第2話 ある残業中の出来事


 残業は、良くない。


 口を揃えて、皆がそう言うし、国もそう言う。

 しかし人によると、宇田津うだつ 登未とみは思っていた。

 少なくとも登未にとっての残業は、悪ではない。


「はあー……」


 静かな会議室の中で登未は、独りパソコンに向かって深くて長い溜息を吐く。

 会議室とは、会議をするための場所だ。

 しかし、会議以外をしてはいけないという決まりはない。

 独りで占有すれば、そこは静かな個室となる。


「あー……。すげえ、もう夜だあ」


 もはや何が凄いのか自身にもわかっていないが、登未は机の上の缶コーヒーを飲みながら呟く。会議室の窓から見える景色は夜色に染まり、綺麗な夜景が広がっていた。

 煌びやかな夜景に目を向け、登未は乾いた笑いを浮かべる。


「東京の夜景って、正体は社畜の明かりだよな」


 ビルの光はサラリーマンの残業の証だ。どこもかしこも絶賛残業中なのだろう。

 木曜日という平日の夜であり、当然ともいえる風景だ。

 しかし時刻は21時だ。この時間の残業程度で社畜と呼ぶのは、些か非現実的だ。

 そもそも電車が動いている。家にまともに帰れる段階で、平和極まりない。


 とは言え、世の中の会社員全てが社畜人生を満喫しているわけでもない。

 ブラック企業だけでなく、ホワイト企業だってある。

 すぐ傍に。


「……いや。ホワイト、なのかなあ」


 防音対策の分厚い鉄の扉を眺めて、登未は首を傾げる。

 おそらく、扉の向こうはホワイト企業の世界が広がっていると予測できた。

 つまりは皆、帰宅している。

 いつものことだ。

 大抵の者が21時には帰る。


「……ま。いいけどね」

 

 ならば登未は何故残っているのか。

 答えは単純にして明快だ。

 業務が捗る。

 それだけだ。


「資料、こんなとこかな……」


 マウスを操作して、作成した資料を確認していく。

 営業支援の製品提案書だ。

 本来なら、日中に仕事を行なうべきだ。

 しかし、登未の場合は事情が異なる。


「今日も、ひどい問い合わせだったなあ……。結局、着信何件あったんだ?」


 勤続して10年も経てば、仕事の大半を覚えてしまう。

 知識も豊富になり、質問されてもほぼ即答できた。

 ある程度トラブルが発生しても、伝手を伝えば大概が解決する。

 聞いても自分の仕事があるからと断る、そんな塩対応は得意ではない。


「あー……、新記録だ。40件」


 このような便利な人間がいれば、人はどうするか。

 答えは簡単だ。


 利用する。

 皆、困ったら、登未に訊ねる。


 同じ部署だけでなく、余所の部署の人間も、そして地方の支店営業所も同様に考えた。

 故に、登未へ質問は集中した。業務が行えないほどに。

 自分の仕事を日中に行なうことができず、登未は定時後になんとか仕事を熟すのである。

 残業が悪かは人による。誰にも邪魔されず仕事ができる残業は登未にとっては望ましかった。


「……、疲れた。一息、いれるか」


 しかし疲れるものは疲れる。仕事を一つ片付けたためか、気が抜けた。だから、という訳でもないが、一度休憩を挟みたかった。登未はパソコンを操作し、作成した資料を印刷して立ち上がった。机の上に置いていた煙草を片手に、事務所内の印刷機へと向かうため、会議室の扉のハンドルに手を掛けた。


「お?」


 会議室から出て、登未は目を丸くした。

 誰も残っていないと思った室内に、まだ一人残っている。

 珍しいと思いつつ、登未は様子がおかしいことに気づいた。


「あ、は、はい。い、今調べて、は、はい! すみません! は、はい」


 若い女性の声だ。会議室のある位置からは大きく離れた席から聞こえてくる。

 慌てるどころか、混乱している様子だ。他に人影はないので、おそらく電話だろう。

 面倒ごとの臭いがした。登未は近づきながら電話の前で頭を下げる女性を見る。


(ああ、新人か)


 見目も良く、美人な新入社員として周囲が話題にしているのを聞いたことがある。

 顔で採用したんだろ、と余所の部署の人に笑われ、知らんがなと返したこともあった。

 そんな先月配属されたばかりの新入社員が電話対応している。

 内線として支給されている携帯電話を片手に、何かを読んでいるようだ。


(名前、なんだっけ?)


