第二章⑨

「兄貴の活躍の出番はないかもしれないわね」と弥恵は言ったが、一向に比呂巳が弥恵襲い掛かる兆候は見られない。雫も雫で中性的な距離感で弥恵に接している。どうやら弥恵の苛立ちは極限にまで達しているらしい。ムラムラ、いいやわなわなと比呂巳に熱っぽい視線を露骨に浴びせ始めた。しかし比呂巳は弥恵の真鍮を溶かさんばかりの熱視線に全く気付く様子はなく、比呂巳は比呂巳で熱っぽい視線を純に向けていた。では純の視線は、というとせっせと料理を口に運ぶ雫に向けられていた。その意図はというと「何か、この状況を打破する手立てはないものか」というものであり、聡い雫はそれを察してまるで女の子のようなウインクを純に送る。途端、純の全身は鳥肌に襲われた。ウインクによる悪寒とは別に、なんだか嫌な予感がしたがここは雫に任せることにする。


雫は嬉しそうに手の平を合わせながらこう言った。


「ポッキーゲームやりません?」


 思わず純は飲んでいたお茶を吹いてしまった。俗世間に疎いはずの雫がまさかポッキーゲームを言い出すとは思わなかったのである。


「若い修行層たちが最近ポッキーゲームに夢中なんですの」


 純は若い修行僧たちがお御堂の中で夜な夜なポッキーゲームという遊びにふける模様を想像して、すぐにその想像を追い出した。あまり脳内で再生してニヤニヤ出来るものではない。いくら遊びがないからといってポッキーゲームはないだろうに。


「ポッキーはないわね」


「そうそう弥恵の言うとおり、ポッキーゲームはないだろう」


「プリッツならあるけど」


「え?」


純が高野山に思いをはせているうちに、弥恵は俄然乗り気でママさんのお菓子袋からプリッツを持ってきた。弥恵は新しい武器でも手に入れたように目を血走らせて、息を荒くしている。


「それだとプリッツゲームですわね。サラダ味とは新鮮ですわ」と雫は呑気に「ふふふ」と笑う。


「じゃあ、あみだくじを書かなくちゃね」と小細工する気満々な不適な笑みを浮かべて弥恵は言う。「もちろん小細工なんかしないわよ」


 しかし意気揚々といらなくなった紙を探しに出ようと席を立ちかけた弥恵に、


「お姉さまのお手を煩わせる必要はございませんわ」と雫は言うと、フリルのたくさん付いた、携帯ゲーム機ほどの小さいポーチから見慣れない棒状の仏具を取り出した。両の先端が尖っていて、武器のように見えなくもない。光沢はないが金色をしていて神秘的な力を秘めているような雰囲気がないでもない。悪霊退散のために常日頃持ち歩いているのだろうか?


「密教法具の独鈷杵です。高野山ではこれを使ってやっていますの」


「え、何? どっこいしょう?」


「どっこしょうですわ。ふざけないで下さいまし。殺しますわよ」


「……今さらっと酷い事言わなかった?」


 密教法具でポッキーゲームをやる方がふざけてるんじゃないのかな、という議論は置いておいて、雫によれば全員で輪を作って、中央で独鈷杵を二回倒して、倒れた方向にいた人同士でポッキーゲームを行うのだという。おそらく雫はポッキーゲームを利用して若い修行僧たちを毎晩頂戴しているのだろう。


「ポッキーゲームを始めてから毎晩大盛り上がりですのよ」


 と邪気なく笑っているが雫の恐ろしい本性を知っている純は全く笑えない。いくら品のいい言葉遣いでも、その仮面の下に潜む魔性の気配は純の首筋辺りにビンビンに感じられた。


 それは兎も角、鼻息の荒い弥恵は速攻でテーブルの上を綺麗さっぱり片付けると、プリッツの封を切り、中身を全てグラスの中に入れた。それっぽい雰囲気を出すためか、弥恵は蛍光灯の明度を一つ暗くして「準備完了っ!」とプリッツをすでに咥えて恍惚の表情を浮かべている。


