第二章⑪
髪を濡らしたまま風呂から上がってきた弥恵を一瞥して、純は心底驚いた。
「うっわぁ、茹でダコじゃないんだから」
「うっさいっ! 茹でダコより酢ダコの方が赤いわよ、ってタコでメタファーすんの禁止っ!」
純が思わず口に出してしまうほど、弥恵の顔は真っ赤に茹で上がっていた。おそらくタオル地のパジャマに隠されたその柔肌も酢ダコのように真っ赤になっていることだろう。
比呂巳は長い髪の毛をドライヤーで乾かしているところで、会話が聞かれる心配はない。純は「ぜいぜい」言ってスポーツドリンクをごっくごっくと補給する弥恵に、
「や、やっちまったのか?」と恐る恐る近づき訊ねる。「ついに大往生か?」
純が実の妹に「やっちまったのか?」と聞いてしまうほど、弥恵の全身から「やっちまった」感オーラが出ていたのである。まるで狩りを終えてきた百獣の王のように「がるる」といきり立っている。風呂場での武勇伝が聞けるとあって純のテンションは空気を読めずに鰻上りである。けれど弥恵の全身から出ている「やっちまった」感は好機を逃してしまった方の「やっちまった」感だった。
「……」
「いいじゃねぇか、教えてくれよぅ」と純は弥恵の無言の意味を履き違えたように騒ぎ立てる。普段の弥恵であれば、拳でその煩い口元を血だらけにするところであるが、スポーツドリンクを飲み終え、熱が冷めると、一転して悲しげな眼差しで純を見やる。
純もその様子に「あ、やべっ」と黙り込む。「駄目だったのか……」
途端、静かになったリビングではドライヤーの音だけが聞こえている。
純が慰めの言葉を必死に考えている内に、弥恵が椅子の上で膝を抱え、言い訳をするみたいに言った。
「……もう少しだったんだ。もう少しで比呂巳にあんなことやこんなことできたんだけど」
「駄目だった」
「うん。でも頑張ったんだよ。私、頑張ったけど、運がなかったっていうか。比呂巳の方が一枚上手だったっていうか。運がなかったっていうか。頑張ったけど巡り合わせが悪かったって言うか。もう疲れちゃった。……私、頑張ったんだよ。お兄ちゃん」
濡れた前髪をぺたぺたと撫で付けながら、そう弥恵は純にすがるように言った。そしてまるで「よく頑張ったな」と褒めてもらいたそうに純に潤み、少し充血した瞳を向けるのだった。そんな孤独に打ちひしがれるウサギのような目で見られては、と純の手は弥恵の額に伸びそうになる。けれど、純はそれをぐっと堪えた。ここで褒めてしまっては弥恵のためにならない。
「弥恵は本当に頑張ったのか?」
「お兄ちゃん?」と「よしよし」と頭を撫でてもらえる気でいた弥恵は面食らったように純を見上げた。
「頑張ったって言うけどなあ、本当に頑張った奴は頑張ったって言わないんだよ。弥恵だって気付いてるんだろ。もっと頑張れたって、もっとやれたって、もっと頑張ればやっちまえたって」
「…………」とあからさまに凹む弥恵。
その肩に純は優しく手を置いた。そして目元を涼しげにニコッと笑いかける。
「お前はやれば出来る子なんだ。もっと頑張れよっ、弥恵。まだまだ夜は長いんだからな」
頑張ったと言っている人間に「頑張れよ」は禁句である。ここで弥恵の弛んでいたヒステリーの糸は瞬く間に張り詰めた。
「……黙れ」とドスの効いた低い声がぷしゅーっと漏れる。
「お前がささっとブレーカー落として吊り橋効果を演出していれば、失態を晒すことはなかったんだ。面倒臭いことにならずにすんだんだ。そう、全部お前のせい、全部お前のせいだ。比呂巳にうまく告白できないのも、ファッションセンスが悪いのも、部活で先輩に怒られるのも、全部っ、全部っ、ぜーんぶっ、お前のせいだーっ!」
弥恵は地団太を踏み、一気に全てを純のせいにした。支離滅裂な甲高いロリボイスが純の耳に突き刺さる。けれど純は動じない。冷静に「最後の方は俺の責任じゃないだろ」と判断することが出来た。何故なら絶賛お兄ちゃんパワー発動中だったからだ。珍しく「えいっ」と捨て身の頭突きが襲ってきたが、お兄ちゃんパワーが発動中の純は難なくそれをさらっと避けた。「ああん」と弥恵はへなっと膝を突いて項垂れた。
「……かわい子ぶっちゃったんだ?」
純のその質問に弥恵は居心地悪そうに「…………そんなことないわよ」と答えた。弥恵の脳裏には「潜水艦」といってかわい子ぶった、数分前の自分の情けない姿が浮かんでいた。朱色が引いていた首筋に再び血流が巡り始める。