 新人であったとしても、何度も電話のやり取りをしたり、会話したりすれば簡単に名前を覚えることはできる。逆に言えば、例え同じ部署内であっても、覚える気がなければ、話は別だ。

 仕事で絡まない限り覚えられない。


――しかし、と登未は片眉を上げる。

 相手は新人だ。残業させるほどの仕事量など与えられない筈だ。

 何故残って、そして今電話対応をしているのだろうか。


(まあ、いいや)


 まずはトラブル解決が先だ。状況が知りたかった。登未は、何が起きているのかを確認しようとした。新人に訊ねようと思っても、登未の接近にすら気づいていない。混乱しきっていると言っても過言ではなかった。涙目になりながら、必死に資料を読み解いていた。


「電話。寄越せ」


 資料の中身から、何のトラブルか推測した登未は新人に声をかける。

 だが、混乱する新人の耳には届かない。

 仕方なく新人の手から電話を奪うと、通話先の相手と会話を始める。


「はい、お電話変わりました、宇田津です」

『あ!?』


 聞き覚えのある声だった。西の方の支店に所属している同期の営業だ。

 第一声から少々喧嘩腰で、相当お冠な様子だ。慣れていなければ怯え惑うのも無理もない。

 役職は登未の二つほど上だが、所詮同期であり、更に言えば時間外だ。

 登未は気にせず、口調を崩す。


「あ、じゃない。落ち着け。宇田津だっての」

『……? おー、ウダか。残ってたんか』

「ああ、うん。ちょっと資料作りに集中してて。で、どしたん?」


 登未とわかると、通話先の営業は高沸していた気持ちを下げたようだ。

 内心で、新人かつ女の子を怯えさせんな、と思いはしたが、言っても無駄なので事情を聴く。

 新人の見ていた資料を見る限り、自社製品のソフトウェアに関するトラブルと予測していた。


(……この野郎)


 予測通り――いや、予測以下の現象が起きていたので、登未は一つ鼻を鳴らす。


「わかった。取説なんて、手元にねえな? じゃあ、一回ログアウトして――」


 初歩の初歩で間違えていたので、説明を省いて作業を指示し、電話ごしに作業をやらせる。

 二分もかからずに問題は解決した。


「はい、んじゃ、それで。あ? 飲み? こっちに来たらな。はいはい、よろしくどーぞ」


 通話を切り、携帯電話の画面を見る。自分の顔の脂が付着していた。

 服で拭き、電話を持ち主に返そうと思った。

 はて、この新人の名前は何だったろうか。未だに思い出せない。

 しかし、わからなくてもコミュニケーションは取れるので、気にせず返すことにした。


「あー。ご苦労さん」


 声を掛けてみたが、新人は目を丸くして登未を見ている。

 それもそうだろう。どれほどの時間、独りで頑張っていたのかはわからないが、僅かな時間で解決されては、自分の努力はなんだったのかと思っても仕方ない。


 だからといって、反応を待つ気は登未にはなかった。

 若者特有の妙な抗議も、新人特有の過度な感謝も鬱陶しいので、聞きたくない。

 登未は、新人が口を開く隙を与えないことに決めた。


「やー。ごめんごめん。会議室に籠ってて、もっと早く気づけばよかったね」

「え、あの」

「あいつも、困ったもんだよね。初手から間違えてんだし。ま、教えたし暫くないと思うから、気にしないで。んじゃ早めに帰んなよー」


 登未はポケットから煙草の箱を取り出し、煙草を吸いに行くとアピールした。

 喫煙所へ行くと示し、話は終わりだと無言で告げる。


(おお、まともに言葉を交わさなかったぞ、俺)


 新人から出てくる言葉は、代名詞以外なかった気がする。

 目論見通り、発言を封殺することに成功した登未は、エレベータで最上階へと向かった。

 屋上に上がる階段を歩き、扉を開けて喫煙所に辿り着く。

 当然と言えば当然のように、屋上には誰も居ない。

 煙草に火を付け、大きく伸びをする。


「本日も、星天なりー」


 疲れているせいか、独り言が多い。訊く者がいないので恥じる必要はないと登未は苦笑し、口から煙を吐き出す。紫煙の向こうには月夜が広がっていた。

 僅かに欠けた月を見て、ふと登未はつぶやく。


「……あ。思い出した」


 新人の名前だ。

 たしか、月夜だったはずだ。

 飯田いいだ 月夜つくよと配属時の挨拶で言っていた気がする。

 名前を聞いたとき、ある言葉が浮かんだ。

 今、それを思い出した。


「いつも月夜に米の飯、か」


 月夜を前に口にするとは思わなかった。

 思わず口元を綻ばせてしまう。

 夜に生まれたからか、それとも言葉の意味を知ってのことか。

 何にしても、月夜という名前を付けた両親のセンスは好ましい。


 言葉の意味を考える。

 理想を願っても実際はそうはいかないことを意味する表現で使われる。


(でも本当は、満足な生活という意味だ)


 映画や漫画のタイトルにもなった言葉であり、登未は覚えていた。

 配属初日に、月夜の名を聞いたとき、今と同じことを考えていた。

 そして続いて考えた同じことを、再びぼんやりと考えてしまう。


――自分とは違うな。


 登未は煙を宙に吐き出しながら、苦笑あるいは自嘲の笑みを浮かべた。


 宇田津 登未。

 両親の離婚と再婚を経て、この名にたどり着いた。

 名は体を表すというが、表し過ぎていると思っていた。


――うだつが上がらない。


 とても自分を表している、と何処か納得してしまうほどだった。

 少し気が滅入りそうだった。


(まあ、仕方ない)


 登未は煙草を咥えたまま、息を大きく吸い、そして煙と共に夜空へ吐き出す。

 火が根元まで近づいた煙の味は、少し熱くて、そして苦かった。

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