第11話 副業は義務、と信用した妻が、起業したい、と言う

 日本経営新聞1面に「大手商社の角紅、社内副業を義務化」と掲載された日、私は18時20分頃に帰宅した。由美は生後6か月になる康を抱きかかえながら、笑顔で「おかえりなさい」と出迎えてくれる。由美の後ろに隠れて立つ健も、由美に手で押されて挨拶を促されるかのように「パパ、おかえりなさい。お風呂いっしょに入ろう」という。


 由美の笑顔を数か月ぶりに見た。これも勿論、嬉しい。しかも、健が初めて、パパと呼んでくれたことにも私は感動し、健を抱きあげて、頬ずりしながら「ただいま。今から健、康、パパの3人でお風呂はいろうね」と言う。


 感動のあまり、いつもの声より、1オクターブくらい甲高い声が出てしまい、由美がクスクスと微笑んでいる。由美は、たぶん「私が演出した通り、亭主が感動している。ふふふ」とでも感じているように見える。


 演出された出来事、と分かっていても、人は感動する。健が、パパと呼んでくれないことへの悩みを由美には何度か伝えていた。由美がこの数か月、私へ笑顔を見せてくれないことへの悩みは、直接的に伝えてはいないが、由美を気遣う行動として示している。今日は18時半には帰宅して息子2人を風呂に入れる、という約束も、気遣う行動の一つだ。由美はこれらを感じとってくれているから、今日の演出をしてくれたのだろう。


 息子2人が寝付いた夜、由美とワインを飲みながら話す。ワインは、キャンティ・ラブコレクション。仕事の帰りに、会社の最寄り駅である有楽町のルミネにある成城石井で購入したものだ。

 私は冷蔵庫で冷やしておいたワインを開封しながら「由美、以前これ、飲みやすいから好き、と言ってたね」と話しかける。


「あら、ずいぶんと気を遣ってくれるね」


「だって、由美は今朝こういったよね。週の半分位は早く帰宅して、子どもを風呂に入れたり、遊んであげてよ。いつも帰りが遅くて、遊んであげないから、健は亮に懐かない。いつも私にばかり、まとわりつくのよ。私だって、外で働きたい、って」


「そんな私の愚痴に亮は、今日は18時半には帰宅して息子2人を風呂に入れる。話はその後で、って約束して、その通りに行動してくれているよね。ありがとう」


「その俺の行動に由美は、健にパパと呼ばせるとか、お出迎えの演出をしてくれた。すごく嬉しかった。ありがとう」


「あ、言われた通り、新聞を読んだよ。それで大切な話があるの」


「大切な話? 話は重い方からじゃなくて、軽い世間話からでいいの? その新聞記事は、フェイクニュースだよ。俺は、また日本経営新聞がフェイクニュースを垂れ流している、って軽い世間話をして、由美がどんな反応をするか見たかっただけなんだ」


「フェイクニュース? それは後で聞くとして、重い方の話って何?」

「由美が外で働きたいって話」

「大切な話って、外で働きたいって話よ」

「えー、わけ分かんない」


 由美は新聞記事の見出し「大手商社の角紅、社内副業を義務化」を指さしながら「わけ分かんない理由は、フェイクニュースの程度にありそうね。この記事の何がどうフェイクか、説明して」という。

 私は今日の昼休みに、同期入社の横溝が絶賛してくれた分析の話を由美へ披露した。


「20%ルールの実践を義務化、という角紅の発表を、日本経営新聞が、社内副業を義務化、と言葉をすり替えた、マスコミのフェイクニュースは、いつものことながら酷いわね。でも、いつも亮は、マスコミのフェイクニュースに振り回されてはいけない、とも言っているよね。私も本当に、そう思う。だから、このフェイクニュースと、角紅の公式発表は、勤務時間の20%は会社の役にたちそうな事業の企画や行動しろ、って話の幹は、どちらも同じ、と考えればいいんだよね? 大切な話って、亮がその20%をどう使うか。できれば、私たちのために使ってほしい、って話なの」


「うーん、確かに。俺は、マスコミのフェイクニュースに振り回されてはいけない、と分かってはいる。でも、今日は朝から晩まで日経新聞のフェイクニュースに振り回されていたよ。由美にそう言われてみると、男性は女性よりも、他人の言葉じりを捕えたり、細かい粗を探すのが好きなんだろうね。今日、角紅の社内での光景を思い起こしても、日経新聞1面を、フェイクニュースだ、と公然と憤慨していた人は、男性ばかりだった。女性は、いなかった。俺、男女の差異をもう少し考慮した方がいいかもね。じゃあ、話を本題に戻そうか。由美が最後に言った、俺たち家族のためって話を聞かせて」