「……かわい子ぶっちゃったんでしょう?」と純は弥恵と目線を等しくすると、その小さい顎を持上げて「正直におっしゃいなさい」とオカマ口調で叱るように言った。
一旦観念したように弥恵は頷いたが、
「だって、だってっ! いきなりキスされちゃったのよっ! 長い長いディープキスよっ! そんなことされたらかわい子ぶっちゃうに決まってるでしょ。攻めることを由とする私でも、いきなり攻めに転じられたら守りに入るしかないじゃないっ! 受けるしかないじゃないっ!」とかわい子ぶったことは仕方がないことだとあくまで言い張る。
けれどオカマ口調になった純にはそんな言い訳は通じない。人生の何たるかを知った経験者としての振る舞いが源氏名「じゅん」ことじゅんちゃんにはにじみ出ていた。
「キスまでいったんなら、もう一押しじゃないのよっ!」
せっかく比呂巳は助け船を出してくれたというのに、弥恵のへたれっぷりといったらないわね、とじゅんちゃんは思わず溜息を付いてしまう。「もうこの娘っこは肝が据わってないんだからっ」
それにしても、と風呂場での事情を知らない純は思う。
比呂巳もキスをするぐらいだったら、さっさと相思相愛の関係になればいいじゃないのかしら。もしかして弥恵の方から告白させたいって奴? あーもうこれだから最近の若い子って面倒臭いのよね。
と恋愛の玄人のように考えをめぐらす。「風呂で裸体を付き合わせているんだったらすぐにあんなことやこんなこと出来るじゃない?」
「だ、だってぇ、」
「黙らっしゃいっ!」と純はどこから取り出したのか知れない扇子で弥恵の額をぴしゃりと叩く。「言い訳は息苦しいわよっ!」
「見苦しいでしょっ!」と弥恵は小動物のように叩かれたところを押さえながら「……恋愛したことない兄貴に何が分かるって言うのよ」とぼそっと呟いた。
「あーあ、それ言っちゃうの。お姉さん……もといお兄ちゃんに言っちゃいけない言葉、第一位でしょ、それ。前言を撤回しますって言いなさいっ!」
その高圧的な上から目線に弥恵が憤らないわけはない。
「……何度でも言ってやる。恋愛したことない兄貴に私の気持ちなんてわかる分けないっ!」
「いつも言ってるでしょっ! 私はお前がお嫁に行く前に女性とお付き合いする気はないって!」
「そういうのなんていうか知ってる? シスコンよ、し、す、こ、ん、シスターコンプレックス。うぜぇんだよ、そういうのっ! いつもぺったぺったしてきやがってよ。うぜぇんだよ、うぜぇんだよ、うぜぇんだよっ!」
「ちょっとあなた、うざい言い過ぎだからっ! うぜぇえって言われるとマジで凹むから。いいこと弥恵、私はあなたのためを思って、」
「迷惑なのよっ! 面倒臭いのよっ! ロリコンだったら他の娘とよろしくやればいいじゃないのよっ!」
「私はロリコンじゃないわよっ。それより、弥恵は充分ロリよ。ロリにプロが合ったらドラフト一位よ、あなた。プレミアリーグも夢じゃないわよっ!」
「はあ? 何言ってんの。私、すげー大人だし。比呂巳のママが私のこと凄く大きくなったって言ってたしっ!」
「弥恵ったら冗談きついわ。その主語は胸のこと、バストのこと、おっぱいのことよっ」
「おっぱいとか真顔で言うな、変態、唐変木、甲斐性なし」
「ともかくっ、世間では弥恵はロリなのっ! 弥恵はロリにカテゴライズされるのっ! 弥恵にはその自覚が足りないわっ。お姉ちゃん心配よ。ロリコンじゃないけど心配よっ!」
「勝手にカテゴライズしないでよっ! 一般論って大嫌いっ! 一般論を笠に来た偏見はもっと嫌いっ!」
「その通りよ。なんでアニメが好きだからって後ろ指差されなきゃいけないのよっ!」
「なんで女の子が好きだからって後ろ指差されなきゃいけないのよ。百合で何がいけないのよっ!」
「弥恵っ!」
「兄貴っ! いいえ、お姉ちゃん」
ひしっと兄妹は、いや姉妹は手を握り合った。純と弥恵の兄妹喧嘩は純が黙らされて終わるか、こうやってなんだか分かり合って終わるのである。
「おいおい、また兄妹喧嘩かよ?」
弥恵とお揃いの黄色のパステル調のタオル地のパジャマを着た比呂巳が、いつの間にかリビングで呆れた風に牛乳をぐびぐびと飲んでいた。おっぱい大きくなるかな、と考えながら。
「お前が言うなっ!」と純と弥恵。
「……なんで私が怒られなきゃいけないのかな?」と比呂巳は自分に喧嘩の発端があるとは夢にも思わないわけで。
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