「お姉さま、お行儀が悪いですわよ。最初から咥えているなんて。それではポッキーゲームをやる意味がございませんわ」


 そう言う雫からはポッキーゲームの全てを知り尽くした者だけが纏うことの出来る、煩悩に元素とする煙たいオーラがにじみ出ていた。それをひしひしと感じ取った弥恵は「ごめんなさい」としぶしぶプリッツをグラスに戻した。「咥えたなら食べればいいのに」と思ったのはどうやら純だけのようであった。


「ではさっそく」


 と雫は独鈷杵をテーブルの中心に立てると先っぽを人差し指一本で軽く支えた。言わずもがな、これは出来レースなのだが雫の所作は妙な緊張感をテーブル上に演出していた。


「いきますわよ」と神妙な声音を搾り出す。


 そこで純は雫に「分かっているだろうが、弥恵と比呂巳だからな」と目配せをする。雫は「分かっていますわ」の視線を送った。


 純、弥恵、比呂巳の視線が雫の細い指先に集中する。弥恵に至っては五指を組んで、口元が「お願いします、お願いします」とせわしく動いている。


 その緊張感の中で雫は責任重大と小さく息を吐く。「せーのっ!」


 そして…………。


「ポッキーゲーム、ポッキーゲーム、ポッキーポッキーゲーム」と雫はいきなり某ランドのねずみのマーチの節で歌い始めた。


 純、弥恵、比呂巳の三人は仲良く「だあああああっ」とテーブルに突っ伏す。


どうやら「せーのっ!」というのは歌いだしの掛け声だったようである。一瞬で決着が付くと思っていた三人の緊張の糸は一瞬でちょちょ切れてしまった。揃いも揃ってテーブルにぶつけたお凸を擦っている。


「あれれ? 一緒に謡って下さいませんの?」とそれにしてもこの男の娘、ノリノリである。


「なんだよっ、それ!」


「あ、ポッキーではなくてプリッツでございましたね。ごめんご」と雫は拳を作って自分の頭をコツンとやる。その仕草がこなれているのが余計に純の感に触ったらしい。


「そういうことじゃねぇよ! なんだよっ、その緊張感を削ぐマーチはよっ! ここはランドじゃねぇんだよっ! 和歌山なんだよ。アドベンチャーワールドなめんじゃねえぞ! ねずみよりパンダの方が食物連鎖の上にいるんだよ。笹しか食べないけどねっ! ってバカっ!」


 純は乙女心に気を使いすぎたせいか、その突っ込みは無駄にハイテンションに仕上がっている。叫び終わって純は後悔した。俺はこんなキャラじゃない。


「それじゃ仕切り直して参りましょう」


 雫は純の戯言など意に介さず、見事にスルーした。


「ってシカトかよっ!」


元来がドSなのである。場は雫の独壇場であった。ゆえに可愛らしい妹たちに、兄をフォローするだけの精神的余裕はなかった。


「お姉さま方、プリッツゲームでお願いします。ではご唱和お願いいたします。せーのっ!」


「プリッツゲーム、プリッツゲーム、プリッツプリッツゲーム」


 と三人は雫の歌に合わせて手拍子、そしてプリッツゲームを連呼する。促音の位置が元ネタと違うのがいけないのか、なんだか言いにくくてむずがゆい。ポッキーのままでよかったなあと思う純であった。


 しかしすでにやけになっている純と違って、弥恵と比呂巳は大マジである。弥恵は比呂巳の唇を手に入れるために。比呂巳は純とプリッツゲームをやるんじゃないかと平静でいられない。雫が仕掛ける「ほいやっ」「そいやっ」のフェイントに二人は仲良く一喜一憂している。雫は心底楽しそうだ。


