第8話 女性が出産後に仕事を辞める理由
育児は保育園へ丸投げ、母親として失格、という怪文書が郵便ポストに投函されていた夜、私は由美と話し合う。
「由美、この手の怪文書は、みんな迷惑とか書いてあるけど、たった一人の偏屈者による嫌がらせにすぎない。気にする必要はない。むしろ、気にしてはいけない。気にして、落ち込んだり、仕事をやめたりしたら、怪文書を送りつけた偏屈者の思うつぼ、だよね」
「私もそう思うけど、そう言われて、保育園へ健を預けて働き続けるのは、勇気がいるよ」
「うーん、この場合に必要なのは、勇気ではなく、鈍感さ、だね。たった一人からの批判なんか、気にしない鈍感さ」
「でも、昨日も今朝も、エレベーターで乗り合わせた人の迷惑そうな視線を一身に浴びて、辛かったの。迷惑している人は、一人じゃなくて、もう少し多いかも。そう考えると、近所の人の視線が怖い」
「そう考えるのは、えてして当事者の由美だけ。周囲の人は当事者が意識するほど、他人の行動とか失敗とか関心ない。これが現実。だから、他人の視線を気にしない鈍感さがあって、現実と同じになる。そもそも、私が出張だったこの2日間は特別なことで、また明日から朝は以前に戻る。そうしたら、怪文書の送り主とか近所の人だって、あの2日間は特別な状況だった、と分かる」
「でも、」
「でも、でも、って悪い方向へ考えないためにも、他人の視線を気にしない、鈍感さは必要だよ」
私は由美へ話した今日の言葉は、自分へ言い聞かせるように紡いでいた。私も仕事では、周囲の視線を気にしてしまう。上司より先に帰宅するときは、上司の視線が気になる。飲みにケーションの誘いを断るとき、その翌日に飲みに行った人たちと目があったときは、彼らの視線が気になる。
他人の視線が気になる、視線恐怖症とも言うべき心の病は、由美や私に限らず、多くの人に共通する症状、だと思う。しかし、他人の視線が気になるから、自分がやりたい行動を諦める。逆に、他人の視線が気になるから、自分がやりたくない行動を続ける。それは実に、もったいない。
そこで、私は「周囲の人は当事者が意識するほど、他人の行動とか失敗とか関心ない。だから、他人の視線を気にするな」と、自分へ言い聞かせて、自分がやりたい行動を実践するようにしている。そんなとき、できれば「その生き方で良いよ」と、親しい人から応援してほしい。応援がないと、やはり心が辛い。だから私はそのようにして、由美を応援したい。
怪文書が郵便ポストに投函されてから1週間後の夜、由美が寝る前に話がある、という。
「仕事の区切りがつく5月に、会社を辞める」と、告げられた。
辞めたい、という相談であれば、私としては、理由を深く聞いて、辞めない方法での解決策を一緒に考えるだろう。しかし、辞める、という報告の形を由美は選んでいる。このように、報告の場合は、まず聞き役に徹するべきと判断した。
「理由を話せる範囲で聞かせて。怪文書の事件から今日で1週間だね。由美から理由を聞かないと、俺は怪文書だけが理由と考えて、犯人さがしや復讐をしてしまいそうだから」
「怪文書の事件だけが理由ではないけど、きっかけにはなったかな。事件のあと色々と考えたり、他人の視線が気になったりで」
「他人の視線って、マンション内だけ?」
「マンション内も気になるけど、マンション内の人は付き合いが浅いし、相手の状況も見えないから、あまり気にならないかな。それより、同じ歳くらいの状況が分かる女性なの。保育教室で知り合って、働きたいけど働けない近所の友達とか。会社には、産みたいけど産めない人、結婚したいけど結婚できない人がいる。そういう彼女たちから見れば、私は全てを手に入れている、幸せ者。そんな私が、育児も仕事も不満を感じながら両方が中途半端な今の状態は、良くないかなって。育児休暇中の2年って、そういう彼女たちのことが見えなかった。それで育児に不満を感じたり、その反動から、働きたいと感じたり。それが見えるようになった今は育児に楽しんで集中しようかなって。仕事は育児に区切りがついてから始めればいいし。うちの両親も年末に帰省してから何度も電話してきて、そうしろ、2人目を産め、って煩いのよ。お義母さんもそう言ってるんでしょ?」
「うん、健が5歳くらいまで働かないで、そばにいてやれ。男の一人っ子は良くないから、2人目を産んで、健をしっかりとしたお兄さんに育てろって言い方でね。でも、俺は周囲が何と言おうと、由美の意志を尊重したい。由美が今、働きたいなら今まで以上に俺、イクメンになる。由美が2人目を産みたいなら、今夜からでも?」
「話って、このことだったの。2人目をつくりましょう、今から!」
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