第9話 そして出社したらお仕事を始めます。
「……マジで、疲れた」
登未はぐったりと首を項垂れる。ついでに、自分のスーツを確認する。
月夜の化粧の跡が僅かに付いていた。
払えば落ちる程度であり、Yシャツにリップの跡が残るよりは遙かにマシだ。
「えっと、ごめん、なさい?」
「疑問系なのが、よくわからん。まあ、疲れてないようで何よりだ」
横で月夜が苦笑しているが、表情ほどに申し訳なさそうと思っているように思えない。
むしろ楽しそうな雰囲気だ。
朝の通勤は体力を使う。細く小さな女子には更に大変なことは容易に想像でき、比較的快適に過ごせたのなら良いだろうと、登未は溜飲を下げる。
「じゃあ、俺は次の駅で降りるから」
「あ。朝ご飯をご馳走するって話だし、わたしも降ります」
カバンを背中に背負いながら宣言すると、月夜も降りる素振りを見せた。
共に会社に行くフラグだ。流石にそれは避けたい。
「いいよ、礼も要らなければ、電車代がもったいない」
「えー……」
「じゃあ、今度どこかで缶コーヒーでもちょうだいな」
言っている間に電車が止まる。
「んじゃ、会社で」
「はい、会社で」
電車を降り、なんとなく発車するまで、眺めていた。
月夜は登未に小さく手を振っている。
周りから不自然に思われない程度に、少しだけ手を挙げて応じていると、電車が出発した。
(なんだかな)
月夜の姿が見えなくなって、登未は溜息を吐いた。
溜息の原因は、月夜だ。
(あの距離感は、何なんだ?)
会話をしてから12時間程度で、この親密具合は何だろう。
登未は乗り換え電車のホームに向かって歩きながら、考える。
警戒やそう言ったものを考慮していないような行動に見えた。
(がっつき過ぎないのも、問題なのかね)
昨夜、耳にした月夜の大学時代の飲み会の話を思い出す。
異性からの露骨なアプローチに勘付いて、辟易していた。
つまりは、異性関係には聡そうなものだ。
登未がこれといった反応を見せないから、安心しているのかもしれない。
(もう少し距離感を考えたいというか、牽制した方がいいのかもなぁ)
今日の通勤結果が快適なものだったのならば、月夜は一緒の通勤を継続してきそうだ。
対応を誤れば、仕事でも悪影響があるかもしれない。
(嫌だなぁ)
ホームに電車が到着していた。
登未は小走りしながら、何となくそう思った。
◆
「おはざーす」
会社について、自分の部署の扉を開けて、登未はやる気のない挨拶を口にする。
返ってくる言葉も皆やる気がない。人によっては「ざーす」としか言っていない。
概ねいつもこんな感じだ。自分の席は、部屋の端だ。登未は歩きながら、月夜の席を確認する。まだ着替えているのか、席には居ない。
自分の席の横にカバンを放り投げ、パソコンの電源を入れながら席に着く。
起動画面を眺めつつ、内線の携帯電話の電源を入れ、準備は程良く完了する。
(資料の続きから始めようかね)
今日も問い合わせ地獄が予測できた。始業まで時間はあるが、空いている間に少しでも詰めておこうと思った。昨日やろうと思った営業支援用の資料を作ろうと支度をする。
(ああ、そう言えば)
昨日と言えば、月夜との帰り道に話していたことを思い出す。
飲み会を苦手としている月夜だが、原因は今ひとつ立ち回り方がわからないとのことだった。
(飲み会の作法、ね)
左の掌に顎を載せながら、鼻から息を吐き出す。そのまま、右手でマウスを動かす。
程なくして、メーラーが起動する。
(テキストなら、作れるかな)
仕事が始まるまで、まだ時間がある。
それまでは、仕事をしようが、何をしようが文句は言われない。
(まあ、ないよりはマシかな。デートとかになるよりはいいさ)
作法とまでは言わないが、飲み会で新人が採るべき一般的な内容くらいは知っている。
いくつかを簡潔にまとめることにした。
「おはようございます」
登未が送信ボタンをクリックすると同時に、女性の声が聞こえた。
ふと目を向ければ、月夜が部屋に入ってきた。月夜へ返る挨拶の声が、他の社員より多い。
しかも皆「おはようございます」ときちんと発声している。
(この男女の格差よ)
背もたれに体重を預け、苦笑を浮かべていると、月夜と目が合った。
手を振るような真似はしてこなかったが、代わりに微笑みを返してきた。
苛ついたので、眉根を寄せて応じてみる。嬉しそうな笑みの返答があった。
(なんでやねん)
登未はパソコンに顔を戻し、嘆息する。嫌がる反応を見せて喜ぶとは、何事か。
マゾ気質でもあるのかと、月夜が心配になった。
(ま、俺が気にすることでもないか)
すぐに気を取り直して、仕事を始めることにした。
資料作成のため、参考となる資料を集める。
他社製品との比較資料だ。Webカタログなどから情報を集めなければならない。
必要となる製品スペックを眺め、表に落とし込んでいく。
ただのスペックを並べるだけでは、営業資料としては不完全だ。
客先を納得させるためのストーリーや、自社製品の魅力を伝えなければならない。
(どうすっかね。……ん?)
