鳥に檻籠


 第一印象は天使だった。

 地上に舞い降りた天使。

 人の第一印象ほど必ず裏切られるものはない。しかし、道ですれ違ったら十人中十人が振り返るであろう完璧に均衡のとれた美貌も勿論のこと、それ以上に彼女を「天使」たらしめているものがあった。


 羽


 肩胛骨の下から服を貫通して伸びている、白鳥のそれのように白く大きな美しい羽。比喩でも幻覚でもなく文字通り見た通り、彼女の背には羽が生えていた。

 「人外グレーゴル病」

 原因不明の遺伝子異常によるこの奇病は人の身体を人以外のモノに変質させる。それは動物、植物、無機物、空想上の生物、何でもありだ。彼女の場合、生まれつき鳥の羽が背中に生える鳥型人外病に冒されていた。羽が生えた赤ん坊はさぞ天使らしかっただろう。加えて小学六年生らしからぬ大人びた容姿は、このまま成長すれば将来は「天使」から「女神」にクラスチェンジするに違いない、そう容易に予期させるほどに完成されていた。

 彼女と出会った日の事は今でも鮮明に思い出せる。この年の夏は災害級と呼ばれる酷暑が続き、当時は異常気象だと騒がれた。今でこそ異常が日常となり、それだけで何か言われることはめっきり少なくなったけれど。ともかくも連日の暑さにすっかり気力も体力も奪われていた私は、クーラーの効いた応接室のソファにだらしなく身体を埋めていた。ガラステーブルの上のグラスから麦茶はとうに消え、半分溶けた氷が染み出したかのように小さな水たまりを作っていた。

 向かい合うように座っていたのは二人。一人は件の「天使」。そしてその隣に座っていたのが「天使」の母親であり、私から見て母方の親戚に当たる。この暑い中でも変わらず濃い化粧をしていた。高そうな、ではなく実際に高い服、宝石を散りばめた豪奢なアクセサリー類。部屋の調度品も高級品ばかり。全てこの人が選んだものだ――「天使」のお金で。

 小学生が大金を稼ぐ方法はそう多くない。それも、天使を彷彿とさせる羽と整った容姿を持った彼女が合法的に大金を手に入れるとしたら、誰でも同じ手段を思い付くだろう。彼女の母親はその手段を最大限に有効活用した。

 生後半年で芸能事務所入りした彼女は、天使モデルとして一世を風靡した。十年や百年に一度どころか人類史上最高の美少女としてもてはやされ、いつでもどこでも彼女の姿を見ないことは無かった。赤ん坊の時点で彼女の収入は日本人の平均年収を遥かに超え、事務所を独立し母親のマネジメントの元で活動するようになってからの最盛期に至っては正確な金額は分からないが、高級住宅街に家を建てたりブランド品や貴金属を買い集めたりと、典型的な成金のように羽振りがよかった。彼女の収入は全て母親が管理しており、今でもまだかなり残っているらしい。よく聞く話だが、当時は会ったこともなければどういう繋がりかもよく分からない親戚からよく連絡が来たらしい。仕事が激減した今となってはそれもぷっつり途絶えたそうだが。

「ちゃんと聞いているのつづら? あなたもいい年なんだから、もっとシャキッとしなさい」

「この炎天下の中、駅から二十分も歩いてきたんだよ? もう少し休ませてよ」

「だらしない。定職にも就かずいつまでもフラフラしているからよ」

「何? わざわざ呼び出して説教? 用が無いんだったらもう帰らせてもらうけど」

「まあ待ちなさい。その短気なところは一体誰に似たのかしらね。……今日はあなたに良い話があるのよ」

 この人の言う「良い話」が自分にとって良い話だった試しがない。大抵が「この人に」とって「都合の」良い話だ。前日に呼び出された時から薄々予感はしていたがそれでも唯々諾々のこのこと顔を出したのは、この人に借りがあるからに他ならない。

「この子――蓮歌の家庭教師をしてもらえないかしら。中学受験させるつもりなのだけど肝心の学力がさっぱりでね。住み込みで徹底的にお願いね」

 大学院まで出ているのだから、それくらい出来るでしょう? と押し付けられると、こちらからは何も言い返せなくなってしまう。大学在学中に事故で両親を亡くした私に大学院までの学費を出してくれたのは、他でもない彼女だった。その返済を免除してもらっている以上、彼女の頼みも命令も従う以外、選択肢は無い。細かい条件だけ確認して、引き受けることになるのは呼び出しを受けた時点で決定路線だった。

 話が進められている間、自分の事だというのに蓮歌は一言も発しなかった。結局、住み込むための荷物をまとめるため一旦私が帰るのを見送る時になって、ぽつりと「明日からよろしくお願いします」と呟くのが聞こえただけだった。それはかつてテレビや雑誌で話題をさらった「美少女天使モデル」天生アモウ蓮歌のイメージとはあまりにもかけ離れた、陰鬱で内向的な声だった。

 荷造りは小一時間で済んだ。大学院修了後、就職に失敗し、アルバイトもろくに続けられなかった私は、男女問わずその時知り合った誰かの家に転がり込む生活を送っていた。そのため荷物といっても着替えや身の回りのものくらいで、大きめのバッグパック一つに入りきってしまう量しかなかった。物理的に背負える程度の全財産。

 時間がかかったのは寧ろ家主の説得だった。仕事から帰ってきた家主に翌朝家を出ることを説明すると、案の定激昂された。感情的で、自分の思い通りにならない事が起こるとすぐに激情する人だった。その分情熱的で、出会ってすぐに熱烈なアプローチを受けた。運命という言葉をしきりに使いたがった。前の家を追い出されたばかりで行く当ての無かった私にとっても渡りに船で、すぐその求めに応じた。

 だが恋に保温機能はない。最近はその熱もとうに冷めていて、そろそろ別れ時だと感じていた。当人も無意識のうちに気付いていたのだろう。依存は中毒を誘発し身を滅ぼす。未練を残さないための最後のセックスは、出会った頃とは比べ物にならないほどあっさりと終わった。

 呼び出された二日後から家庭教師は始まった。蓮歌は学校に通っていなかった。モデルの仕事を優先してきた結果、勉強についていけなくなったからだと説明されたが、それだけが理由ではないだろう。背中に羽が生えた桁違いの美少女がクラスにいて、果たして馴染めるかどうか、まともな学校生活が送れるかどうかなんて、火を見るより明らかだ。保健室登校もせず、担任の作った補習課題だけが毎週送られてくる。私の主な仕事はその課題を教えてやることだった。

 引っ越した日の夜、入れ替わるように蓮歌の母親が家を出て行った。今度はパリを中心に半年間、滞在するのだという。彼女はこうして一年のほとんどを海外で過ごし、日本には滅多に帰ってこない生活を送っていた。蓮歌の稼ぎを道楽に費やしているのだ。蓮歌を有名私立中学に進学させようとしているのも、そのまま系列の女子大を卒業させ、彼女に学歴という箔をつけて上流階級と結婚させるためだ。これだけ聞くと娘を利用する寄生虫のような母親だが、人の才能を見抜く能力に長けており、海外生活の中で出会った若い芸術家や修行中の職人を金銭的に援助し、何人も世界的に有名になるほどに大成させているパトロンの一面も持っている。

 蓮歌の父親も仕事で国内外問わず飛び回っており、滅多に家に帰ってこない。そのため家事の一切はハウスキーパーに任せられていた。人当たりの良いおばあさんで、夫を早くに亡くし子供も独立したため住み込みで働いてくれている。

 二十代最後の夏が、こうして始まった。

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