第7話 育児は保育園へ丸投げ、母親失格という怪文書
由美が6時半に家を出て出勤し始めてから、健が由美の出勤時間より早く起きることはなかった。健を保育園へ送る8回目の朝、健の保育園での様子を保育士さんに聞いてみた。
「健ちゃん、新しいお友達とも仲良くしているし、すごく楽しそうに遊んでいますよ。健ちゃんだけでなく、しっかり保育園で遊んで、バタンキューで朝まで熟睡する子が多いみたいですね。お子さんが朝ゆっくり寝ていてくれるから、ママは静かに素早く出勤できるって、私たち保育士に感謝して頂ける話を、お迎えにくるママさん達から、よく聞きます。あ、私たち保育士の役割も必要ですけど、パパの役割が大切ですね。だって、お子さんが朝ゆっくり寝ている間に、ママが出勤できるのは、パパがお子さんに朝食を食べさせたり、着替えさせたり、保育園へ送る協力があってこそですから。特に、山口さんのイクメンぶりは私たち保育士の間で評判ですよ。保育園へ毎日来てくれるし、我が子を見つめる笑顔が素敵って。実は最近、児童虐待とか増えているみたいで、役所から怪しい親がいたら報告しろ、って言われているんですよ。そう言われてみると、我が子に怒ってばかりの親御さん、意外と多いんですよ」
「現場は大変ですよね。役所は現場を知らないし、自分で現場を見る意思も無い。だから、事件や問題が起きると、なんでも現場に報告させることで、仕事をしたつもり、でいる。しわ寄せは、いつも現場に押し付けられる。だから、保育士さんは親を今まで以上に、観察しているんですね。それにしても、私がイクメン? 私の笑顔が素敵?」
20歳台と思しき若い保育士さんから褒められて、今の私、鼻の下が伸びているんだろうな。お世辞でも、嬉しい。あ、そうか。保育士さんは預った子どもを褒めて、育てているんだな。いつも子どもを褒めている習性から、私のような保護者と会話しても、とっさに自然な褒め言葉を繰り出すことができるのだろう。
保育士さんから褒められた日、私は会社へ行くと翌週に、大阪へ出張することになった。期間は2日間。初日は朝6時半の新幹線に乗る必要がある。ということは、健を保育園へ送る役割を2日間こなすことができない。
帰宅後、由美と話し合った。その2日間は由美も会社を休めない、という。その2日間だけでなく、復職したばかりの由美はゴールデンウイーク前の4月は1日も休めないほど多忙らしい。私もゴールデンウイーク前の4月は1日も休む余裕はない。こういうとき、どちらかの親が近くに住んでいると助かるのに、と思う。
しかし、我が山口家の実家は、私が広島、由美が福岡である。この話は、ダジャレにしやすく、結婚式で仲人を務めてくれた私の会社である長野幸三が、いいだしっぺである。
「私は新郎の山口亮くんが所属するマンション開発事業部で部長の長野といいます。長野県の長野という字を書きますが、山口県の出身であります。山口県といえば、新郎の山口亮くんのご実家は山口県の東にある広島。新婦の由美さんは山口県の西にある福岡にご実家があります。お二人のご実家の間に実家がある山口県出身の私が仲人を担えば、新郎新婦の仲を末永く良好であろうと確信しております。もし新郎新婦が何かに困ったときは、山口県出身の私をはじめ、我が角紅が総力をあげて支援します。両家のご両親、ご親族の皆様、大船に乗ったつもりで安心してください」と、長野はスピーチを締めた。
そうは言ってくれても、このような困り事は、やはり夫婦で解決するしかない。だから、この2日間は保育園の送迎ともに、由美にやってもらうことにした。
大阪への出張1日目の夜、由美へ連絡した。電話越しに聞く由美の声は第一声から、困り疲れ果てている状況が伝わってきた。
由美は朝6時過ぎ、健を保育園へ連れていくため、熟睡していた健を起こす。しかし、なかなか健は起きない。由美は会社へ行く時間が迫っているので強引に、たたき起こす。健は朝食を食べる間もなく、たたき起こされて保育園へ向かう健は泣きわめく。健の不機嫌さは、その後もずっと続く。家を出た後も、眠い、嫌だ、と泣き叫ぶ。たぶん、タワーマンション22階の同じフロアの住人は朝7時前から、うるさくて迷惑だったであろう。由美は、エレベーターで乗り合わせた人の迷惑そうな視線を一身に浴びて辛かったという。
この失敗要因は、熟睡している健をたたき起こすことによる健の不機嫌さを、不機嫌で泣き叫ぶ程度の大きさを、私と由美が考慮できなかったことにある。
前日まで、健と私が保育園へ向かうために家を出る時間は、朝9時過ぎだった。健は遅くても、8時半頃には自分の意志で起きていた。なぜなら、情操教育と目覚まし時計を兼ねて、朝7時半から、健の枕元で音楽を流している。8時を過ぎても、健が起きない場合、音楽のボリューム音を更に上げる。健の眠りは7時半頃から浅くなり、8時から8時半の間に、気持ちよく自分の意志で起きるように私は設計していたのだ。
健の身体が、このリズムに慣れた頃、設計者の私が、2時間も早く健を起こす弊害を考慮できなかった。大人の場合、仕事などの都合で起きる時間が2時間くらい変わることは珍しくない。前日に酒を飲んだせいで、定時に起きられない日もある。そんな日でも、大人は目覚まし時計に、たたき起こされる。たたき起こされても、しかたないことと割り切り、不機嫌にはならない。このような大人の感覚を当たり前と思ってしまうと、子どももそれに対応できる、と錯覚してしまう。
私はこのように反省して、由美へ明日だけは出勤時間を少しでも遅くしてくれるよう依頼した。私の意図は、健の身体のリズムのこともあるが、今朝と同じ人に、同じ時間帯で同じ状況を目撃されないように時間を変えることもある。由美は1時間、遅く出勤することを了承してくれた。
翌日の夜、大阪から家に戻ると、由美は酷く落ち込んでいるように見えた。健が朝、保育園へ行くとき、泣きわめくだけでなく、別の事件が起きたのかもしれない、と私は由美の表情から感じた。由美は、これが郵便ポストに投函されていた、と言い1枚の紙を私へ手渡す。プリンターで印刷されたA4用紙には次のように印字されていた。
早朝から子どもが泣き叫ぶ声、うるさい。子どもは保育園へ預けられることを、ひどく嫌がっているご様子。もう数年もすれば、子どもは自立できるのに、それまで待てないの? あなたは近所の迷惑も考えていない、近所みんなの迷惑。子どものことも考えていない、育児は保育園へ丸投げ、母親として失格!
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