第23話 目が覚めて。


「ん……」


 ポケットの中で揺れるスマホに登未は目を覚ます。

 この数日、休日以外ではほぼ機能していなかった目覚ましのアラームだ。

 アラームが鳴るということは、休日で、そして朝だ。


(あー……、そうか、朝か)


 普段は寝起きの良いはずの頭が働かない。

 熟睡しきっていたようだ。寝過ぎたためか頭が痛い。

 目を瞑ったまま、左手を動かしスマホのアラームを止める。


(あれ?)


 身体の右側が動かないことに登未は気づいた。

 動くには動く。しかし何か痺れているような、そして動きを阻害されているような感じだ。

 寝ている場合ではないのかもしれない、登未は二度寝したい気持ちを堪え、瞳を開ける。


「…………」


 至近距離に見覚えのある美少女の顔があった。

 月夜が登未の肩に頭を乗せている。

 寝顔なら寝顔で、登未を襲ったのは違う動揺だったはずだ。


「…………おはよ」


 月夜の瞳は開いていた。

 ぼうっとした瞳で登未を見ている。

 目が合ったまま、かけられた挨拶に登未は身体をぎしりと硬直させた。

 どうするのが正解かわからない。

 状況がわからない。覚えていない。

 混乱したまま沈黙していると、月夜が表情を変えずに言葉を続けた。


「電気を消してって言ったのに」


 アラームが鳴った以上、朝のはずだ。太陽にしては光源が上からだ。周囲も明るい。

 照明がついているのは、いい。


「ばか……」


 何故拗ねている。電気を消さなかったことが、そこまでダメなことだったのか。

 エコ志向か。はたまた電気代に対する意識の高さか。それも、いい。

 問題は、月夜の言葉と状況だ。


(端から聞いたら、誤解を生むようなことを)


 寝ぼけている登未の頭でも、少しずつ状況を思い出し始める。

 ソファーで眠ってしまった。その後登未は体勢を崩し横たわり、その上に被さるように月夜が寝ている。五月の夜は、存外に冷え込む。布団もなしに寝たため、互いに暖を求めて密着していたようだ。

 そんな状態で、月夜が意味深に捉えようと思えば捉えられる言葉を吐いているのだ。

 状況を知らない者が目の当たりにして、耳にしたならば――


「…………ちょっと、登未っち?」


 このように温度の低い声を投げかけてくるのは想像に容易い。

 登未は首だけを動かし、声の音源に視線を向ける。


「おはよう、紅葉」


 ソファーの背もたれの後ろに、腕を組んだ紅葉が立っていた。

 声と同じく、見下ろす瞳も冷たい。


「ゆうべは おたのしみでしたね」


 懐かしいゲームの台詞ではないか、と登未は目を丸くする。

 若くしてレトロゲームのネタを知っているとは、侮れない。

 RPGの金字塔と言われるゲームの一作目で、助けた姫と宿屋に泊まったとき、宿屋の主人にかけられる台詞だった。ゲームをしている少年には何のことだかわからなかったことだろう。

 しかし登未は少年ではない。当然意味することは伝わっている。


「まあ、待て」


 静かな怒りに燃える紅葉に向けて、登未は掌を向けた。

 紅葉の意識を掌に向けて、そのまま人差し指を立てる。

 そして自分の股間を登未は指さした。


「俺の不能さんは今日も元気に不能なんだ。この状況でも、寝起きでもぴくりともしない」


 朝っぱらから女子に股間の説明をするなど、なんて高度なプレイなのだろう。

 登未は悲しい気持ちのまま、紅葉に視線を向ける。

 紅葉はジト目で登未の下腹部を見ていた。疑いは晴れていない。


「……使いすぎて、疲れてるだけじゃないの?」

「そんな男、いねえだろ」


 登未は呆れたように紅葉を見る。自分の経験上、関係を持った女性と密着していれば、体力の懸念はあれど、股間は反応していた。寝起きもいつも元気だった。疲労ごときで戯けたことを、と紅葉を見つめるが、紅葉の反応は異なっていた。


