第8話 なんで通勤ラッシュのおっさんは、不動なのか
「おっはようございます!」
登未はスマホから目を離して、声の主を見る。
月夜だ。
昨夜は首の後ろでまとめていた髪も、今日はアイロンを使ったのか、緩やかに巻いてあった。
服装も可愛らしい。
登未は顔から下へと動かしていく。
カーキ色のジャケットに、フリルの入ったハイネックの白いインナー、そして黒と白のチェック柄のロングスカートを身につけている。袖にあるベルトで絞られ、キャンディの包装紙のように手首周りをふんわりと彩っていた。
(……すげえ。会社に行くだけなのに、コレなのか。なんつーか朝の方が、破壊力高えのな)
登未は月夜の格好を見て、驚いていた。昨夜、目にした月夜の姿は美人と思うには充分なほどだったが、どうやら仕事で草臥れた姿だったようだ。
美人を朝っぱらから見るものではないと思った。
思わず浄化しかねない。
しかし表には出さない。
「おはよ。んじゃ、行きますか」
登未はスマホをスーツの胸ポケットに収めると歩き出した。
ちなみに登未はいつもと変わらない、地味な黒を基調としたスーツの上下だ。
カバンはビジネスバッグではなく、背負うタイプの物を利用している。
外見を重視しない、技術職にありがちな雑な姿だった。
(こんなのが、隣を歩いてて嫌じゃないのだろうか?)
普段着は別として、スーツ姿の自分は冴えないにもほどがあると登未は自覚していた。
隣を歩く月夜を横目で確認するが、そんな様子はなかった。
登未の視線に気づいたのか、笑顔を返してきた。
「ああ、今朝は助かった」
何かを話しかけないと、思った登未は朝の礼を口にした。
いつもは、もう少し遅い時間に出発し、足早に駅へと向かっていた。
今のように、ゆったり歩くのは、久々で存外に気分が良い。
「いえいえ。こちらこそ、一緒に行ってもらってありがとうございます」
いつも独りでちょっと寂しかったんですよ、と子供のような発言を続ける月夜に苦笑を向けて、登未は通りの角を曲がる。そして裏道を進んでいく。
「あれ、こっち行くんですか?」
「朝はね」
朝だというのに、裏道には人気がない。
それもそうだ。左右に家々が立ち並ぶ狭い道を好んで歩く奇特な者は少ない。
「表の通りだとさ。けっこう、自転車とかとぶつかりそうにならない?」
「なりますね。おっかなびっくり歩いてます」
広い通りには通行者も多い。しかし広いとは言っても裏道と比べてのことだ。
都内の道路であり、車線は一つしかなく狭そうに自動車が走り、自転車に乗る者も多い。
「なら、裏を通るさ。夜は暗くてオススメしないけど」
人気のない道は、事故の可能性でいえば安全だが、不審者が潜んでいないかと不安になる。
男の登未は気にならないが、女性の月夜としては、あまり通らないのだろう。
「宇田津さんと一緒の時は、ここ通りますね。人にじろじろ見られないのも嬉しいですし」
まるで肩が軽くなったかのように、月夜は片腕を回した。
美人は大変らしい。歩いていると視線を集めてしまうようだ。
(そりゃあ、そんな格好だしな)
スーツ姿で出社すれば良いのに、と思いはしたが、登未の会社では女性は制服を着用する。
堅苦しいスーツで通うより、カジュアルな服装の方が気は楽だろう。
なにより、都内の会社に勤める身としては、これからが難関なのだから。
「この時間の電車か……」
「今日も満員ですね、きっと。嫌ですね……」
月夜と溜息が重なった。満員電車に憂鬱な思いを抱くのは一緒のようだ。
「出社ギリギリなら、少しはラッシュが楽になるんだけどな」
「そうなんです?」
「下手したら、途中から座れるし」
「えっ、いいなぁ。でも着替えがあるから、わたしには無理だぁ」
情けない声で月夜は肩を落とした。テンションが上がったり下がったりと忙しない。
登未は月夜に苦笑しつつ、通勤について訊ねた。
「やっぱり、ラッシュはつらい?」
「つらいですよ。おじさんたちに潰されて、息をするのもしんどいですもん。痴漢もたまに出るし」
「……痴漢、いるんだ」
「いますよ。なんというか、偶然というか事故を装う感じで余計にむかつきます」
月夜は腕を組んで、鼻息を荒くしていた。痴漢の話は聞いたことはあるが、実態は知らない。
詳細を聞きたくなったが、流石に不快な内容を思い出させ、聞き出す訳にはいかない。
そんな登未の気持ちを読んだ訳でもないだろうが、月夜は説明を続けた。
「手が当たっている程度、なんですけど。それが離れないんです。お尻とか。あと肘で胸とかも。おばさんの前を死守して、腕を組んだりして、なんとかやり過ごしてますけど」
割とせこい痴漢がいるようだ。
偶然であると、ギリギリ言い逃れできそうな行為をしているらしい。
美人だから、なのか。若いから、なのか。
どちらにしても、大変だなぁと少々同情してしまう。
しかし月夜の顔は、安堵で満ちているように見え、登未は首を傾げてしまう。
「でも、今日は安心です」
「……それはまた、どうして?」
「宇田津さんと一緒なら、せこい痴漢も出てこないはず!」
(それは、暗に俺の顔が怖いから、ってことだろうか?)
