだろう。どこで間違えたのだろう。

 何を、間違えてしまったのだろう。

 冬の雨は身体を芯から凍らせる。カチカチ歯が鳴る。震えが止まらない。

 日付が変わって十二月二十五日。世間は聖夜。クリスマス。

 冬空の下、私は一人ぼっちだった。



 豊依トヨリ清花キヨカの朝は熱いシャワーを浴びることから始まる。持病により寝起き直後は体温が低いため、平熱まで体温を上げなければその日の活動を始めることが出来ないのだ。

 シャワーを終えると、湯冷めしないようすぐ髪を乾かす。浴室を出る頃にはタイマーをセットしておいたエアコンが部屋を十分温めてくれていた。

 台所でエプロンを身に着け、朝食の支度に取りかかる。平日はパンのことが多い。六枚切りの食パンを二枚トースターに入れるが、スイッチは入れずに放置する。フライパンでバターを熱し、冷蔵庫から卵を三個取り出して割り入れる。菜箸でかき混ぜてスクランブルエッグ状にし、半分ほど火が通ったらフライパンに蓋をし、コンロの火を止めた。余熱が通るのを待つ間、レタスとミニトマトを水で軽く洗い、皿に盛り付けるだけの簡単なサラダを用意する。次に半分残っていたヨーグルトをガラスの器に移し替え、ブルーベリージャムを垂らす。スクランブルエッグにほぼ火が通ったのを確認すると、サラダを半分盛り付けた皿に乗せ、ヨーグルトと共にテーブルに並べるが、まだパンはトースターの中で冷たいままだ。

 テーブルの上に置かれたデジタル時計は同居人の起床時間がいつもより五分遅いことを清花に教えた。朝の支度を分刻みで行う同居人は、十分寝過ごすだけで支度が間に合わなくなるギリギリのタイムスケジュールで毎朝を過ごしている。その人のためを思うならそろそろ起こしてあげるのが優しさかもしれないが、二人の約束事の一つ「互いの私室には無断で入らない」が清花を躊躇わせていた。だがこのまま知らない振りをして、遅刻してしまう有様を黙って見ているというのもさすがに忍びない。あと五分経っても起きてこなかったら様子を見に行こう。ドアをノックするくらいなら約束を違えたことにはなるまい。そう判断すると電気ケトルでお湯を沸かしながら、二人分のコーヒーを淹れる用意をした。

 テレビの電源を入れると、新米キャスターがクリスマスイルミネーションのレポートをしていた。ちょうど昨日、月めくりのカレンダーが最後の一枚になったところだ。もう年の瀬だという事実にこそ思いを馳せるが、それ以上の感慨は浮かんでこない。年賀状を出す相手もなければ実家に帰省する予定もなく、正月飾りを用意するほど季節の行事に対する関心も薄いとなると、年越しだからといって特別することなど何もない。当然キリストの生誕祭もその前夜祭も無宗教ゆえ平常通りだ。だが同居人はどうするのだろう。自分と違い社交的で実家との関係も良好なあの子ならもう既に年末の予定が埋まっているかもしれない。また忘れないうちに確認しておかなくては、と思考を巡らせていると不意に物音が響いた。

 ガチャリ、パタパタ、バタンッ。ガタッ、ガタッ、ギィッ、バンッ。

 慌ただしい音が続いたかと思うと、また唐突に音が鳴り止んだ。だがよく耳をすませばかすかにバシャバシャと水音が聞こえる。

 やっと起きたようだ。彼女の朝もシャワーから始まるが、単に眠気を覚ますためなので五分もかからず浴室から出てきた。そこでようやくトースターのスイッチを入れた。

 結局いつもより八分遅れで手早く身支度を整えた同居人――妹の咲耶がリビングに姿を現した。既にメイクもヘアセットも完了している。メイクした妹の顔を見る度にいつも、普通の双子だったら自分もこんな顔になれたはずなのにと清花は思わずにはいられなかった。

「おはよう」

 返事はない。だが清花は特に気分を害した様子もなく、焼き上がったトーストにバターを塗り、テーブルに並べる。咲耶も黙ったまま椅子に座った。

「じゃあいただきましょうか」

「いただきます」

 きちんと手を合わせてからトーストに手を伸ばした。

「今日は大学何時まで?」

「講義は昼に終わるけど、ゼミの調べ物があるから残るつもり」

「帰りは何時頃になりそう?」

「七時くらい。何も無ければ」

「それなら帰りに買い物お願いしてもいい? 買う物はまたメールしておくから」

「別に、いいけど」

 「特別に用事が無い限り朝食と夕食は一緒に食べる」これも姉妹の約束事の一つだ。食事中の会話は大抵、帰る時間やその日の夕食が必要かどうかなど事務的な連絡事項ばかり。それ以外の雑談などを交わすことはほとんどない。挨拶さえも。「必要最低限しか言葉を交わさない」という約束事はないが、実際はそうなっている。寧ろ予定の確認が出来るようになっただけでも進歩した方だった。実家で暮らしていた時は、言葉を交わすどころか顔を合わせることも稀だったのだから。

 咲耶が姉の住む部屋に居候を始めたのは春の連休中のことだった。大学四年生になり、就職活動や卒業論文の作成で実家から大学に通うことが大変だという理由で断る間も無く手続きを進められ、気付けば引っ越しの荷物が部屋に置いていかれてしまっていた。ここまでに一部例を挙げた約束事は、その日の晩に話し合った結果、取り決められた。

