第3話 妻は働きたいが、子どもはママとずっと一緒にいたい

 私と由美は、社内恋愛で結婚している。由美は健を産む3カ月前から育児休暇を取得した。このとき、豊洲へ移住した。育児休暇は最大24ヶ月だが、由美は20ヶ月で復職している。理由はそのときが4月で、保育園の新年度申し込み時期だからである。4月で、健は1歳半になり、保育園への入園に適応できると考えていた。健が保育園へ適応できるように、私たち夫婦は計画的な準備プロジェクトを進めていたから自信があった。

 プロジェクトというと大げさだが、健が1歳になる頃から少しずつ、ママばなれを促した。まず、健が1人で遊ぶ方法と楽しさを、パパとの遊びから学んでもらう。次に、健が友達と遊ぶ楽しさを学ぶよう、公園や公民館に滞在する時間を長くした。そして、健がママに甘えたとき、少しずつ突き放す。ママと一緒より、パパや友達と一緒の方が楽しいと感じてもらう作戦だ。

 このプロジェクトは、地元の自治体である江東区が公民館で開催する、育児イベントへ継続的に参加して学んだことを、共に学んだ近所のママパパたちと協力しあって実践した。だから、私は自治体お墨つきのプロジェクト実践で、健は保育園への入園に適応できると考えた。

 江東区の子育て支援のプログラムは、育児の基本に始まり、ママばなれ等さまざまなノウハウも教えてくれる。育児教室に通う中で、子育て支援の政策に携わる江東区の職員と話す機会があり、私は感謝の意を伝えた。すると職員は次のような裏事情を話してくれた。


「今、少子化と人口減少が顕著に進む中、自治体が最も力を注ぐ政策は、子育て支援です。自治体は横並び主義なので、自治体間で人口を獲得する競争と、子育て世代に移住してきてもらう競争が過熱して、いろいろと問題になっています。例えば、もう子育てを終えた中高年の人は、子育て支援にばかり税金を使うな、と言います。あるいは、子どもの声が煩いから、保育園は作るな、という苦情が非常に増えています」


 豊洲にも「子どもの声が煩いから、保育園は作るな」と文句を言う自分勝手な高齢者がいることを聞いて私は落胆した。しかし、まさか「健の泣き声が煩い」と言われるとまでは想像できなかった。


 健を保育園に預ける初日も、自治体お墨つきのプロジェクトで学んだ通りに行動した。

 由美と健は、同じく今日から入園する近所の母子と待ち合わせて、4人で保育園へ向かう。その子どもは、勉くんといい、健とは公園や公民館で最も仲良く遊ぶ友達である。

 2人のママは「今日から、勉くん(健くん)と、ここで楽しく遊んでね。ほら、いつも一緒に遊んでるお友達が、あそこにも居るよ。ママ、夕方に迎えに来るからね」等と言い、保育士さんへ子どもを預ける。ここで、子どもたちは泣きわめく。しかし、ママは心を鬼にして、立ち止まりもせず、振り返りもせず、会社へ向かって歩き続ける姿を見せることが大切らしい。

 子どもが泣きわめくとき、ママが立ち止まってオドオドしたり、子どもの希望通りの行動をとると、子どもは泣きわめけば希望通りになると学習してしまう。

 プロジェクトでは「子どもが泣き出しても、子どもは保育のプロに任せてください。保育園で最初の1日を必ず楽しんで頂きます。ママが時間通りにお迎えに来て、その後ママと楽しい時間を過ごせば、2日目から保育園に適応できます」と指導された。


「プロに任せてください」と自信をもって言われると、顧客は安心できる。このケースで顧客である私は、子育ては一人目で、初体験のことばかり。一方、プロの保育士さんは、100人以上の育児経験があるベテランもいる。私も仕事で、そのような機会があれば「プロに任せてください」と言ってみたいと思う。