「はいはい。そんな嘘に引っかかるほど、男を知らないように見える?」

「……え」

「え?」


 紅葉と登未は、互いに見つめ合う。登未と紅葉は互いの反応が理解できずにしばらく固まっていた。


「マジなの?」

「え、や。うん、少なくとも俺は」

「……あんたの周りの男は?」

「……そんな話、しねえし」


 男同士で性の話は、どれほどするのだろうか。

 登未の知る限り、訳のわからないマウントの取り合いのような自慢話の応酬になってしまうため、登未はその手の話を好んでしたことはない。


「あたしの付き合った男が問題なのか、登未っちが問題なのか、わからない」


 困惑する登未の様子を見た紅葉は、頭を振って嘆息していた。

 登未の弁を正とするならば、紅葉が経験した男性が性欲に乏しい者だったか、あるいは紅葉にそこまで性的興味がなかったことになる。紅葉の弁が正しいならば、登未が性に旺盛だったことを示す。どっちであっても、誰も得をしない議論だ。登未はこれ以上の話を続けまいと旨に誓った。


「で、そこの絶倫不能さん?」

「ひでえな、ちくしょうめ」

「なんなの、この状況は」


 紅葉が登未から視線を横に動かした。見ているのは月夜であり、何故添い寝しているのかと問いたいようだ。


「昨日、話し込んでいたら、腕を取られて脱出できなかった」

「……腕力で振り払えばよかったんじゃ?」

「……なるほど、その手があったか」

「……あっそ」


 やはり呆れた声が紅葉から返ってくる。眠った月夜を起こしかねない行動なので、思いも付かなかった選択肢だった。そうしても良かったんだと今更ながら反省する。


「……そろそろ、起きたら?」


 愕然としている登未に突っ込む気力をなくした紅葉が、月夜を見ながら口にした。

 登未もそろそろ起きたかった。しかし月夜は、未だ登未の肩に頭を置いたまま動こうとしない。何の意思によるものか、登未は月夜に視線を動かした。


「…………」


 月夜は黙したまま、登未をじっと見ている。

 様子は変わっていない。どこか元気がないままだ。もしかすると、体調に何か問題があるのかもしれない、と登未は考え出す。昨夜は思いのほか、酒を身体に入れた。登未は平気だが、月夜は強い酒を飲んだ経験がない。二日酔いの可能性があるし、寝た環境も悪い。布団を被らずに眠ったのだ。身体が冷えて、風邪をひいた懸念もある。


「…………おはよ」


 視線を送っていると、月夜は再度朝の挨拶を繰り返した。

 調子は良くなさそうだ。顔も少し赤い気がする。

 登未は左手を動かし、月夜の額に手を当てた。


 掌から伝わる熱は、そんなに高くはない。ぽかんとする月夜の開けた口を見る。

 健康的な歯だ。最近の若者には珍しく、良い歯並びだ。虫歯もない。

 喉の奥も腫れていないし、赤くはなかった。

 登未は月夜の瞳に視線を戻し、確認してみる。


「おはよ。頭痛いとか、悪寒とかはない?」

「……う、うん。ない、けど?」


 月夜は目を瞬かせながら答えた。嘘を言う際、よほど慣れている人でもなければ、何かしら目が動く。

 登未は月夜の瞳をじっと見る。少し色素が薄い茶色の瞳は、登未を映していた。

 動く気配がない。月夜の言葉は本当なのだと登未は判断した。

 安堵の息を吐きながら、月夜から左手を離す。


「熱もないし、うん。風邪、ひかなくてよかったな」


 若いからなのか、月夜が見た目よりも頑丈でよかったと登未は笑う。

 しかし月夜は目を逸らすだけだった。

 登未は苦笑を浮かべて、子供扱いし過ぎたかと登未は心の中で反省する。


「よっと」

「わ」


 月夜が動かないならば、月夜ごと身体を起こすまでだ。登未は腹筋に力を込めて、上半身を起こす。月夜の体重は軽く、思ったよりも勢いが付きすぎた。上に乗っていた月夜は、登未の膝に座る形となる。


(軽っ!? こいつ飯、ちゃんと食ってんのか?)


 40キロ代前半といったところだろう。きょとんとした瞳を向ける月夜をじろりと見る。

 過度なダイエットなどしているのでは、と視線を向けていると、くう、と音が聞こえた。

 月夜が顔をさっと赤くし、腹部を押さえた。腹の虫の鳴き声のようだ。

 

「……胃の調子も、良しってとこだな」

「え、や、は」

「紅葉、お前は?」


 顔を俯かせた月夜から、紅葉に目を向ける。呆れ具合が増した顔だったが、登未の問いかけの意図は理解していた。紅葉は腹に手を当てて、首を傾げる。

 