「そこは私の表現が拙かったわね。私が言った、私たちのため、って私の家族だけを意味するんじゃなくて、私の家族と友達、のことなの」

「うん、わかった。続けて」


 由美は何からどう話すかを真剣に考えているようで、5秒ほど間をあけてから、ゆっくりと語り始める。

「実は私、子育て中のママ友の何人かと以前から、こんな話をしていたの。子育て中のママ友たちが、我が子を同伴で育児しながら働ける飲食店を立ち上げたいねって。お客さんは、私たちと同じ世代、同じ悩みをもつ子育て中のママと子ども。ほら、小さな子どもを連れて飲食店へ行くと、お店の人や他のお客さんが、嫌な顔をされるの。そんな気兼ねなく、ママと子どもが一緒に楽しんで寛げる場所が欲しいね、しかもそこは働ける場所でもある。そんな場所を自分たちで創りたいね、って。ママ友が何人かで協働、交代制の店を自分たちで創れば、働くのは週に3日くらいでいい。子育て中のママには、ここが重要なの。今ある仕事って、二極化が問題よね。やりがいはあるけど、週に5日以上フルに働く多忙な正社員か。週3日の勤務でいいけど、やりがいはない非正規か。この両方の、いいとこどり、がママの理想なの。でも、話が盛り上がるのは、この理想の段階まで。店を立ち上げる、経営するって実践の具体的な話になると、女だけ、ママだけでは無理だよねって結論で話が終わるの。この、店を立ち上げる、経営するって実践の部分を、亮が社長になって、副業でやればいいって、新聞を見て、閃いたの。ほら、亮は将来いつか経営コンサルタントとして起業・独立するのが夢だといっていたよね。この副業は、夢をかなえる練習にもなるって思うんだけど、どうかしら?」と、由美は真剣な眼差しで私を見つめる。どうやら本気のようだ。私も由美が語り始めるときと同じように、5秒ほど間をあけてから、要約的な感想を言うことにした。


「細かい点でツッコミを入れたいことが山ほどあるけど、総論としては、すごく面白い。前向きに話しを進めていこうか」


「えー、本当に面白い? 嬉しい、すごく嬉しい。どう面白いの?」


「事業や店を立ち上げるには、コンセプトが最も大切なんだ。お金を払うお客さんも、働く従業員も、共感できるコンセプトを創れば、その事業や店は成功できる。それで今、由美から聞いて私が描いたコンセプトは、こんな感じ」

「え、どんな感じ?」


「働きたいけど働けない子育て中のママに、子どもと一緒に働く方法と、居心地の良い居場所、の両方を創造する。そんな素敵な店がある地域に住みたいね」


 私はコンセプトを披露した後、コンセプトの後半は不要だったかな、と少し後悔した。コンセプト後半の「そんな地域に住みたい」は、私が角紅で仕事をしているマンション開発・街づくりでは必須だが、ママさんには必ずしも必要ではない。そんな不安から由美を見ると、私の不安に反して、由美の目はウルウルと輝いている。


「そう、それなの。それって、私たちママ友が、ずっと漠然と話してきたことなの。それを亮は私の話を一分で聞いて、魅力的で的確な一言のコンセプトにしてくれた。明日、友達たちに披露するね。亮が社長になる、って話と一緒に」


「俺が社長になる? 俺、そうは言ってないし、ママ友たちが認めるか分からないし」


「そこは大丈夫。店を立ち上げたいママ友って、みんな育児教室に来ていた人たちなの。みんな亮のことを知っているし、亮も彼女たちを知っているはずよ。それにママ友たちの理想談義で、店を立ち上げる経営するって実践の部分を、亮にやってほしい、って話が以前に何度か彼女たちから出ていたの。だって、こういう背景があるから、亮に今日の大切な話ができるのよ。それに、ほら、亮は自分でもよく話すように、中高年おやじからの評価は低いけど、女性や同世代の若者からの評価と期待は高いのよ」


「そうやって、おだてて、こき使うんでしょ? 社長とはいっても、大企業の高収入だけど働ない、御飾り社長とは正反対で、かぎりなくタダで一生懸命に働く名ばかり管理職みたいな名ばかり社長を期待しているよね?」


「そうよ。店の収益というお金はママ友だけで分配する。損失が出てもそのお金はママ友だけで負担する。そのかわり、お店が成功したときの実績や名誉、逆に失敗したときの不名誉とか、お金以外の成果は全て社長の亮もの。最初から、そう決めておかないと将来、もめるでしょ? これくらいの見識や覚悟は、私たちママ友にあるよ。私は角紅で働いていたし。他のママ友も昔、みんな一流企業で働いていたし」


「いい話だね。今の話、成功へ必要な重要な論点が2つあるよ。まず、収益も損失もママ友だけで負担するって話。細かい点は後でツッコミを入れるね。もう一つは、社員になるママ友たちは、起業の経験こそ無いけど、やる気と能力はすごく高いって話。起業や事業が成功するか失敗するかの分かれ目は、人の資質にある。人の資質は高いから、安心して社長になれ。安心して社長として、こき使われろ、ってことかな?」


「そうよ。社員がバカで無気力だと、社長は大変。逆に、社長がバカで無気力な御飾りだと、社員が大変。これくらいの見識だって、私たちママ友はみんな体験してきた強者ぞろいよ」


「うーん、ますます面白い展開になりそうだね。だって、事業や店の立ち上げでは、何をやるかよりも、誰とやるか、って人の資質がすごく重要だからね。資質が高いママ友たち皆が、俺に社長をやってほしい、という話になれば、社長なのか代表なのか名称や役割はさておき、やってみるよ。そういう前向きな前提で、もう少し細かい話も聞いておこうか。さっき、細かい点でツッコミを入れたいことは山ほどある、と言ったよね。私が前向きではないのに、ツッコミを一方的に入れる行為は何の役にも立たない、あら探しにすぎない。でも、私も由美も前向きな意識で双方がツッコミを入れあう行為は、生産的で楽しいよね」

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