 そして四度目の「あいやっ」で独鈷杵は雫の人差し指から離れた。きちんと垂直のままで出来レースの影など見て取ることの出来ない、自然な「あいやっ」であった。


そして倒れた方向は……。


「比呂巳お姉さまですわ」


「へ? わ、私」


 独鈷杵の先端は比呂巳を指していた。ひとまず純は胸を撫で下ろす。雫を見やると、やはりウインクをした。さっきのお返しにと純はスルーする。今回は鳥肌も立てなかった。


 ともあれ雫はきちんと協力してくれるらしい。さすが男の娘。義理堅い。


 弥恵を見やると空手の試合で優勝したとき以来の男勝りのガッツポーズを人知れず拵えていた。「おいおい、それじゃ比呂巳に下心がばれちまうよ」と比呂巳に視線を向けると「まだ心の準備が……」とかなんとか恥ずかしがっている。弥恵の下心がばれる心配は一向になさそうである。良くも悪くも。


「さてさて比呂巳お姉さまのお相手は誰になるんでしょうか?」


 独鈷杵をマイク代わりに、いまいち盛り上がりに欠けるバラエティ番組の司会よろしく、雫は一オクターブ高い声音で場を沸かす。


「はーいっ! 私、私、私!」と若手芸人のようにしゃしゃり出る弥恵。その姿には昼間いそいそと準備に励んでいたときの面影はなく、「恥じらいなどくそくらえだっ!」と言わんばかりのはしゃぎ様である。媚薬は程よく弥恵を酔わしているようで、ほっぺたには朱色が浮かんでいる。そのハイテンションに素面の純は完璧に置いていかれてしまった。といっても追いかける気は毛頭ないが、しかし……。


「せーのっ!」と始められてしまってはやけになって歌うしかない、と純は思い至る。


 どうやら雫は盛り上がらない純を見かねて、独鈷杵に人のテンションを無理矢理高める厄介な術を掛けたようである。それに加え、持ち前の場に流されやすい性格の純は「プリッツゲーム、プリッツゲーム、プリッツプリッツゲーム」と「リズム感などくそくらえだっ!」と言わんばかりのはしゃぎ様で歌い始めた。


 それに呼応して弥恵はわしゃわしゃと垂直ジャンプを繰返す。どさくさに紛れて弥恵は比呂巳に抱き付くと一緒に垂直ジャンプを始めた。であるならどさくさに紛れて唇を奪っちゃえばいいという風に思われるかもしれないが、布越しの柔肌と唾液付の唇とでは雲泥の差がある。恥ずかしがり屋の弥恵の理性はその辺りを脳髄に叩き込んでいるらしく、本能のままに唇は唇に赴かないらしい。垂直ジャンプの間にも弥恵の唇は比呂巳のうなじ、小さな胸元に襲い掛かるが、決して「むちゅう」とはいかない。この面倒臭いところが弥恵の本質であるのかもしれないし、そうでないかもしれない。


 まあ、そんなことはこの鈍ちゃん騒ぎの中でどうでもいいことである。この宴に理性はおそらく雫の中にしか存在していない。純はへらへらと手を叩いて歌うばかりである。


 しかし、でも……雫のフェイントが「かなめもっ」と三十六回目に差し掛かろうとしたときである。


 純の理性はドアノブで静電気に襲われたようにちろちろっと点滅した。その点滅に純はっとなる。純の第六感がこの場にデンジャラスの匂いを嗅ぎつけたのだ。


 一体何の危機が俺の身に降りかかろうというのか?


 純は冷静に働き出した理性の片隅でせせこましく現在の状況を整理した。


 まず、現在、只今、高野家においてはポッキーゲーム、もといプリッツゲームの真っ最中である。


 次に、すでにプリッツを咥える一人に比呂巳が選定されている。


 そして、このゲームは純と雫の仕組んだ出来レースであり、雫は独鈷杵を弥恵の方に倒すことが決定されている。


 それから、すっきり、いいやすっかり忘れていたが、不幸のお守りが俺に不幸を呼んでくる。


 …………………………。


 このパターンは……まさか!?


