第25話 散歩準備、完了!

 月夜を散歩に連れて行くと紅葉に約束させられて、登未は一度家に帰った。


(散歩っていうけど、この辺を回ればいいのだろうか)


 部屋に戻り、椅子にどかりと座り、登未は溜息を吐く。

 煙草に火を付けながら、この周囲のどこを案内すれば良いのかと悩み始めた。


(そもそも、普段どの辺りが行動範囲なんだろうな?)


 あまり出歩いていない雰囲気を月夜から感じた。

 スーパーと駅、あとは精々クリーニング店くらいなのかもしれない。


(商店街と、駅の向こうを教えるくらいでいいのかね)


 予測は立てて見たものの、まずは月夜の行動範囲を確認する必要があるだろう。

 話をしてみなければ、わからない。


(話か……。ま、基本だよな)


 結局のところ、見ただけではわからない。

 月夜がインドア派の人間というのも、わからなかったのだ。

 悩みを抱えていることもわからなかった。


(まだまだ修業が足りないやね)


 登未は、くっと笑うと煙草の灰をテーブルの上の灰皿に落とす。

 まだ半分ほど残っている。再び煙草を咥えて煙を燻らせる。


(この辺に、若者向けの服の店なんかねえし。まずは食料関係かな)


 オススメを教えていけばいいだろう。

 ダメな店と、良い店。ダメだけど優れた店もあったりする。

 教えることも多いし、せっかくだから散歩コースも教えてあげてもいいかもしれない。


(そもそも、俺ですら運動不足を感じて、土日は歩くというのに)


 月夜が今の体型を維持できているのが不思議だった。

 会社に勤めていれば、それなりに歩く。喫煙所へ向かう機会のある登未で、日に約一万歩弱だ。しかし月夜は煙草を吸わず、デスクワークばかりだ。とても運動しているとは思えない。


(もしかしたら、下半身とか腹とかヤバいのかなあ)


 服の上から判断するしかない情報であり、登未には予測しかできない。

 会社の制服で判別できるのは膝から下の脚くらいだ。

 見える範囲では細い。筋肉が存在しているのか疑いたくなるほどだ。


(わかんねえけど、歩かせよう。うん)


 歩くことは全身運動だ。気軽に行える運動であり、習慣付けさせてもいい。

 せっかく可愛い容姿をしているのだ。食事制限のみで容姿の維持は困難だろう。

 それに仕事で大学時代よりも、はるかに帰る時間は遅い。

 引きこもっていれば、次第に体型は崩れるのは予測できる。

 汗をかくことで肌の代謝も促せられるのだ。

 少し、連れ回してやろうと登未は決意する。


(んじゃ、着替えて、そろそろ行きますかね?)


 登未は煙草を灰皿にぎゅっと押しつけて火を消すと、立ち上がる。

 今の格好でも充分動きやすい格好だが、月夜と共に歩くとなると気が引ける。

 服を摘まんで、少し考える。


(……、ちょっとは気を使うか)


 登未は首を鳴らすと、歩き出す。まず洗濯かごに着ていた服を放り込む。

 かごに入った衣服の量を見て、少し唸る。

 洗濯機を動かす必要があるが、帰ってからで充分だろうと判断し、そのまま浴室へ移動する。

 伸びた髭を剃り、シャワーを浴びながら、歯を磨く。

 身体と髪を洗って、バスタオルで雑に水気を拭う。


「さて。マジで何着るか」


 オーダーは、散歩に適した服だ。

 かつ美少女の横に立って歩く。

 通勤時と違って、スーツで誤魔化せない。


「別に激しい運動する訳じゃねえし」


 悩んでも仕方ないため、登未はジーンズを掴む。

 黒のTシャツを被った後、少しだけ考える。

 気温は暖かいし、動けば熱くなるかもしれない。


(薄いブルゾンにするかね)


 灰色のブルゾンを掴んで、羽織った。洗面所の鏡で姿を確認しつつ、髪を摘まむ。

 洗いざらしの髪だ。

 既に乾いているが、このままでいいのかと悩む。

 ヘアワックスは手を伸ばせば、置いてある。


(しても、しなくても変わらんしなぁ)


 ならば、してみても良いかと登未はヘアワックスを手に取った。


◇◆◇


 準備を終えて、登未は家を出た。

 自分のマンションを出て、道路を渡れば月夜のマンションだ。

 昨夜と同じように、エントランスをくぐり、部屋に移動する。

 鍵は渡されたままだ。止まることなく、歩いて行く。


 インターホンを押した後、暫く待って解錠して、部屋の中に入る。

 家主ではなく、紅葉の声が出迎えてくれる。


「おかえりー」


 登未の家ではないので、おかしい発言ではある。が、今更なので気にしないことにした。

 しかし室内には紅葉しかいない。テーブルの上に置いた鏡を前に化粧に勤しんでいる。


「あれ、後輩は?」


 月夜の姿が見えなく、登未は紅葉に訊ねてみた。しかし紅葉は鏡から顔を動かさず、アイラインを入れることに没頭していた。登未は答えを期待せず、テーブルを挟んだ向かい側のソファーに腰を沈める。


