第26話 何故か海へ。
「そっか。マジでこの辺、本当に知らないんだ」
月夜がこの街に住んで5年目になる。つまり4年も住んでいたのに、月夜の行動範囲は非常に限られていた。並んで歩きながら、登未は月夜の顔を見て目を丸くした。
「うん。だって1人で歩いても、なんか寂しいし。この街で、あんまり遊ばないし」
「……まあ、そうだね」
月夜の言うことも尤もだ。考えてみれば、用事もないのに出歩くことは、成果の期待できない行動だ。散策をして、新しい発見があれば良いが、何も得られなかったら徒労に感じる。
(俺が変なのかなぁ)
登未は釈然としない気持ちのまま、空を見上げる。
良い天気だ。もうじき梅雨だと言うのに、晴れ渡り、そして暖かい。
「登未くんは、なんで色々知ってるの?」
月夜が登未の顔を下から覗き込みながら訊ねてきた。前を見て歩けと登未は思いつつ、視線を前へ向ける。歩いている人や自転車に乗る人がちらほら見える。犬を連れて散歩をしている者もいた。
「実家で、犬飼っててさ」
「……犬?」
「ん。犬だから、あんな風に散歩に行く訳で」
目の前の飼い主と散歩している犬を見ながら、登未は実家のことを思い出す。
せっかく散歩しているのに、犬はどこかつまらなそうに歩いていた。
「散歩コースは決まってんだけど、たまに犬の行きたい方向に任せて散歩するとさ、全然知らないところに行き着いてさ」
「……帰ってこれるの?」
「それがな。たまにすっごい迷う」
帰巣本能が犬に備わっているのか、よくわからないときがあったと、登未は笑う。
道に迷って、それでも犬に望みを託して歩いていると、そのうち犬は立ち止まって振り返る。
まだ帰らないのかね? と言わんばかりの顔に、何度投げ飛ばしたくなったことか。
登未は笑いながら、月夜に語る。
「……なかなか、面白いワンちゃんだね」
「俺んちの犬だからな。でも、そうやって散歩コースを開拓して更新してってさ」
面白みのない道だとわかれば、次回は避ける。
面白い道があれば、他に面白い道がないか探してみる。
何度も繰り返し最終的には、なかなか歩いていて楽しい散歩コースができあがった。
「知らないのって、新しい何かを知るに繋がるからさ、楽しいかな?」
お陰で、安くて美味い喫茶店を見つけたり、新しいパン屋を見つけたり。
発見は多く、散策は楽しいと告げると、月夜は目を瞬かせた後、ふわりと笑った。
「そういうの、いいなぁ」
「なら、歩いて色々見つけよう」
「1人で歩くの寂しいし。あとたまに変な人に声かけられるし」
月夜は唇を尖らせた。寂しい云々の真偽はわからないが、ナンパに関しては良く理解できた。
1人で月夜がぷらぷら歩いていたら、何人かはダメ元で話しかけるだろう。
外をあまり出歩かないのも、見知らぬ男に声をかけられるのを嫌がってのことかもしれない。
「ま。今日の変な人は、俺だけで充分だろ」
「あはは。うん。確かに登未くんは変かも、ね?」
月夜は笑いつつ、黒い帽子の鍔を指で摘まんだ。少しだけ帽子を上げた月夜は、登未を観察するように登未を見た。変、と言われた後にじっくりと見られるのは居心地が悪い。登未は月夜から視線を外し、前を見て歩くことにした。先ほどから、月夜は前方の注意が疎か過ぎる。
(前を見て、歩けっての)
登未は鼻を鳴らして、それでも前を見る。
どこか転びそうな予感がしてならない。まるで盲導犬になった気分だった。
そんな登未を見て、月夜がもう一度口を開いた。
「うん。登未くんは、変だ」
笑っている。そんな声の色に、登未は視線を向けずに、鼻を鳴らして応じた。
◇◆◇
通りを歩いて直ぐに、小川に差し掛かった。
登未は脚を止めて、月夜に顔を向ける。
「結局、駅前以外は行ったことがないんだよね?」
「まあ、うん」
「じゃ、こっち行ってみるか」
「こっちには、何があるの?」
「んー。具体的にお店とかがあるってわけでもないけど」
小川の脇には遊歩道がある。登未は遊歩道へと足を向けた。
月夜は小川を見ながら、登未の横を歩いている。
「わ。登未くん、魚がいるよ」
「たまに、おっさんが釣りしてるな」
「釣れるんだ。何が釣れるの?」
「なんだっけかな。看板に書いてるんだけど、覚えてないなぁ」
取り留めのない会話を続けているうちに、遊歩道は終わった。
そのまま道を曲がり、てくてくと歩く。
「んー……。なんか出歩くの、面倒だなって思ってたけど」