 雫の独鈷杵が宇宙の物理法則を無視して俺の方に倒れてきて、俺と比呂巳がポッキーゲーム、もとい……ってそんな名称はどうでもいいっ! するはめになって、寸前で離すはずが宇宙の物理法則を無視して比呂巳と唇と俺の唇が「むちゅっちゅ」ってなって、弥恵がぶち切れて、死なない程度に殺されるパターンじゃないかっ! ぜってぇそうだよっ! マジ勘弁だしっ! 不幸のお守りとか超うぜぇしっ! って毒づいてる場合じゃねぇよっ!


 と不幸のお守りの弊害に気付いてきた純であったが、不幸が一介の男子高校生の力でどうにかこうにかできるものではないことには、残念ながら気付いていなかった。


「ストオオオオオオップ!」


 いきなりストップを掛けられて、驚かない男の娘はいないだろう。


「ひゃう」と三十七回目の「ハーマジェスティ」とフェイントを掛けようとしていた雫の人差し指は、雫の想いと裏腹に独鈷杵から離れてしまった。


「しまった」と思ってももう遅い。


 これは神聖なる儀式である。やり直しはきかないのだ。どうしてか出来レースはありであるらしい。その辺りは高野山の姫君こと、雫の機嫌次第である。


 独鈷杵は万有引力に逆らおうともせず、雫の機嫌を伺わずにコトリと従順に倒れてしまった。そこには出来レースなど存在しない。厳然たるペアが完成しているはずだ。


 純は倒れた独鈷杵に一瞥もせずに首を垂れ、「すまん、弥恵」と呟いた。


「…………」


 しかし弥恵から怒りの反応を窺うことが出来なかった。純が昨日今日で作り上げた弥恵ちゃんのお怒りゲージはゼロ地点に留まっている。


 これはどういうことでしょう? 過酸化窒素並みに怒りの沸点の低い弥恵様が怒りの牙を尾剥き出しにならないなんて……。


 純は顔を上げて独鈷杵を見た。


 それ見ろ。独鈷杵は俺の方を指しているじゃないか。


 ……けれど、弥恵、どうして……、どうしてそんなにとろけるチーズのようなとろんとした食べちゃいたくなるようなロリ顔をしているんだい?


 確かに純の言うようにとろけるチーズばりの緩い表情で弥恵は独鈷杵を眺めていた。けれどその表情には悲劇のかけらなど微塵も窺えなかった。むしろ歓喜に富み、唇は潤いに充ち、これから最愛の人にキスを仕掛けんばかりの至高の表情を創り出していた。


「弥恵お姉さまですわ」


 純は雫の声を聞いてやっと状況を理解した。確かに独鈷杵は純の方に先端を向けていた。けれどその先端はテーブルについていた方だ。雫の人差し指に触れられていた、もう一方の先端がさしている人物は純の対角線上に座っていた弥恵ということになる。


 弥恵はすっかり酔いが冷めたようになり、「ふうん、じゃあ、しよっか?」とすっかり「べ、別に好きでやってるわけじゃないんだから」の体裁を取り繕い始めた。


比呂巳は「あはっ」と笑って、


「何で緊張してんだよ?」と相手が弥恵だと決まってすっかり気の抜けた比呂巳は、弥恵の感情の機微を完全に見抜いていた。比呂巳はプリッツを咥えると「ほいっ」と目を瞑って手を後ろに組んだ。


「私が……攻め?」


「ひやなの?」


「ううん……願ったり叶ったりっ」と弥恵は差し出されたプリッツをかぷっと咥えた。


「それじゃあ、どうぞお好きなようにやっちゃってくださいまし」


 雫は一仕事終えたような満足げな表情でそういうと、純にウインクを送った。純はウインクを取って捨てると、ほっと安堵のため息を漏らす。どうやら純の第六感はものの見事に気のせいだったようである。完全な独り相撲を演じてしまったが、不幸が訪れなかったことに純は「どうやら運が向いてきたようだな」と見当はずれなことを思い、そして……、


「あ、ちょっと当っちゃった」


「は、恥ずかしい」


 滞りなく行われたポッキーゲームを目の前にして、結婚式でむせび泣く新婦のお父さんのように純は堪えきれずにむせび泣いた。「お兄さん」と雫が差し出したちょっと匂う台布巾を純は会釈をして受け取った。


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