花に毒薬


 携帯電話のアラームのけたたましい音で目を覚ます。月が沈んでからしか眠れていないので完全に寝不足だ。気怠い身体とまだ覚醒しきっていない頭を抱えて布団から出た。抜け毛だらけのシーツと枕カバーとパジャマを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて念入りに身体を洗う。残っていた毛が洗い流され、排水溝がすぐ詰まってしまうので掃除してから浴室を出た。

 クリーニングから返ってきたばかりの制服に着替え、髪を乾かしている間にトースターで食パンを焼いておく。髪型はいつも同じ、文字通り尻尾みたいなポニーテール。

 まだ元の長さに戻らない歯で舌を噛まないように気を付けていたら、食パン一枚を食べきるのにたっぷり十分もかかってしまった。少し焦げたウィンナーがいつもより美味しく感じられる。

 爪を切っていたら遅刻しそうになったので慌てて部屋を出た。こういう時だけ、学校近くの寮暮らしでよかったと思う。電車通学じゃないことも。

 電車は苦手だ。特に今日のような満月の翌朝は。

 寮から学校までの五分の道程はいつも俯いて歩いている。他の生徒と目を合わせないようにというのが理由の一つ。もう一つは、学校が近付いてくるのを見たくないから。落ち込んだ気分を味わう時間は、なるべく短くしたいというささいな抵抗。

 下駄箱を開ける時はなるべく身体を離して、何が飛び出しきてもかわせる体勢にするのが癖だ。癖になった。今朝の下駄箱は空だったので徒労に終わったが。

 空だった――何も入っていなかった。昨日帰る前に中に入れたはずの上履きさえも。

 とりあえず今履いてきたローファーを裏返しにして下駄箱に入れる。こうしておけば中に何か(画鋲とか)を入れようとすると必ず一度は靴を表に返さないといけないので、朝からの変化で誰かに触られたかどうかが一目で分かるのだ。大多数の人にとっては無用な知識だろう。足を引きずるように歩くせいで、ローファーの靴底はボロボロだった。

 そしてここで履き替える予定だった上履き(行方不明)だが、とりあえず下駄箱の傍に置いているゴミ箱の中には無かった。もっと念入りに探したいところだったが、他にありそうな心当たりはなく、もうすぐホームルームが始まる時間だったので一旦諦め、リノリウムの廊下の冷たさを靴下越しの足裏に感じながら教室に向かった。

 三階の教室に着く前に予鈴が鳴ってしまった。もう先生は中に入っているようだった。後ろのドアから入ろうとして、十センチほど隙間が開いているのに気が付いた。ドアの上の方を見てその理由が分かった。

 上履きが挟まれていた。

 ドアを開けたら落ちてくるという、古典的な仕掛けだ。今朝はどうやらこれらしい。抵抗は火に注がれる油だ。甘んじて受けるのが結局最も被害を少なくする。私はその事を嫌というほど学んだ。

 落ちてくる埃と衝撃を覚悟してドアを開けた――が、私に降りかかってきたのは予想とは少し違った。

 ザーッ!

 土煙で視界が一瞬埋め尽くされる。落ちてきたのは大量の土と砂だった。上履きの中に詰められていたのだろう。砂利も混ざっていて頭や肩を強かに打ちつけた。口の中がジャリジャリした。

 落ちていた上履きを拾って確かめると、案の定私のものだった。

 教室はちょうど出欠確認の途中だった。教室中の視線が私に注がれ、クスクスと笑い声がそこかしこから漏れ聞こえてきた。ドアのすぐ横の机も今の巻き添えで砂まみれになっていたが、いつもそこに座っている人の姿は無かった。もしや都合良く休みだったのかとも思ったが、よく見るとその机は私がいつも窓際の一番後ろで座っていたものに違いなかった。そしてそれが元あった場所には昨日までドア横の席に座っていた人の姿があった。私の知らないうちに席替えがあったという可能性もゼロではないだろうが、十中八九このトラップのためにわざわざ机を交換したのだろう。巻き添えを避けるために。

「きったねー」

 クラスの誰かが言った。誰もが思っている事だった。私自身も含めて。朝からシャワーを浴びた髪も、クリーニングから返ってきたばかりの制服も、頭の先から足の先まで全身、鞄も、机も、全て土と砂と泥まみれだった。

「あー、狼河ロウガ。頭と顔を洗って着替えてきなさい。授業が始まるまでに机と床の掃除もしておくように」

 担任の先生が私から目を逸らしてそう言い、ホームルームを再開した。まだクラスの何人かは私に視線を向けてクスクス笑っていたが、担任はそれに気付かない振りをして来週のマラソン大会についての説明を始めた。やがていつまでも動かない私に飽きた人達は近くの席の人と私語を始めたり担任の話に茶々を入れたりして、教室内は一見賑やかなホームルームの光景を取り戻していた。しかしその中で最後まで私に視線を向けている人がいた。