 半年以上経ってもまだ、清花はなぜ妹が自分との同居を決めたのか理解できずにいた。私はこの子から嫌われていたはずなのに。疎まれ、蔑まれ。だから高校を卒業してすぐ逃げるように実家を出てきたはずなのに。どうして今になって……

 朝食を済ませ、洗い物をしている間に咲耶は身支度を整えると早々に出て行った。彼女の通う大学までは私鉄とバスを乗り継がなければならない。県外の実家からだと長時間通勤ラッシュ帯の電車に揺られることになるので、それを考えれば時間的にも体力的にも楽かもしれないが、それでもわざわざ実家を出るくらいならもっと大学近くにアパートを借りた方が良かったはずだ。同居の話が出た時にそう言って遠回しに断ろうとしたのだが、一年だけアパートを借りるのは経済的に難しいこと、さらに一人暮らしより姉妹一緒に住んでくれた方が金銭面だけでなく防犯面でも安心だと両親に説得され、折れざるを得なかった。自分が家を出る時はそんな心配してくれなかったくせに――喉元までせり上がってきた言葉は気付かれないよう飲み下して。

 片付けを終えると清花も部屋着から着替え、身支度をする。といっても化粧はいつもしておらず、家を出る前に顔半分を覆うほどのマスクと伊達眼鏡、ニット帽で肌の露出を出来るだけ少なくしているだけなのだが。

 清花の職場はアパートから歩いて五分の距離にあるカフェ「ミティリニ」である。元々住居であったのを改装した作りであるため住宅街に溶け込んでおり、前を通りがかっただけでカフェだと気付く者は少ない。隠れ家的、といえば聞こえはいいが、要は元々この物件の所有者でもあるオーナーが趣味で始めた店のため、集客には力を入れておらずその結果、来る客といえば近隣の住民など常連に限られてしまっているだけなのだ。だが清花にはそれが寧ろありがたかった。アパート「レスボス荘」があるこの土地の常連客ばかりが集う店だからこそ、清花がこの店で働くことが出来ていた。

 十時の開店までに店内と入口周辺の掃除から始める。特に南に面した窓は汚れが目立たないよう三日に一度、雨が降ったらその都度拭くようにしている。その窓際の席は店でも特に日当たりが良く、一番のお気に入りでもあった。客のいない時はよくその席に腰掛けて過ごしている。

 掃除を終えると次は仕込みに移る。基本的に清花一人で切り盛りしているため、メニューの種類は少ない。定番メニューの日替わりサンドウィッチセットはその日の食材の余り具合によって具材が決まる。ブレンドコーヒーは時々オーナーが気まぐれに発注した豆を使うため、日によって味に差があることは常連の間でもお馴染みになっている。なるべく一定以上の味を保てるよう努力しているつもりだが、まだまだ技量が追い付いていないのが現実である。

 一通りの仕込みを終えるとドアプレートの「Open」の面を表に向け、いよいよその日の営業が始まる。とはいえ平日の午前から人が来ることはほとんど無く、その日の一杯目のコーヒーを自分用に淹れ、新聞を読むか経理の勉強をしながら過ごす。店の経営面についてはオーナーが一切を取りまとめているが、自分も出来ることが増えればという思いから通信教育で勉強するようにしている。

 昼時になり、その日最初の客が店のドアを開いた。近所に住むご老人達で、毎日のように店で昼食を食べ、新聞を読んだりお喋りをして午後のひとときを過ごしていく。ランチタイムが落ち着いた頃に今度はその日の家事を一段落終えた主婦グループが来店した。子供が下校するまでの間、ママ友同士で話をする場所の一つとして店を利用してくれている。どちらも注文時や会計など、こちらに用が無い限り声をかけてくることはないので、接客の苦手な清花はカウンター内で静かに過ごすことが出来た。

 夕方になると長居していた客もいなくなり、また店には清花一人になった。営業時間は一応十九時までということになっているが、日が暮れて客もいなければ光熱費の節約のために早く店を閉めてしまうこともある。そんな日は夕飯の献立を考えながらスーパーに寄り、妹が帰るまでに支度を済ませる。それが豊依清花の日常だった。

 だが最近、その日常に小さな変化が起きていた。日が沈み客の姿が無くなってもなお、ドアには「Open」のプレートが提げられたまま黄白色のランプに照らされていた。もう何周目か分からないBGMを聞きながら、一曲終わるごとに時計の針を見遣る。洗い物も全て終え、テーブルの上も片付け、着々と閉店準備を進めながらも、カウンターの一角、入口に一番近い席だけはそのまま残されていた。

 壁時計の長針と短針が一本になった時、ドアに付けられたベルが鳴り、その日最後の客の訪れを知らせた。

「こんばんは。いよいよ寒くなってきたね」

「いらっしゃいませ。もう十二月ですからね」

 スーツ姿の女は迷う素振りもなくまっすぐに片付けから取り残されていたカウンター席に腰を下ろした。

「今日はコーヒーだけでよろしいですか?」

「うん、お願いします」

 清花の応対もスムーズだった。おしぼりとお冷の入ったグラスを手渡し、注文を確認しただけだが、それだけでも昼間の客に対する時のような緊張は無かった。その客が店に通うようになってまだ日が浅いにも関わらず、最も彼女と打ち解けられている部類に含まれた。


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