第二章⑩

 まるで嵐が過ぎ去ったように高野家は静かになった。


「夜の修行がありますので」


 そう言って雫は帰っていった。帰り際、雫は「気をつけてね」と純に耳打ちした。純は何のことやらさっぱりだったが、激励として受けって「おう」と応じた。


 不幸はどうやら雫の神聖な力によって防がれていたらしい。


 このことは俗世間の人間には内緒である。


 その力によってか、チャベスは犬のようにすっかりと寝息を立てていた。せっかく弥恵と比呂巳が風呂に入っていて、純は一人で皿洗いに励んでいたのだが、これで誤解はそのままになってしまった。


 純はそんなことなど意識に及ばせずに、弥恵と比呂巳が仲良く流しっこしているところを想像しては、皿を何枚か割ってしまった。いかんいかん、とわざとらしい素振りでお兄さんを気取っているうちに、皿洗は済んだ。やることもなくなってしまうと純はそわそわし始めた。誰かが背中を押してくれれば純は迷いなく風呂に乱入するだろう。そんな按配である。


 一方、風呂場では弥恵は必死で鼻血を堪えていた。体を洗いっこしているときは好き放題あんなとこやこんなとこも触り、触られ放題だったけれども、二人で風呂に浸かってしまうと不自然に両者は黙り込んでしまった。高野家の風呂は女子中学生二人が余裕で入ることのできるぐらいの広さはある。丁度、向かい合って入ると足先がちょこんと触れ合うくらいの。


「あ……ご、ごめん」


「なんで謝るのさ」と比呂巳の言うとおり、「何で私、謝ってるのよっ」と悶える弥恵。


「……今日はなんだか弥恵が遠い気がする。そんな風に気を使わなくていいいじゃん」


 比呂巳がここで言っていることは「いくら私と純兄貴をくっつけるためだからって、よそよそしく距離を置かなくたっていいじゃん」という意味なのである。けれど弥恵はそんなこと知るよしもない。その一言は一層、弥恵に追い討ちを掛けるだけだった。


「別に気なんて使ってないもの。ただ、不安なだけ……」と胡乱げに語尾を濁す。


「不安にならなくてもいいよ」


 比呂巳はそう言って顔半分をお湯につけてぶくぶくとやる。ここで「不安にならなくてもいいよ」といったのは「純兄貴の気持ちにはちゃんと応えるから」という意味なのであるが、けれど弥恵はその言葉にそのような意味を見出せるはずもない。どうして「不安にならなくてもいいよ」といったのか、とさらに分からなくなる。さらに不安になる。その一挙手一投足、そして無防備に晒されたその裸体が弥恵を苦しめているとは比呂巳は一向に知るよしもない。


 弥恵は比呂巳に告白すると決心してしまった。してしまったから、いつもみたいに比呂巳の細い腰にまとわり付いて、くんずほぐれつ、その柔肌に無為に触れることなんて出来やしない。


 我慢大会か、このやろう。参加者一名だけど……。


「むっ」とした気持ちがそのまま顔に出て、比呂巳を睨みつけるように見てしまう。愛情と憎悪は紙ひとえ。弥恵はすぐに後悔した。でも、比呂巳の方はどうして弥恵が怒っているのか、知るよしもない。弥恵のヒステリー、いやストレスは極限にまで達している。血の気の多さも極端鼻腔に溜まってきている。マグマ溜まりみたいに。


 言ってしまいたい。比呂巳への気持ちを全てぶちまけてしまいたい。


 けれど、不安なんだ。気持ちを確かめたいけれども、不安なんだ。恐いんだ。踏ん切りがつかない。誰かに背中を押してもらいたい。


 っていうか、ブレーカー落とすなら今以外にないだろっ!


 糞兄貴は何やっているのよっ!