 2日目からの保育園への送迎は、プロジェクトの指導と私たち夫婦の仕事状況から、朝は私が健を保育園へ送る。お迎えは由美が行く、という役割分担にした。なぜなら、子どもは保育へ送られるとき、泣きやすく。しかもママがこの役回りを担うと、もっと感情的に泣いてしまう。逆に、保育園へのお迎えは子どもが再会を待ち望むママが行くと、子どもは喜ぶ。

 由美はフレックス勤務制度を早い方へ使い、7時半に出勤すると、16時に退社できる。そうすれば、16時20分頃には保育園へお迎えに行ける。

 私はフレックスを遅い方に使い、9時半に出勤すると、健と9時過ぎまで一緒にいれる。この役割分担の良さは2つある。まず、健が保育園に滞在する時間は、他のこどもたちと比べれば、かなり短くてすむ。そして、由美が会社へ行くために家を出る7時10分頃、健がまだ寝ていれば、由美は辛い思いをしないで済む。

 しかし、2日目、健の保育園へ行きたくないの拒絶ぶりは想定外に凄かった。健は6時半には起きて「ママ、今日は会社へ行っちゃダメだよ。今日はずっと一緒に居てね」と、グズリながらママに抱きついて、ママを離さない。私は6時半にはジョギングを終えて帰宅していた。


「健、今からパパと朝ごはん食べて、8時半まで一緒に遊ぼう。パパと2時間も遊べるよ、何しようか、電車で遊ぶ?」と言いながら、ママにしがみつく健を抱き上げる。私は由美へ目配せして、出勤の準備を促す。

 健はママから引き離されて、号泣し始める。健はママの所へ行きたくて、小さな身体全体をバタバタさせて、抱きかかえる私の腕を引き払おうとし続ける。

 身支度を終えた由美が私と健の元に歩み寄る。化粧をして薄いピンクのキャリアスーツを着る由美は、表情に艶があり、大きな瞳は輝き、美しい。改めて、惚れてしまう。由美のキャリアスーツ姿を見るのは、私にとって2年ぶりくらいだ。健は初めて見るママの綺麗な姿だが、泣きじゃくる健には、ママの顔と服装がいつもより綺麗に変身していることに全く関心が無いようだ。


「健、パパと遊んだ後、保育園へ行って、勉くんたちと遊びながら、ママがお迎えにくるのを待っていてね」と言った由美は、健に頬ずりして、玄関へ歩き出した。


「ママー、行かないでー。ママー、ママー」と健が泣き叫びはピークに達する中、玄関から由美の姿が消えた。


 健は無言で、しくしく泣いている。私は泣き止むまで、健を抱きしめていようと思った。健は1分も経たないうち、泣き叫び疲れたのか、諦めたのか、泣き止んだ。泣き止むと同時に、まるでスポーツ選手が試合に負けた直後のような表情で「パパ、おなか空いた。なにか食べたい」という。


 健の激しい泣き叫びは、もしかしたら、ママを会社へ行かせないための演技なのか、と感じながら私は「ママが昨日、健のために作ってくれたパンを食べよう」と健に語りかけて、二人でダイニングテーブルに座る。健は牛乳を飲み、むしゃむしゃとパンを食べる。泣くと、おなかが空くんだろうな、と思いながら、私もようやく一息ついて、コーヒーを口にした。


 健は保育園に到着して、私と別れるまで、ママが見えなくなってから同じ様子だった。健のこの様子は、私がマラソンや仕事に臨む姿に似ている。

 標的やライバルが、手に届く見える位置にいれば、モチベーションは誰よりも高く、どんなに疲れていても頑張れる。標的やライバルを分析する能力も高く、今とるべき戦略を描くことにも長けている。だから、成果を出せる。

 しかし、標的やライバルに見えない位置まで距離を離されてしまうと、すぐに諦めてしまう。沿道の応援者や上司から「頑張れ」と声をかけられても、もう頑張れない。

 周囲から私は「熱しやすく冷めやすい」とか「諦めるのが早い」と、よく言われる。この気質は、健にしっかりと引き継がれているようだ。そうであれば、親譲りの諦めるのが早い気質であれば、健が保育園へ馴染むのは意外と早いかもしれない、と感じた。

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