ほぼ互角の製品を比較しなければならず、頭を悩ませていると、ふと胸ポケットのスマホが鳴った。
なんだろうと思いスマホを取り出すと、メッセージが届いていた。
月夜からだった。スタンプが二つ送られてきたようだ。開いて内容を確認する。
そして、吹き出す。
一つは喜びを示すスタンプだ。これは良い。もう一つが問題だ。
(なんだ、『大好き』って)
女子特有の他意のない言語が存在する。『可愛い』が代表例だ。含有する意味が多すぎる。
『ヤバい』も同格だ。
月夜の送ってきた『大好き』も、その一つと思った。
特に深く考えたら負けと思い、無難なスタンプを送る。
ウサギのキャラが無表情で親指を立てるスタンプだ。
すぐに既読が付き、そのスタンプかわいい、欲しい、と文字が続く。
買えばええやん、と返せば、悩む顔のスタンプが返ってきた。同じキャラクターだった。
(買ってるやん)
行動の早いことだと苦笑していると、始業のチャイムが鳴った。
同時に内線電話が鳴る。営業からの着信だった。
(さ、問い合わせ地獄の始まりだ)
スマホを胸に戻した登未は、本日の業務を開始した。
◆
「あの、宇田津さん?」
何件目かわからない問い合わせを終わらせ、通話を切ると、横から声を掛けられた。
顔を動かせば月夜が立っていた。分厚い自社の製品カタログと、メモ用紙を手にしていた。
「問い合わせで、わからないことがあるんですけど」
月夜と登未の席は離れている。部屋の端と端であり、わざわざ自分を訊ねなくとも良いのでは、と月夜の席の周辺に視線を向ける。
(ああ、誰もいねえ)
打ち合わせか何かだろう。訊ねる相手がいない以上、仕方ないと登未は月夜に顔を戻す。
「はい。なんでしょ」
「えっと、営業さんからこの製品の問い合わせがあって」
机にカタログを広げ、問い合わせ内容を伝えてくる月夜の言葉を聞く。
製品は認証装置で、設置の施工をしているのだが、動作しない、という内容だった。
聞きながら、登未は顎を指で掻く。
(情報が明らかに足りてねえな)
問い合わせをしてきた相手に、本来なら確認する事項が抜け落ちている。
月夜が悪いのか、そもそも指導されていないのかわからないので何とも言えない。
登未は机の上のメモ帳とペンを手にとった。
「おし、まず確認だけど、繋がる製品は何か確認している?」
「え? えっと、たぶんコレなんじゃないかと……?」
「確認は、してないよね? これとも接続できるけど」
製品が正常に動作しない場合に確認しなければならないこと。
それは構成機器の確認だ。正しい組み合わせかどうかの確認がいる。
営業は必ずしも製品の全てを把握している訳でもなく、誤ることもあった。
「起きている現象も、ただ動かないじゃなくて、何がどんな反応するかを把握すること」
動かない、という言葉も広い。
例えば、起動しないのも動かないだが、起動はするが使用できないのも同じ動かないという言葉で表現できる。
表示が光っている、という言葉も、点灯なのか点滅なのかで話は大きく異なる。
具体的な挙動を確認しなければならない。
「まずは、ここまで把握するのが必要かな?」
「えっと、すみません……」
怒っているわけではないので、謝られても困る。
恐縮を始めた月夜に苦笑を浮かべつつ、要点をメモ帳にまとめていく。
(機器構成の確認と、現象の詳細、あとは……配線の確認と、あと設定の有無、かな)
