第3話 新人の仕事を手伝ってみる。

 煙草を吸い、気分転換を終えて、登未は部屋に戻ってきた。

 まだ月夜が残業していることに気づく。


 時刻は21時半。

 これ以上残られると、深夜残業となり労働組合や総務部が文句を言い始める。

 早く帰ってくれないと、自分の残業ライフに支障を来たす、と登未は様子を見に行った。


「……なに、やってんの?」

「え? えっと……」


 突然声をかけたためか、月夜は戸惑いを見せた。やはり涙目であり、今度は何の困りごとかと、登未は机を覗き込む。真っ赤に添削された書類が机に置かれ、そしてパソコンの画面を見れば文章作成ソフトが起動していた。


「週報?」


 新人社員は、一週間で行なった仕事内容をまとめて、上司や総務に提出しなければならない。

 登未の質問に、月夜は顔を俯かせた。仕事ができない情けなさからか、恥ずかしさからか。

 どちらとも取れる表情に、登未は首を掻く。


(文章作成は、なあ。週報って書くところも小さいし、慣れないとしんどいもんな)


 週報で一日の業務を記載するスペースは、かなり小さい。思ったままに作文すれば、すぐにスペースは埋まってしまうため、要約しなければならない。経験に乏しい者であれば、限りある記載空間にプレッシャーを感じ、思うような文章が書けないのは当然だった。


(しかし新人相手に容赦ねえな、あの人は)


 指導者の愛の鞭を受ける月夜に憐憫の眼差しを送りつつ、登未は溜息を吐きながら悩む。

 この程度なら自力で乗り切ってもらいたいが、かと言って、新人をあんまり残業させても良くない。労働組合が自分の部署に目を付けて、残業規制が掛けられるのは避けたかった。残りたくないのに残業させられるのは取り締まるべきだが、定時後で営業からの問い合わせが激減し、仕事に集中できる環境は手放したくない。


(…………、まあ。これくらいなら)


 登未は手を伸ばし、月夜の机の赤字添削済みの週報をつまみ上げる。

 ぽかんと口を開ける月夜と目を合わさず、内容に目を通しながら自分のノートパソコンのある会議室に向かう。


「さて、と」


 登未はマウスを動かし、メーラーを表示する。

 宛先を月夜にし、件名に「参考に」と書くと、キーボードを叩き始めた。

 月夜の週報の内容は、少し眺める程度で概ね把握できる。

 新人の仕事の内容は単純、平凡、そして少ない。

 特記事項がいくつかあるだけだ。


(整理して、簡潔にするだけでしょ)


 月夜の業務内容を、それぞれ三行から五行に収まるようにまとめてメール画面に打ち込んでいく。

 そして、最後に『アレンジは上手くやって。返信不要、謝礼不要』と書き足して、送信ボタンをクリックした。


(成果にならない仕事は早く終わらせた方がいいよ、と)


 登未はメーラーを閉じると、再び自分の仕事に戻る。

 新人の週報は、成果には繋がらない。精々が巧くまとめられている、もしくはそうでない、と判断されるだけだ。そんな何の特にもならない仕事に全力を注ぐことを、覚えられても困る。


(さもなくば、こうなるぞ)


 登未は仕事を大量に抱えていた。

 しかし、定時内に来る問い合わせ業務は成果として認められない。

 そして、これから作ろうとしている資料も、大きな成果には繋がらない。


 結局は営業支援のための資料だ。業績には間接的にしか影響しない。

 失敗すれば目に止まるが、成功しても営業の成績が増えるだけで、登未の手元には何も残らない。

 そもそも依頼を受けてこなすだけなので、頑張ったところで、依頼書一件分の価値しかない。


(こんな仕事ばかりで、出世もできなくなるし)


 十年勤めて、色んなチームでの仕事をしてきた。

 そして登未は今の、営業支援の業務に携わるようになった。

 出世街道からは外れたと、登未は認識している。

 遅くまで残業しているが、成果として認識されず、いまだ登未に役職は何もない。

 同期の営業や、工場勤務の者は昇格しているが、登未は何も評価されず、ヒラのままだ。


(ま、よくある話だよね)