「おい。若者」
「あはは。でも、なんかさ。のんびりできるんだね」
腰の後ろで手を組んで、月夜は気持ちよさそうに歩いていた。
空を見上げているので、登未も顔を上げる。
青い空に白い雲が流れていた。
「なんか、散歩好きになりそうかも」
「それは、ようございました」
「あ、でも。1人で歩くのはなぁ」
月夜が顔を登未に向けて、歯を見せて笑った。悪戯めいた瞳を細める姿に、登未は苦笑を浮かべる。やや治安のよろしくない街だ。言いたいことは伝わった。登未は両手を挙げて溜息を吐く。
「……たまに付き合ってやる」
「わあい」
「だけどさ。こう、家とか見て歩くのは、ぶっちゃけ飽きるだろ?」
周りを見てみるが、住宅の間の道を歩いているため、見える景色は一軒家かアパートくらいなものだった。初めて歩くならば新鮮だが、二回目以降も同様の気持ちを保てるとは思えない。
「でも、散歩ってそんなもんじゃないの?」
「だから、さ。目的地は、もう少し散歩が好きになる場所を目指している」
「あ、目的地あったんだ」
「そりゃあね。こっちだ」
大きなゴルフの練習場が目の前にあった。ゴルフクラブでボールを叩く音を聞きながら、登未は角を曲がる。人気のない道だった。月夜は周りをきょろきょろと楽しそうに見渡している。
登未は突き当たりを右へと曲がる。
「……公園?」
「そ。公園。都内で手軽に緑が見れて、かつ季節を楽しむ定番スポットだな」
「浜辺、公園?」
門の横にかけられた文字を見て、月夜は首を傾げた。
疑問はご尤もだと、浜辺と書いていれば連想するのは海だろう。
しかし公園と海のイメージが繋がらない。
東京ではあるが、お台場などのスポットのない地域なのに?
月夜の困惑する姿を見て、登未は喉を鳴らすように笑った。
「意外と気づかないんだけど、ここって東京湾が近いんだ」
「え、そうなの?」
「元々、この地域って海苔で有名だったんだって。
「甚句って?」
甚句とは7・7・7・5で構成される、日本の伝統的な歌謡の一つである。
登未は月夜に説明してみたが、どうにも聞いたことがないためか、ピンと来ないようだ。
「こんな唄なんだわ」
周りを見渡して、近くに誰も居ないことを確認した登未は咳払いをして、甚句の一つを歌ってみる。
しかし、海苔で黄金のなんたらと続く辺り、よほど海苔で儲けたんだろうなぁと、しんみりと口にしながら思う。終わると、月夜が拍手喝采していた。
「おー。登未くんの歌って、良い声だね」
「話している声はダメっすかね」
月夜が褒めてきたので、軽口で迎撃する。あまり上手でもないので止めて欲しかった。
「んー? 落ち着く感じで嫌いじゃないけど?」
しかし迎撃の効果はなかった。むしろ追撃される。
自然な様子で月夜は口にしていた。特に考えず、本心から言ってそうな気配を感じる。
「登未くんって、普通の歌って上手なの?」
「どうだろ? 採点とかで見ると、上手くはないかな」
「あ。わたしも。紅葉とか友達と行ったときに採点するけど、点数が出ないんだよね」
「へえ。何歌うの?」
「い、色々かな?」
不思議と月夜が顔を逸らし、誤魔化したいような雰囲気だった。
今の会話で、何を隠したいのだろうかと登未は疑問を覚えたが、話題が上手い具合に逸れそうだったので、口を挟まなかった。
「で、でも、それが甚句なんだね。なんか江戸っぽい」
「江戸時代くらいから海苔で栄えてたんだって」
「ああ、だからこの街って海苔屋さんが多いんだ……」
実際に、登未と月夜の家の前の通りを進んでいくと海苔屋が何件も存在していた。
「まあ、その後色々開発があって、埋め立てとか何やらで海苔産業は廃れたけど、公園に出来る程度には海が近いんだわ」
話ながら歩いていると、風の匂いが変わった。
磯の香りが風に混じり始めた。月夜が鼻をひくつかせている。
「ほら。海でしょ」
公園内の遊歩道を歩き、なだらかな坂を越えると、海と砂浜が広がっていた。
「わあ、本当に海だ」
月夜が目を丸くしている。気持ちはよくわかった。
海と言えば、海水浴場や、漁港にあるものと想像する。
言うなれば外海に面する地域に行かなければ見られないものと、登未も考えていた。
東京も海に隣接する都道府県だが、まさか自分の住んでいる町が海に近いなど、地図に明るくないと、中々思いつかないものである。