「んー? 月夜? 着替えてるよ」


 月夜の着替えと聞き、登未は眉を寄せる。毎朝目にする月夜の姿は、雑誌やテレビに出ているモデルがそのまま歩くような格好だった。登未としては姿を見るだけで目の保養になるので、別に構わない。だが、月夜自身に注目を浴びることになる。居心地はよくなさそうなので、歩くコースを厳選しなければならなそうだ。


「……今日は、どんな凄い格好で来んのかなぁ」


 思わず顔を押さえて呻くと、視線を感じた。手を退けると、紅葉が鏡から登未へと視線を動かしている。何か言いたそうな顔に、登未は片眉を上げて紅葉の言葉を待った。


「登未っちさ。月夜の格好見て、実際どう思ってんの?」

「どうって……」

「あの子、服とか毎朝気合い入れてるらしいじゃん? 登未っちが不能だとか色々知ったけど、どう思ってんのかなって。月夜がいない内に聞いておこうかなって」


 紅葉は再び鏡に目を戻す。眉を描き始めた。

 登未はどう答えるべきかと、上着のポケットに手を入れて、僅かに躊躇う。しかしこの場に月夜がいないからと訊ねてきたのなら、誤魔化しやお茶を濁すことを紅葉は望んでいないだろう。


「……まあ、そうだな。マジで言うと、可愛すぎてヤバいとは思ってる」

「ま、そう思うよね。言ってあげないの?」

「言えるか。言って、どうなる訳でもないし、したいとも思ってないし。それに、お前も知ってんだろ? 言われたくない相手から言われる可愛いって言葉のウザさ」


 電車広告で有名になった。可愛いと言うことがセクハラになる。とんでもない世の中だと声も挙がったが、実際言われたくないオヤジからの無意味な賞賛は聞きたくないだろう。


「確かにウザいけど。それはそれとして、言ってから反応見ても良いんじゃない?」

「初手で致命的だわ。せっかくの毎朝の癒やしだぞ? 失ってたまるか」

「いや、そこまで喜んでるなら言ってあげなよ、それ。……あ、言うで思い出した」

「あん?」

「月夜の名前、全然呼ばなくない?」


 意外と紅葉は周囲を細かく見ているようだ。気づかれていると思わず、登未は目を丸くしつつ、心の中で舌を出した。紅葉や月夜に対して、呼ぶときは名前で、と言ったが、だからと言って必ずしも律儀に名前で呼ぶ必要はない。会話の流れを工夫すれば、名を呼ぶ必要はなかった。


「お前の名前も、基本的に呼んでねえから、大丈夫。贔屓も差別もしていない」

「……あたしは別に良いし、気にしないけど。月夜は寂しがってるかもだよ?」

「なら、寂しがらないように、会話を工夫しなきゃだな」


 悪意や害意、そして悲しいなどの感情には敏感な自信があった。

 素振りがあれば、望まない方法で対応してみせると登未は笑った。

 紅葉は大きな溜息を吐いて、疲労感の漂う顔で登未を見る。


「あたしは、月夜が傷つかなきゃ別にいいけどさ」

「傷なんて、つけてたまるか。昨日、色々聞いたんだし」

「あ。月夜、話したんだ」


 登未は首を上に向ける。そして昨夜の会話を思い返した。

 月夜は辛い体験をしたにも関わらず、膝を折らずに努力を続けている。

 傷ついたことを周囲から軽んじられ、努力も周りから認められないのに、それでも前を向こうとしている。


「本当、あいつは凄えよなぁ」

「凄いって?」


 紅葉が疑問の声を上げたので、顔を紅葉に戻す。

 他者が抱える傷は見えない。普通に語れば、よくある話として慰めるものだろう。

 現に紅葉は、登未の話をよくある話と片付けた。もしかしたら、月夜の話も同様の反応をし、そして紅葉なりに慰めたのかもしれない。


(あまり、言わない方がいいかも)