 ……………………でもぉおおぉ……心の準備がっ……ああああ…………あっ。



 糞兄貴こと、純はそんな弥恵の気持ちに気付きもせず、煩悩を滅却するためにパパさんのアコギを借りて、「いもうとよ~」と弾き語っていた。まあ、ギターなんて弾けないのだが。



「もしかして」と比呂巳は「むっ」とした顔の弥恵に言った。


 もしかして私の気持ちに気付いてくれたの? そう弥恵は一瞬、期待してしまったけれど、


「兄貴のこと好きだったの?」


 弥恵がむっとしているものだから、兄貴が取られてしまうことに腹を立てているんじゃないかと比呂巳は思ってしまったようである。弥恵は一ミリも純に好意の気持ちを寄せてはいなかったので「はあ?」と眉間に皴を寄せた。


「あ、そんなことないよね。ごめん、変なこと聞いて」


 比呂巳は弥恵の純に対する嫌悪感を重々承知しているので、すぐにその疑問を引っ込めたようだ。



 純はくしゃみもせずに相も変わらず「いもうとよ~るるる~」と歌っている。くしゃみをする気配はない。やはり鈍感な男である。



 なら、どうして弥恵は怒ったような顔を見せるんだろう?


 比呂巳はその疑問を考えながら、目の前で裸体を晒す弥恵をじっと見た。


 どうして比呂巳は私の体をじっと見てるんだろう?


 弥恵は訝しげに小首を傾げる。


「おっぱいが大きい。わけて貰いたい」


 比呂巳は何を思ったか、「えいや」と触ってくださいといわんばかりに晒された、二つの丸い脂肪の塊に両手を差し出した。


 あまりに唐突、突然のことだったので弥恵は声も上げずにしょぼんとなってしまった。


「ご、ごめん」


「……」


 ツーンと気まずい空気が湯気で煙たい浴槽にもわもわと立ち込める。いつもの弥恵に戻ってもらおうという比呂巳の算段だったが、弥恵はその行為にさらに頭を悩ませることになった。


 いきなり胸を鷲掴みしてどういう気なの? 比呂巳も百合なの? どうなの?


 襲うなら、早く襲ってきなさいよ。


「……」


「……」


「……」


「………………ねぇ?」と沈黙の間に弥恵は心を固めたようだ。


「比呂巳は女の子同士の恋愛ってどう思う?」


 まず外堀から、弥恵は堅実家なのだ。


「え? 何、いきなり? もしかしてそれ、大事な話?」とまさかね、と思いながらも、比呂巳は一瞬「それが純の言っていた大事な話なのかな」と考えた。けれど「いいや、そういうんじゃないんだけど」とすぐに弥恵が否定したので少しほっとする。ここで肯定されたら比呂巳は独り相撲を取っていたことになる。といっても弥恵の否定は限りなく肯定の意を含んでいるのだが。


「……どう思う?」


 なんだか、雫とのやり取りを思い出しながら、


「……もしかして、弥恵、私のことそういう意味で好き、なの?」と比呂巳。


 その答えは至極正確だった。しかし弥恵は面倒臭い女だった。


「……違う」とそっぽを向いた。


 その間はなんなの、と比呂巳は思う。雫にその間はなかったからだ。


 一方、弥恵の不満げなその横顔に隠された心境は後悔、後悔、後悔、後悔。


 後悔に四方を囲まれて身動きがとれない。硬直をしてしまった、ということになります。


 せっかくの千載一遇の好機だったのに……、


 はい、好きです、ってどうして言えないのよっ!


 今すぐに襲い掛かかってもいいですかってどうして言えないのよっ!


 めちゃくちゃにしてやるってどうして攻められないのよっ!


 ……今ならまだ間に合う、訂正の一言を……。


「本当に?」


 そこに比呂巳の助け船が絶妙に差し出された。


 いい、弥恵こと私。ここで「いいえ、あなたのことが大好きです」って言うのよ。いいわね。せっかく比呂巳が飛んで火にいる夏の虫のように首をもたげて「本当に?」と言ってくれているのよ。無下にしちゃならないのよっ!