説明を受けていたとしても、精々海が見えるくらいなんだろうなと予測する。
まさか目の前に砂浜と打ち寄せる波という典型的な海の姿が広がるとは、登未も初めは信じられなかったことを思い出す。
「俺もなぁ、初めて見たとき、実は愕然とした」
「あ、わかる。やたら地域で海苔とか東海道とかアピールしてて、なんでだろうと思ってたけど、今なんか謎が一気に解けて、ちょっとびっくりしてる」
月夜と顔を見合わせて、笑ってしまう。午前中であり、まだ人の姿はまばらだ。突然笑い合っていても、注目はされないので、気が楽だった。
しかし本日は天気が良い。昼近くになれば、家族連れや夫婦が海を眺めに集まってくるだろう。
「と言う訳で、海を見るなら今の時間かもっと早い時間、あと夜がいいかな」
「そうなの?」
「さもなければ、夫婦やカップルの幸せそうな姿が見れてしまう」
「別に他人は他人、自分は自分じゃないかなぁ」
海を眺めながら、遊歩道を端まで歩く。所々に大きな屋根のあるベンチが備えられていた。
月夜に座って休むかと目で問いかけると、ゆるゆると首を振って返してきた。
「……そもそも、端から見たら、わたしたちもカップルだと思われてると思うよ?」
「あー……、それはそうだな……」
休日に海を見るため、男と女が二人きりで一緒に居る。
なるほど。
そんな2人を見て、ただの知人と思う人は少ないかもしれない。
海を見ながら目を輝かせる月夜の横顔を見て、登未は溜息を吐く。
「ん? どうしたの?」
月夜が振り返った。風が少し強い。髪を押さえる姿は、雑誌などでよく見る構図だ。
なんと様になるんだろうと思いつつ、登未は苦笑を浮かべた。
「いや、カップルで思い出したけど、今まで付き合った人間とここに来なかったなぁって」
「え、もったいなくない? せっかくの海なのに」
「……海を見て喜びそうな人って、あんまり居なくてなぁ」
登未としては、落ち着く場所でもあるので、可能ならば誘いたかったが、何もせずにぼーっとする時間を付き合わせるのは居たたまれない。
「そうなんだ。わたしなら、すっごい喜ぶのに」
「ねえ? 俺もだ。意味なくここにきて、ぼんやりとしたいわー」
「落ち着くよねぇ」
「飲み物片手にしばらく座ってたいよな」
「ふふ。お年寄りみたいだね。でも、わたしもそんな気分かな。登未くんはお爺ちゃんで、わたしは実はお婆ちゃんかな?」
「お前みたいに可愛いお婆ちゃんが居て堪るかよ」
登未は喉を鳴らすように笑い、そして口にした言葉に気づいて硬直した。
自然に可愛いと口にしてしまった。
服装を褒めるのでもなく、ストレートに言ってしまった。
もちろん、他意はない。月夜がリアクションに困っているだろうかと、不安になった。
盗み見るように様子を伺うと――
「……えっと」
月夜は髪の先端を指先にくるめて、言葉を探しているようだった。
急いで訂正しなければと、登未は慌てて謝罪する。
「すまん、深い意味はない」
「……うん、知ってる。登未くんだもん」
頬を少しだけ膨らませる月夜の姿に、登未は笑いを堪える。
しかし、と登未は内心首を捻った。
自分は、どうして今口を滑らせてしまったのだろうと、不思議に思っていた。
昨晩、腹の裡の一部を明かしてしまったからなのか。
月夜も、散歩を始めてから、いつもと行動が違う気がした。
普段ならしてくる、挑発に近いような『試し行動』が見られない。
自然体で過ごしていると感じた。
しかし、何かを観察されている気も否めない。
(……なんだろ?)
何か腑に落ちない。月夜の反応もそうだが、何より登未自分が気を抜き過ぎていることを自覚していた。原因は、なんだろう。変加点は、どこにあっただろうか。
「ねえ、登未くん登未くん」
思考に耽っていると、月夜が登未の袖を引いた。
月夜は一点を見ていた。自動販売機だった。
「実際に飲み物買って、海眺めて、ぼんやり気分を体験してみたい」
先ほどは休まない、と首を振っていたが、実は休みたかったのだろうか。
疑問は何も解けていないが、月夜の提案は魅力的だった。
混み始めるまで時間はある。
缶ジュース一本飲みきるくらいで離脱すれば、ちょうどよく混雑を回避できそうだ。
登未は波の音に耳を傾けながら、ジーンズのポケットに入れた財布を取り出した。
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