まず初期の問診としては、この程度だろう。登未は内容を簡潔にまとめたメモ用紙を、月夜に手渡す。
「まあ、今度からまずはこの確認をしてから、かな」
「はい、気をつけます……、すみません」
「で。問い合わせは、誰から?」
月夜の指導だけで終わらせては、営業が可哀想だった。何らかの解決方法を提示した方がいいと登未は考え、問い合わせ先を確認する。
「は、はい。広島の――」
月夜が答えた営業の名を思い出す。二年目の、まだ新人と言っても差し支えのない経験の足りない者からの問い合わせだった。施工を行なう職人も、経験に乏しい筈だと登未は頭を巡らせる。概ね、起きていることの予測ができた。
「じゃあ、これとこれを伝えてくれる?」
パソコンを操作し、該当製品の取扱説明書のPDFファイルを起動する。
初期設定で、忘れがちな項目を月夜に説明した。
「たぶん、起こってる現象はきっとこれで、こうなるってことは、これをしてない証拠で――」
画面を指さし、月夜に減少について一通りを説明する。
月夜を見て内容を理解できたか否かを判断しようとした。
しかし登未は眉根を寄せた。
月夜が感心したように、口を丸くしている。
理解した、しないの話ではない。聞いていたのかすら疑わしくなった。
「……えっと、何?」
「なんで、そんなにわかるんですか?」
「そりゃあ、ねえ。毎日似たような問い合わせだし、経験の差。それよりも、理解できた?」
「あ、はい。だいたい」
なかなか信用ならない言葉だった。登未は鼻を鳴らし、表示している内容を印刷する。
蛍光マーカーを持ちながら、背後の印刷機に手を伸ばした。
「ここと、ここな。これをあいつに伝えて」
「はい、わかりました」
印刷物の該当箇所にマーカーで印をつけて、月夜に手渡す。
月夜は紙を受け取り、一つ頷いた。
用事は終わった。だが、月夜は動かない。
「……なに?」
「え、いや。なんか、やっぱり」
他の用事でもあるのかと登未は月夜に訊ねる。
月夜はどこかぼうっとした様子で言葉を続けた。
「先生みたいだなって」
思ったよりも、どうでもよいことを月夜は考えていたらしい。
呆れた視線を月夜に向け、業務に戻れと伝える。
「さようで。仕事に戻れや」
「はあい」
席に戻っていく月夜の背中を見た後、息を吐き出す。
そして、声を出さずに笑う。
よりによって先生と来たか、と愉快だった。
会社の中で、戯れで誰かを先生と呼ぶことはある。
言外に、お前の仕事だ頑張れ、という意味で先生と呼ぶ。
(あれは、学校の先生って意味じゃねえのか)
頬杖をつくフリをして、口元を隠した。
社会人となって、まだ学生気分が抜けていない。
それは時と場合によっては、蔑む意味を成す。
しかし今この時、登未が思ったのは逆のベクトルを向いていた。
逆のベクトルだが、思考が定まらない。
笑いつつも、月夜の行動を何と称すればいいのだろうか。
(無邪気とも、違うな。なんだろうね、純真?)
いつまでも笑っていても仕方ない。何と言っても業務中だ。
笑って金を得るなど、社畜としては受け入れがたい。
楽しいことには、一旦幕を引く。
思考を切り替え、登未も仕事に戻ろうとする。
(なんにしても、羨ましいね)
最後に一つ、笑うと登未はパソコンに向かい始めた。
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