「違うに決まってるもんっ! もしそうだったとしたら、私、比呂巳に襲い掛かってるでしょっ! お風呂場に裸同士で、裸で、それに裸で二人っきりなんて、もし私が比呂巳のことそういう意味で好きだったら、とっくに比呂巳の貞操を奪っちゃってるものっ! 生きてお風呂場から出れないんだからっ!」


 なんでそんなに「裸裸裸」と怒っているの、と比呂巳は思う。雫は「本当?」と問い詰めてもここまで激昂したりはしなかったからだ。


 一方、弥恵の勝気な横顔に隠された心境は後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔。


 後悔が八方から押し寄せて来て八方塞の様相である。


 せっかくの二度目の千載一遇の好機だったのに……、


 バカやろう、このやろう、誰がバカだって? 私だよっ! 


 いいえ、あなたのことが大好きです、ってどうして言えないのよっ!


 今すぐに襲い掛かかって下さいってどうして言えないのよっ!


 めちゃくちゃにしてくださいってどうして懇願出来ないのよっ!


 ……もう間に合わない、……ならば最低限、現状維持である。


 しかし、比呂巳は切羽詰り、受けに回った弥恵の気持ちを汲んではくれなかった。


「……じゃあ、レズなの?」と恐る恐る比呂巳は聞いてきた。


「うわっ、直球、…………………………って違う」と唇を尖らして言う。


 その「うわっ、直球」とその長い間はなんなの、と比呂巳は思う。


 弥恵は下手な口笛を吹き始めた。「ふぃー、ふぃーふぃっふ」


 比呂巳はそれを横目に「う~ん」という大長考のすえ、以下のような結論を下した。


「私のことはそういう意味で好きじゃないんだけど、弥恵はレズなんでしょ?」


「違う。レズじゃない。百合。あっ、」と弥恵は条件反射的に答えてしまった。


 比呂巳はポカンとした顔で弥恵を見つめ、おもむろに胸元をタオルで隠した。


「しまった」と思っても、風呂の中で鳥肌を立てても、脂汗を額に感じてもしょうがない。


 もう比呂巳には弥恵が百合であることが知れてしまったのだ。


 付き合うんだったら知れていなければいけないことだけど、でも……。


「あー、もう面倒臭いっ!」


 弥恵は比呂巳の両の二の腕に掴みかかる。睨みかかる。息が荒い。


 そしてお凸をくっつける。


「や、弥恵?」と困惑を込めた比呂巳の視線が弥恵の網膜にしっかり、くっきり、はっきり届く。


 しかし、ごめん、されど、いろいろな神様、私の所業にどうか目を瞑っていてくださいっ!


 さて、神様にお伺いを立て、吹っ切れた弥恵はもう「あんなことやこんなこと」まで畳み掛ける気になった。


 面倒臭いっ! 面倒臭すぎて反吐が出るわっ!


 段階を経る恋愛? はあ、何それ?


 そんなの漫画と小説だけの小奇麗なお話よっ!


 眼前に裸体を晒した女子がいるのに喰い付かない女子がいますかっ!


「そうよ、私、女の子が好きなの。女の子とあんなことやこんなことしたいのっ! でもレズじゃないもんっ、百合だもんっ!」


「同じじゃんっ!」


「違うのっ! そういった偏見が大きな争いを生むのよっ! それは宗教にも言え、」


 そこで弥恵の唇は比呂巳の唇で塞がれた。黙らされてしまった。


 何? なんで?