 だからと言って、今の自分の状況に、特に感慨はない。

 目先の仕事に集中しようと、書類作成に勤しむことにした。


 が、ふと視線を感じて指を止める。

 月夜が会議室の入り口に立っていた。

 仕事の肩代わりをしてもらったメールを受け取れば、いくら返答や謝礼不要と書いても従うのは難しいだろう。登未としては、ただのお節介で、恩に着せるのは情けない。


「ああ、ごめん。週報、奪ったままだった。返す」


 むしろ出世とは無縁の「ダメ社員」の登未と関わらない方が良い。

 月夜が言葉を発する前に、登未は月夜が書類を取りに来た、そう捉えたことにした。

 こう言われれば、月夜としてはまず書類を受け取るしかない。

 躊躇いながら、月夜が会議室に入ってきた。

 登未は週報を差し出しながら、月夜の姿を眺める。


(まあ、可愛いこと)


 女性社員は社内に居る限り制服を着用するルールがあった。男はスーツならば何でもいいが、女性には縛りがあるという不平等な決まりだ。月夜は決まりに従い、制服を着ている。服自身は見慣れているが、容姿の優れた者が着用すると印象が変わるなと、紺色基調のブレザーとスカートを漫然と眺める。


「あの、め、メール、ありがとうござい――」

「修正は終わった?」


 月夜が言葉を言い切る前に、登未はパソコンに視線を戻しながら声を掛ける。

 あまり長く会話する気がないと意思表示だ。


「は、はい」

「そう。じゃあ、早く帰りなよ」


 言ってはみたものの、些か冷たすぎるだろうかと、不安になった。月夜に目を向けると、気まずそうに眼を逸らしていた。怒っていると思われるのも心外だったので、登未は笑顔で対応することにした。


「新人で残業癖つけたら、社畜の始まりだし」

「は、はあ……」


 どこか引き攣り気味の笑顔が月夜から返ってきた。話す内容が内容だったこともあり、心証はよくなかったらしい。手を間違ったと認識し、次なる会話の一手を模索していると、月夜が口を開いた。


「え、えっと。遅くまで仕事されているんですね」

「そうでもないよ、もうすぐ帰るし」


 背もたれに体重をかけて、伸びをしながら応える。時間は二十二時間近だ。本当に帰らないと、後で労働組合に蛇蝎の如く責められる。


「えっと、飯田さんもマジで、早く帰りなよ。まだ仕事残ってんの?」

「い、いえ。後は週報だけだったので。あの、本当ありがとうございました」


 月夜が頭を下げるのを見て、登未は再び自分の失敗を悟る。仕事のことに触れれば、肩代わりしたことを意識してしまうのも当然だ。謝礼不要と書いたが、効果はなかったらしい。仕方ないと意識を変えて、登未は頭を掻きながら月夜に声をかける。


「もしかして、文章書くの苦手?」

「え、あ、どうでしょう……? あんなに修正が入ったんだから、多分ダメなんだと……」


 自信の消失したような月夜の顔を見て、登未は考え込む。指導者の指摘内容を思い返してみるが、中々に容赦のない指摘がびっしりとかき込まれていた。


「なんか、日本語がおかしいとか、何を言いたいのかわからないとか指摘されてましたし……」

「ああ。それは、あんまり気にしなくていいんじゃない?」


 弱々しい月夜の笑みに、登未は苦笑しながら答える。言葉通り、登未は気にする必要がないと思っていた。むしろ指摘者が気にしろ、と思う内容だった。


「日本語がおかしいなんてさ。そんなのは、文章書き慣れてない人にする指摘じゃないし。そもそもが変な言葉なんだぞ、それ」


 日本語がおかしい。

 一般的な社会人が、他人の文章を指摘する際に用いる言葉の上位にあたる言葉だ。

 言葉が足りてなく、日本語という言語がおかしいという意味になってしまう。

 それなのに、よく使われる。曖昧でも伝わる日本語の妙なのかもしれない。


「もしかしたら、日本語が問題を抱える言語と思ってる人なのかもしれないけどさ」


 もしそうでなく、文章が変という意味で使うなら、大いなる矛盾が発生する。

 その言葉自体がおかしな文法の産物であると気付いていない。


「日本語におかしいもクソもなくて、言うんだったら助詞が間違っているとか、そういった指摘じゃないとわかんないよね」


 せめて日本語の使い方がおかしいや、文法が間違っていると言うべきだ。

 指摘者が得意顔で誤った言葉を使う、という滑稽な状況となる。


「だから、へこまなくていいと思うよ?」


 自信をなくす新人に、指摘自体が誤っているのだからあまり気にするな、と励ますのは正しいのだろうか。内心首をひねって月夜を見れば目を丸くしていた。

 沈んでいる顔だろうが、驚く顔だろうが、整った顔であれば様になってしまうのはズルいと感じた。何故にこんな相手と会話しているのか、少々現実味がなくて、愉快な気分になる。