「ん、ほどほどにってとこかな?」

「わかった。んじゃ、後輩。頼みがある」


 登未は月夜の身体を脇にどかして、立ち上がる。


「キッチン借りていいか?」

「えっと、別にいいけど……」


 キッチンは、昨夜食器を洗った際に確認している。

 コンロが4口あり、広いキッチンだ。シンクも大きい。

 正直なところ、使いたくてウズウズしていた。


「なあ、朝飯、作ったら食う?」


◇◆◇


 登未っちは意気揚々とキッチンに向かったけど、冷蔵庫の中を見て溜息を吐いた。

 月夜は自炊が得意ではない。出来合のものくらいしか入っていなかった。


『家から色々持ってくるから、その間に顔でも洗っとけ』


 お米を研いで、炊飯器にセットした登未っちは、そう言って帰っていった。

 男の一人暮らしの冷蔵庫の方が充実しているのは、女として少しショックだろう。

 月夜は少し元気のない様子で、あたしの横に立って歯を磨いている。


 あたしは洗顔を終えて、タオルで水気を拭きながら、考える。

 せっかく登未っちが居ないんだ。

 起きてからずっと思ってた疑問を訊くことにした。


「ねえ、月夜?」

「……んー?」


 ぼうっと洗面所の蛇口を見たままの月夜は、気のない返事を返してきた。

 口をゆすぎ始めたので、終わるまで待つ。

 コップに入れた水を口に含む月夜を見ながら、あたしは今朝のことを思い出していた。

 起きて、リビングに移動して、あたしは目を疑った。


 月夜が、登未っちの上で寝ていた。

 思わず固まった。

 月夜がようやく大人の階段を上ったと驚いた訳ではない。


「……あんたさ、人の前で寝れるようになったんだ」


 月夜は他人の前で、熟睡することができない。

 高校の授業中でも、電車の中でも。

 長い付き合いになるが眠ったところを見たことはない。

 修学旅行のときも、月夜は苦労していた。

 体力の限界により、気絶に近い僅かな仮眠で耐え抜き、最終日には可愛い顔が悲惨なことになっていたことを思い出す。


「……ね。自分でも不思議」


 月夜はタオルで自分の口元を拭いていた。

 ぼんやりとしているのは、ずっと考えているからだろう。


「あのね、なんか熟睡してた」

「あら。珍しい」


 月夜は普段から眠りが浅いらしい。だから直ぐに起きる。

 そんな珍しいことを思って、この子は何を思ったのか。

 あたしなら、色々と考えそうなものだ。


「夢も見なくて、すごい久々に寝たなあって」

「へえ」

「なんでかなって考えてて、登未くんの顔見てたんだけどさ」


 何か面白かったのだろうか。

 登未っちの顔は、良いところを上げろと言われると困る。

 少し目が小さく、眉が太め。鼻が少し大きいけど、すらりとしている訳でもない。

 悪いところ、として挙げるには少々弱い。普通だ。普通の顔すぎて、形容に困る。


「なにか、わかった?」

「全然。寝顔が可愛いなぁってくらい。あと睫毛が意外と長いなぁって」


 可愛いの基準があたしにもわからない。

 が、大したことじゃない。

 至近距離に男の顔があっても平気、ということを月夜は不思議に思わないのかな。


「わかんないんだけど、お酒の所為かなって、思うんだけど」


 月夜は蛇口を捻り、洗顔フォームを掌で泡立て始めた。

 あたしは泡で白く彩られていく月夜の顔を見ながら、思ってもいない言葉を月夜に返す。


「……そうね、強いお酒飲んだの、初めてだもんね」

「やっぱ、そうだよね……」


 すっきりしない、そんな感じの声を漏らすと、月夜は顔の泡を洗い流し始めた。

 あたしは屈んだ月夜の頭を呆れたように見てしまう。


(登未っちといい、月夜といい)


 2人を見て、呆れてしまうのは当然だろう。

 端から見ていれば、明らかに行動がおかしいし、変な行動をしている自覚もなさそうだ。

 月夜の性格は知っている。だから変な行動も理解できてしまう。

 だが、登未っちの性格はまだよくわかっていない。


(変な人、だよね)


 不能って話は本当のようだし、たぶん人が良いだけっぽい気がする。変な女に騙されるのも納得だけど、その点の反省をして改めたりはしないのだろうか。


(どうしよっかな)


 放っておいても、きっといいんだろう。

 ただ、男が苦手な月夜のトラウマ解消には都合がいいかもしれない。

 あたしは洗面台に置いてある化粧水のボトルを取って、中身を掌に出した。


(もう少し、突いてみようかな)


 あたしは一つ頷くと、ぴしゃりと化粧水ごと手を頬に叩き付けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る