 唐突過ぎる。いつだって比呂巳は唐突過ぎる。


 頭の中が真っ白になる。思わず眼を瞑ってしまう。比呂巳、上手すぎ……。


 弥恵の脳裏には、比呂巳とのファーストキスが過ぎった。比呂巳は忘れてしまっているかもしれないけれど、そのキスも唐突だった。


 比呂巳の柔らかい唇がそっと離れた。名残惜しい。それを目で追ってしまう。


 二人の視線が交錯する。真剣な眼差しの比呂巳。それが弥恵には居た堪れなかった。


 弥恵は「潜水艦」とかわいく呟くと、その空気から逃げるように頭をお湯に沈めた。


「何、それ?」と比呂巳がおかしそうに笑った。「ぷっは」とかわいく顔を出すと「ドイツ製」と弥恵は答えた。「何、それ?」


 答えたんじゃないもの。時間稼ぎだもの。


 弥恵の鼓動は潜水艦を装っても、ドイツ製に扮しても、一向に治まらない。それは比呂巳に向けられた怪訝な視線に表われている。一分前にディープキスをしたとは思えない、あっけらかんとした比呂巳の横顔に向けられた、その視線に。


 弥恵は待っていた。かわいく取り繕って、いつでも受け入れられるように。かわいく返事が出来るように。かわいくしていれば比呂巳はやってきてくれる、という思い込みが強く弥恵の心を覆っていた。


 けれど、比呂巳はなんの脈絡もなく「ごめんね」と照れた調子で謝るのだった。


「ごめんね。今まで気付かなくて。嫌だったよね。私今まで弥恵の彼女みたいにさ、いつも一緒にいてさ。もっと綺麗な人と弥恵は一緒にいたいんだよね」


「え?」


「もしも弥恵が私のこと好きで、それに私が気付かないから怒ってるんじゃないかなって一瞬思ったんだけど。弥恵、私とポッキーゲームしたがってたし。いざやるとなると緊張するし。でも、それは私の買い被りだったみたいね」


「ええ?」


 否定したいけれど、真っ白になって色を失ってしまった思考回路はなかなか言葉を紡ぎだしてくれない。なんていえばいいか分からない。


「もう上がろうか?」


 比呂巳は立ち上がり、浴槽から片足を出した。


 そして「あ、質問の答え」と弥恵を睥睨しながら言ってくれた。


「女の子同士の恋愛、私はあまり男とか女とか性別に拘らないから、やっぱり、その人によるんだと思う。好きになった人が女の子でも私はあんまり気にしないかな。逆に女の子が私を好きになってくれるんだったら、私もそれに誠心誠意答えたい、なんて思うかな。よく分かんないけど、でも……」


「でも?」


「もし弥恵が私のこと好きだって言ってくれたら、私も弥恵のことそういう意味で好きになったと思うな。……もう弥恵には振られちゃったけどね」


 比呂巳はカラカラとドアを開ける。その背中にやっと電気信号の通い始めた思考回路で弥恵は問いかけた。


「なんでキスしたのっ?」


「嫌だった?」


「そういうんじゃなくて、……いきなりだったから」と弥恵は自分で何を言っているんだろうと思った。そういうんじゃないってどういうことよって。臆病になる暇が合ったら、しっかり否定しろって。弥恵の言葉にはまるで根拠がない。自分でも分かってしまうほどに。


「嫌いな女のキスでも、怒りが静まればと思いまして」


 比呂巳の言葉には根拠があった。


 弥恵は無意識に、比呂巳のそういったところに圧倒されている。素敵なところだと思ってしまっている。比呂巳の言葉、動作、思考には一見、唐突で、軽率なところがある。けれどそれにはいつだって根拠があった。それを今実感している。


 なら、あのときの……キス……は?


 比呂巳はいつの間にか扉の向こう側にいる。


 だから安心して比呂巳の唇に触れた自分の唇に触れることが出来た。


 熱い……。


 確かに弥恵の刹那的な感情の高まりはそのキスによって静まったかもしれない。


 けれど比呂巳のキスは弥恵の告白のチャンスを奪って、その秘めたままにされた恋心を一層熱くしてしまった。


「嫌いなわけないじゃん。バカっ」と弥恵は小さく唸り、「マッコウクジラ」と呟いてお湯に頭を沈めた。「潮吹き。ぴゅー。あ、鼻血」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る