 共感を紅葉はしてくれないかもしれない。登未はそう思うと、紅葉に曖昧な笑みを返した。

 深く触れて、その会話を月夜が聞いて、再び傷つくかもしれない。

 可能性があるならば、しない方がいいだろう。

 理解を求めたいのではないのだし、登未はそう考え、ポケットから手を出した。


「ええと、よくわかんないけどさ。結局のところ、登未っちってさ」


 今ひとつ釈然としない顔で、紅葉はテーブルに広げた化粧道具を片付け始めた。

 小さなポーチの中に、よくもそんなに入るものだと、手品のような光景を眺める。

 ポーチのジッパーを閉めた紅葉は、登未の顔を見た。


「月夜のこと、好きなの?」


 思わず咽せた。恋愛が虚しいと、たっぷりと説明したというのに、まるで理解していないような質問だった。


「……なんか色々と話をしたのに、なかったことにすんなよ」

「だって、優しくしているのがよくわからなくて」


 ポーチを持ち上げ、紅葉はカバンに入れるため、登未から視線を外した。登未の反応を見定める気のない態度から、おそらく紅葉としては特に大きな意味を持つ質問ではないのだろうと判断する。瞳が向けられていないことに安堵しつつ、登未も紅葉から視線を外す。


「……後輩としても優秀だし。好ましいと思うけど?」

「そういうの聞きたいんじゃないんだけどね。ま、登未っちだしね。答えは期待してなかったよ、っと」


 呆れた言葉と溜息の後、紅葉が立ち上がった。

 カバンを肩に掛けている。


「……え、帰るの?」

「うん。今夜、バイトだし」


 紅葉は平然と頷いた。登未に月夜を散歩に連れて行けと言ったのに、自分は帰るつもりなのかと登未は視線で抗議する。しかし、紅葉は心外とばかりに目を丸くした。


「当たり前じゃん。あたしが、この辺り詳しくなってどうすんのさ」

「……お前、何処住んでんだっけ?」

「神奈川県民だよ?」


 月夜の実家が横浜と以前聞いたことがあった。月夜と長いこと友人をしているならば、家は近いのかもしれないと、紅葉の回答に納得する。


「じゃ、あたし帰るんで。月夜をよろしく」

「あいよ……」


 紅葉は登未に向けて手を振ると、そのまま踵を返した。

 そのまま玄関に行くと思いきや、リビングに面した扉に向かっていった。


「月夜ー! あたし、帰るからー」

「あ、もう帰るの?」


 月夜の部屋のようだ。中から月夜の声が聞こえてきた。

 程なくして、月夜が部屋から出てくる。

 今回の月夜の服は、濃緑の大きめのプルオーバーの下に、白と黒のボーダーの長袖のシャツ、デニム地のロングスカートだった。手には黒いベースボールキャップを持っていた。


「あら。思ったより、普通の格好?」

「うん。歩くから、歩きやすい感じで」


 普通の格好とは何だっけかと登未は眉間を指で押さえた。シンプルだが、むちゃくちゃ可愛い。しかし普段の服よりは、大人しくも思える。服装よりも中身が問題なのかと、改めて実感する。


「じゃ、帰るから」

「うん。また連絡するね」


 そう言い残し、紅葉は部屋を出て行った。残されたのは月夜と登未だけである。

 玄関を眺めていた登未は、首を横に向ける。

 ちょうど、月夜も登未を見るところだった。


「……なんか、いつもと全然感じが違うね?」


 月夜は登未を見て、はにかむように笑った。

 服装のことか、少しだけ整えた髪のことか。

 なるほど。外観について感想を言われると、こそばゆいのだなと登未は知った。

 そして、ほんの僅かに嬉しさもある。


「いつもはスーツだからな」

「なんか、若く見えるかな?」

「すまんね、おっさんで」


 肩をすくめた後、登未は月夜の全身を眺める。

 いつもと同じように、心の中だけで賞賛しようとして、中断した。

 視線を上に向けて、少しだけ躊躇う。

 普段の登未と反応が違うからか、月夜はきょとんと目を丸くした後、ふと笑った。


「変かな?」

「……いいや」


 言われると嬉しくなる言葉があるなら、言わないよりは言った方がいい。

 しかし下手に発言すればセクハラの対象だ。


 悩んだ。

 悩んで、悩んだが、答えはでない。

 考えるのが、面倒になった。登未はハラスメントについて、気にしないことにした。


「相変わらず、可愛くまとめるよな」

「………………うん。ちょっと頑張ってるよ。いつも」


 月夜は持っていた帽子を頭に被った。鍔のせいで目は見えないが、口元に笑みが浮かんでいる。気恥ずかしい気持ちに逃げたくなるが、じたばたしても始まらない。

 これから月夜と並んで散歩をしなければならない。逃げ場などない。


 しかし月夜は帽子をかぶった。

 顔は隠れないが、幾分可愛さを隠す効果が望めるかもしれない。

 登未は期待を込めて、月夜の帽子を眺めていると、月夜は顔を上げた。


「じゃあ、わたしたちも行こっか?」


 はにかんだような笑みを見て、登未は言葉を失う。

 さほど、可愛いが変わっていない。

 やはり服よりも本人が重要なんだなと、登未は苦笑を浮かべた。

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