威嚇効果を有する顔ではないと登未は思っていたが、実際は違うのかもしれない。
少々不安に感じた登未は、さりげなく自分の頬を撫でた。
触っただけではわからない。だが月夜が安心できるなら良しとしようと納得する。
「……しばらく、一緒に通勤しません?」
「痴漢避けの効果があるなら、考えんでもない」
期待感の籠もった月夜の瞳から逃亡するように、登未はそのまま前を眺める。
徒歩7分。駅に到着していた。間もなく通勤ラッシュに身を投じることになる。
(ま。ちょっとは気をつかってみますかね)
ほんの少し、月夜に配慮して電車に乗る決心を登未は固めた。
◆◇◆
通勤に使用している路線は、東京都心部の交通を支える大動脈の路線と交差する。
該当する駅に到着すれば、大量に乗客が降車するので、ラッシュの責め苦から解放される。
「しばらく、一緒に通勤しません?」
「……検討させてくれ」
人混みの圧力がなくなり力を抜いた登未を、月夜は見上げていた。
「こんなに楽なラッシュは初めてです」
「それは、ようございました」
ほうと息を吐いて喜ぶ月夜に、登未はジト目で見返しながら、ラッシュ時の苦労を思い返す。
◆◇◆
電車に入ってから、大変だった。
月夜と登未は後ろから人に押される形で、電車に押し込まれた。
よくある話で、それはいい。問題はここからだ。
同じ方向を見ながら電車に入ったのだが、前に並んでいた月夜は途中で身体を反転させた。
カバンを背中から下ろして、片腕に持ち換えていた登未の腕の中に、月夜は身体を納める。
(ちょっと待て)
おそらく、こちらに身体の正面を向け続ける眼前の中年男性のせいだろう。
なぜ周囲に併せた身体の向きを、頑なに拒むおっさんが世の中に多いのか。
だからと言って、月夜が身体をこっちに向ける理由にはならない気がした。
登未は顔を引き攣らせるが、乗客の流れは止まらない。前後左右から圧力を受けた。
そうなれば、自然と登未と月夜は密着する。
身体の前面が月夜の柔らかさを感じ取り、背中に汗が浮かび上がった。
電車が動きだす。左右と後ろからの圧力に負けぬよう足を踏ん張らないと倒れそうだった。
更に言えば、月夜も登未にしがみついている。
二人分の身体を支えるため、登未は足を内股にし内腿を絞り、膝を落として力を入れた。
(サンチン立ちは、電車に便利!)
漫画で身につけた知識で乗り切ろうと思ったが、登未の筋力では周囲からの力にどうにも抗えきれない。やむなく、空いている腕でポールを掴み、
(ああ、痴漢もいるんだっけな!)
月夜の話を思い出し、カバンを持った手をなんとか動かす。腰の位置まで動かしカバンで月夜の尻をガードする。半ば抱える形になったが、もうどうにもならないし、どうにでもなれという気分になった。少なくとも外部からの痴漢は防げる。
鼻孔をくすぐる華やかな香りや、思いの外豊かな感触、顔が押し付けられ月夜の息で熱い自分の胸など、思考を邪魔するアレソレを意識から外しながら、少しでも周囲からの重圧を緩和しようと努力する。そんな中、月夜が登未に話しかけてきた。
「宇田津さん、宇田津さん」
「なんだ、こら」
「柔軟剤、何を使ってるんです? いい匂いです」
登未とは違い、余裕のある言葉だった。周囲からの重圧の緩和に成功している証だが、腹が立った。月夜の頭に顎を乗せてガコガコ揺らすことにする。思惑通りに月夜は軽い悲鳴をあげて、大人しくなった。そして思惑とは違い、月夜は登未の胸にぽすりと顔を戻した。
(なんでさ!?)
頭を掴んで左右に振り回したくなる衝動に襲われた。
しかし空間的な余裕もなく、また衆人の中で行使する勇気もない。
ひたすらに精神を削られながら、登未はラッシュ状態を耐え続けるのだった。
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