「ああ、でも。変な文章だったってことは自覚しておこうな」


 気分のままに、軽口を叩いてしまった。言ってしまってから、口にした内容を思い返し、失敗したかと思って月夜を見ると、消沈しているようだ。


「えっと、はい。ごめんなさい……」


 気まずさを感じた。予想以上のダメージを与えてしまっていたらしい。どこかフォローをしなくてはならない気分になっていく。仕方なさから、口を開く。


「まあ、困ったらこっそりメールしてよ。文章の助言くらいならしてあげるからさ」


 文章だけでなく書類全般の作成は、登未が日常的に行なっている業務なので得意分野だった。

 週報程度の文章の添削なら、片手間で行なえるので大した負荷にはならない。


「え、いいんですか?」

「いいんじゃない? ああ、でも宮野にバレたら怒られるかもだから、上手くね」


 宮野とは、月夜の指導社員の名だ。厳しい上司の指導を受けてきた宮野の仕事は細かく、そして厳しい。宮野の性格を考えるとカンニングに近しい行為は、月夜が叱られる可能性が高い。

 諸々葛藤しているのだろう、眉間に皺を寄せて月夜は考え込んでいる。


(本当、上手くやってよね)


 思考に耽る月夜を見ているうちに、登未は残業する気をなくしてしまった。

 登未はパソコンの電源を落とすため、作成途中の文章を保存し、アプリを終了させていく。


「てか、飯田さんは着替えなきゃいけないんだから、早くあがりなさいな」

「え、でも」

「俺ももう帰るよ。閉店処理なんて、まだ覚えなくて良いから」


 登未は片手を振って、早く着替えに行けと伝える。閉店処理とは最後に帰る者が行なう作業を指していた。最終退出者は照明や印刷機の電源を落とし、入口の警備連動開始の操作をする必要があった。


「ほれ、早く帰りたいんだから。出てった、出てった」

「あ、は、はい。じゃ、じゃあ、お先に失礼します」

「はい、お疲れさん」


 自分の席に戻る月夜の後ろ姿を見送る。鞄を取った月夜はそのまま出入り口に向かっていく。

 ノートパソコンと飲みかけの缶コーヒーを持って会議室から出た登未に向かって、頭を下げて月夜は出ていった。


「……礼儀正しいんだか、俺が怖いんだかねぇ」


 誰も居ない室内で、ひとりごちると、パソコンを自分の席に置く。

 机の周りを片付け、缶コーヒーの残りを一息に飲む。


「まあ、たまには、ね」


 それは早めに帰ることなのか、普段業務中に絡むことのない者と会話したことか。

 口にしてから、どっちだろうと登未は首を傾げる。


(まあ、どっちも珍しいか)


 月夜とは思わぬ接触だったが、それでも偶然であり、気まぐれの結果だ。

 明日以降は、また関わることのない日々が続くはずだ。


(俺と関わっても良いことないさ)


 事務所内を見渡す。

 当然、もう誰も居ない。早く電気を消して、帰ろうと思った。

 時刻は二十二時ちょうどだ。ギリギリ深夜残業にならない時間であり、時間を越えた退出記録が残ると厄介なので、登未は急いで会社を出ることにした。

 印刷機の電源をオフにした後、机の脇に置いたカバンを掴み、出口へ向かう。

 見落としがないか、もう一度見渡して確認しながら、ふと思う。


(もしかしたら現実味のないことが、明日以降も起きるかな)


 らしくない考えだ。鼻を鳴らして、登未は部屋の照明を消す。

 そして暗い室内に向けて小さく呟いた。


「んじゃ、また明日」

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