【浮遊】メール便おばちゃん浮遊する

 奥村登代子はその時メール便配達に勤しんでいた。

 一冊二十円の契約、サカキ運輸のメール便をバイクいっぱいに積み込み住宅街を駆け回る。今日は朝から日照りが強く日焼け防止のため長袖なのだがそれが余計に暑さを助長する。

 三丁目の南さんのポストに配達物を入れてバイクに戻り、持ってきていたペットボトルのスポーツ飲料をぐっと喉に流し込む。


「はあっ、生き返る」


 額の汗を拭い空を見あげると飛行機が見えた。


「空が飛べたら配達が楽だろうにねえ」


 そう何気なしに呟くと次の配達先を目指した。


 配達を終えたのは午後三時過ぎだった。いつもは通らない川沿いの道を飛ばした。頬に当たる風は心地よく暑さに苛立つ気持ちを軽くしてくれる。川では子供たちが泳いで盛夏を満喫していた。

 ふと前方に目を移すと右手のバイク屋が目に入る。そういやオイルの交換の時期だった。今日の配達分と比較すると明らかな赤字だが、どうしても必要なメンテだ。迷った挙句『オイル交換が安い!』との看板に魅かれバイクを止めた。


 オートショップ・ミヤザキは小綺麗な店構えだった。壁には色とりどりのポップが張られて、パンク修理いたします、新品バイク続々入荷中、とのおしゃれな文字が躍っていた。そして横にすっと目をスライドさせて思わず目を見開く。


『空飛べます』


 と書いてある。何かの見間違いじゃないかと近寄って目を凝らしたが確かにそう書いてある。ポップの前で「あのう……」と声を掛けると奥から登代子より少し若い店員が出て来て「ああ、いらっしゃい」と返事した。


「これ!」


 小洒落たポップを指さすと「ああ、それ? 興味あります?」といたずらに笑った。


「本当に飛べるんですか?」

「本当ですよ、試してみます?」


 店主は秘蔵っ子を出すように奥から黒いバイクをついて出してくる。


「乗ってみます?」

「ええ、はい。まあ」


 バイクは本体は左程変わった様子では無かった。唯一気になると言えばやや大き目の右ハンドルと足元のペダル、カチャカチャと弄っていると外に出ましょうか、と店主が促した。


「右ハンドルで加速しながらペダルを踏んで離陸。離陸まで直線で二十メートルほど必要だから広い道路でやるといいですよ」


 店主が得意げに言う。登代子は川沿いの道で意気込んで鼻息を鳴らした。右ハンドルを限界まで捻る。すると通常の倍以上の速度でバイクが加速する。体が置いて行かれそうになるのを必死でこらえ、二十メートルを過ぎペダルを踏み込んだ。

 タイヤがふわりと浮いて体が軽くなる。足が地面から離れドオオオと爆音を立てながらバイクは空へ舞いあがった。


「飛べた! 飛べたよほんとに!」


 登代子は目を輝かせて地上を見た。店主の姿が小さくなり家々の屋根が見える。ペダルの踏み具合で昇降を制御しているらしく、そっと緩めては下がり揺らめいては急上昇を繰り返す。少しコツがいるらしく、まあ、これは慣れだなと呟く。


「気持ちいいでしょう?」


 地上に降りてバイクを降りると店主は満面の笑みで問うてきた。


「これだと配達がずいぶん楽になるねえ」

「配達か、いいですね!」

「これいくらするんです?」

「お持ちのバイクを改造するので十万八千円です」

「結構するねえ」


 半時間店頭で迷った挙句、オイル交換も忘れて改造を決意のまま申し込んだ。作業は一日がかりらしくバイクを預けて、夫に迎えに来てもらった。


 翌日朝一で行くとバイクは完成していた。今日から早速これで配達が出来る。店主に礼を言うと豪快にバイクに跨り、職場の配送センターを目指した。


 操作は思ったより難しくペダルの踏み具合とアクセルのかけ方がうまく合わせられず相変わらず、ギュインギュインと上昇と下降を繰り返した。そこで数日間は普通に走って配達したあと、練習のために自宅まで空を飛んで帰るということを繰り返した。

 するとその甲斐あってか、一週間もすると随分上達し晴れて空飛ぶメール便配達を開始した。

 登代子は感動していた。空が飛べるというのは何と便利なことだろう。一方通行など関係ないし、曲がりくねって向かわなければいけなかったところに一直線で迎える。配達時間は三分の二に短縮できて、いつもよりたくさん配ることが出来た。登代子のバイクは配送センター中で噂になり、魅かれた同僚の何人かが真似てバイクを改造した。


 しかし、空飛ぶメール便を始めてひと月もしないうちに登代子は後悔することになる。バイクの急上昇急下降はひどくガソリンを食うのだ。一日の四回の給油。毎日二百冊配達しないと元が取れない計算だ。それ以下の配達量だと配達すればするほど貧乏になっていく。


 結局、登代子は空を飛ぶのを控えることにした。飛ばないうちに飛び方を忘れ、飛べることを忘れ、やがて登代子は普通の配達員に戻った。必要のないものは忘れていく、主婦とは得てしてそういうものだ。

 今日も登代子はメール便を配る。一冊、また一冊と。

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