 玉簾タマスダレ珠琉タマル

 肩書き「生徒会長兼理事長代理」

 彼女を一言で評するなら、それは「女王」が最も似つかわしい。世界に名だたる玉簾グループ本家の一人娘、だからだけではない。この学校の本来の理事長もまた玉簾家の一人なのだが、生徒会長である彼女がその代理をも務めているため、事実上彼女こそがこの学校の支配者なのだ。気高く、高慢で、誇り高い、高嶺の花。いつでも取り巻きの生徒に囲まれ、教師でも彼女には逆らえない。まさしく女王の独裁である。

 そしてその女王の指示によって、私は今朝のようないじめを、入学してからずっと受け続けている。クラスメートはおろか先生も誰も注意しない。たとえどれだけ露骨ないじめが行われていようとも、それを主導しているのが学校の支配者たる彼女ならば、それは公認されているのと同義になる。いじめが始まってすぐの頃は若く正義感溢れる先生が何人か彼女に意見し、私を助けようとしてくれたけれど、一人残らず追放クビにされた。それ以来残った先生はこの件に関して誰もが目を逸らし、耳を塞ぎ、口を閉ざしている。命あっての物種、雇用されてこその教員だ。

 彼女は他の人のように私を嘲笑ったりはしなかった。だがその目は寒気がするほどに冷たく蔑みに満ちていた。いつもそうだ。私をいじめるよう他の人達に指示を出すだけで、彼女は直接手を出さず、ただ黙って見ている。じっと突き刺すその視線に耐えられず、私は逃げるように教室から出て行った。砂まみれの上履きを胸に抱えて。

 保健室で事情を説明し、職員用の更衣室のシャワーを使わせてもらった。保健室には度々お世話になっているので深く追及されずすぐに案内してくれた。着替えは学校に置いたままだった体操着を使うことにし、上履きの代わりに来客用のスリッパを貸してもらった。

 砂を洗い流し、教室に戻った時にはもうホームルームは終わっており、一限目の授業が始まるまでの喧騒に包まれていた。私が戻ったことには誰も気を払わなかった。机は砂まみれのままだった。このままでは座ることも出来ないので言われた通り掃除をするために、教室の隅に置かれている掃除用具入れのロッカーを開けた。途端、中に入っていた箒やらモップやらバケツが一斉に私に向かって倒れてきた。突然の事に即座に反応することが出来ず、押し倒されるように私は掃除用具の下敷きになった。

「キャーハハハッ! まさかこんなのに引っかかるなんて! ほんっと、鈍くさいヤツ」

 一人の女子がキャイキャイと笑った。彼女は玉簾さんの取り巻きの一人だ。玉簾さんの右側rightの席に座っているからR子と内心では呼んでいる。なお当然左側leftの席のL子もいるのだが、それはともかく。「引っかかった」ということは今のも狙ってやられたということなのだろう。用意周到なことだ。まだ登校してから三十分も経っていないのに、今日はいつもよりハイペースだ。

「早く掃除しなさいよ。汚いったらもう」

 R子が私を見下す。その目にも侮蔑の色は浮かんでいたが、玉簾さんのような寒気は感じなかった。

 この学校で私を見る目の色は大きく二つに分かれる。大多数の侮蔑と、一部の憐れみ。どちらも見下した目だ。あまりに毎日向けられ続けてきて慣れてしまったのか、最近は何も感じなくなってしまった。ただ一人、玉簾さんの視線を除いては。それは、彼女の目力が人一倍強いせいだけではなく、私の中の後ろめたさが、彼女の視線に耐えられないのだ。

「いい加減にしなさいよアナタ達。こんなに汚したのはそもそもアナタ達の仕業でしょうが」

 凛とした声が響いた。その声は私の手を取って立ち上がらせ、庇うように前に立った。R子と対峙していたのは学級委員長だった。

「玉簾さん。高みの見物のつもりか知らないけれど、いい加減こんなことやめたらどうなの? 一人の生徒を名指ししていじめさせるなんて、生徒会長のやることとは思えないのだけれど?」

「……貴女には関係ないわ」

「関係ないことは無い! 私はこのクラスの学級委員長として、クラスの問題を解決する責任があるの! アナタも生徒会長である前にクラスの一員である以上、決して特別扱いするつもりはないわ」

 委員長の家もまた玉簾家に並ぶ資産家で、学校にも多額の寄付をしているらしい。そのため学校内において玉簾さんに対等に立ち向かうことが出来る数少ない一人だった。そして玉簾さんの支配を快く思わない人たちは委員長を取り巻くようになり、挙句の果てに会長派と委員長派の派閥対立にまで発展していた。彼女が私を庇うのもそれが理由だ。私が玉簾派にいじめられている。だからそれに対抗して、私を助けているに過ぎない。「狼河さん、大丈夫?」とかがんで訊ねる委員長の目は、同じ高さにあっても私を見下していた。

 結局委員長派の人の手を借りて、何とか授業が始まるまでに机と床の掃除をすることが出来た。

 その日はそれ以降、玉簾派からのいじめを受けることは無かった。朝の委員長の一喝が影響したのかもしれない。しかし明日からはまた再開するだろう。委員長が何と言おうと、玉簾さんが私をいじめることを止めるはずが無い。彼女の私に対する怒りは、憎しみは、そんな簡単には消えはしない。それは私が誰よりも知っている。

 これは罰なのだ。

 私が彼女を深く深く傷つけた罪への、これは罰。

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