第二章⑤

 しかしそこからがまたさらに大変だった。弥恵は自らのファッションセンスのなさを自覚したが、だからといってファッションセンスが一朝一夕に芽生えるはずもなく、服選びは難航を極めた。組み合わせの問題なのか、もはや熊野の神々が意地悪をしているとしか思えないほど、弥恵が襖を開いて純に見せるその姿には、常になんらかの違和感が付きまとっていたのである。口下手な純はそれを上手くその違和感を説明出来ないでいる。これではファッションショーをする意味がない。


「どれが一番よかった?」とおずおずしながら弥恵が聞くも純には判断できなかった。弥恵はもう既に自分の目を疑って久しい。


 仕方がないので弥恵と純はファッション雑誌片手に協力してコーディネートを考えようということになった。センスのなさに定評のある兄妹は何十回もの試行錯誤を重ね、やっと何とか人前に出せる程度のものを完成させた。少々露出が多いのが気に掛かるが弥恵に依存はなかった。もう何十回も着替えさせられた弥恵の性根は尽き果ててしまっていたのである。逆に純はファッションプロデューサー気分を味わいながらなんだかんだで結局は楽しんでいた。


 ふと純が時計を見ると約束の時間まであと十分と迫っている。


 とにかくやることは全部やった。後は比呂巳の登場を待つばかりである。


 弥恵はリビングに戻り、席に着くとお行儀悪く、頬杖ついて、瞳の焦点は定まらず、お箸をくるくると回し始めてアンニュイな表情を見せ始めた。お箸はその役を嫌ってか、なかなか弥恵の言うことをきいてくれないようで、もう何度目か、弥恵は床のフローリングに落ちたお箸を拾い上げている。


「少し落ち着いたらどうだ?」と、いつになく全身を強張らせている弥恵を見かねて声を掛ける。弥恵は兄と気心の知れた比呂巳に向かっては縦横無尽に本能の丈をぶつけてくるが、一旦外に出てしまえば、誰しもが悪戯をけしかけたくなる程の恥ずかしがり屋ロリ娘なのである。その内弁慶の性格が純の保護欲、支配欲その他諸々の煩悩に火をつけ、兄妹喧嘩に発展するというわけだ。この瞬間も純は弥恵に悪戯したくてうずうずしている。


 しかし、ここは我慢である。


 ピタッと弥恵がお箸を回す手を止めた。


「ねぇ、兄貴。もうすぐだから、一応、おさらいしとこうよ」


「ああ、そうだな」と言いながらも純は比呂巳の気持ちはもう確かめているからなあ、となんだかニタニタと余裕の表情である。それを見かねて弥恵は渾身の睨みを利かせ、どんっとテーブルを叩いた。「……」


 弥恵がここでおさらいと言っているのは、比呂巳を恋に陥れるために兄妹が考案したこれからけしかける企みについてである。企みといっては企みを日夜こしらえている秘密結社に失礼であろうからお遊びくらいに留めておこう。純と弥恵はどんなお遊びを比呂巳にけしかけるのか。それは、


「大丈夫、うまくやるよ。弥恵と比呂巳が部屋で二人っきりになったところを見計らって俺がブレーカーを落とす。弥恵はどさくさに紛れて比呂巳に抱きついて、そのまま愛の告白だ」というちんけな物だった。少々回りくどく、卑怯な感じがあることは否めない。


 この案、つまりブレーカーを落としていわゆる吊り橋効果を狙うというのは純の提案である。比呂巳は「面と向って告白なんて出来ないっ」と身を悶えて恥ずかしがるので、純は「なら暗くしたらいい」と進言した。『愛し愛され恋をする』を読み、百合の何たるかを知った純は出来ることなら、物語の中のカノとミヤのようにカーテンから漏れる光の中、お布団で添い寝しながら告白してもらいたかったが、まだ純真で初心な妹ゆえ、仕方ない。


「愛とか……いうなよ。は、恥ずかしいから……」


「お前の愛は本物だろ」


「だから、いうなって。は、恥ずかしいから……」


「安心しろ。うまくやるさ」と、純は親指を立て、ペロッと舌を出した。


「……その自信の根拠はどこにあるのさ?」


「俺の弥恵に対する愛の気持ちじゃいけないかい?」


 そうやって中身のまるでない台詞を連発するのだから、弥恵の兄に対する信仰心はポッキーのようにいとも容易く折れてしまう。袋を開ける前から既にもう粉々である。


「うう、もう信用できない。絶対失敗する。失敗してもう比呂巳と一緒にお風呂に入れなくなるぅ」


 弥恵は兄の頼りなさを改めて思い返して頭を抱えた。「ああ、ぜ、ぜったいぃ、ら、らめぇ!」


「……なんでそんなに悲観的になる?」


 そういう純はあからさまに不服そうである。そんなに頼りにならんのか、俺は。


「だって今までの兄貴を見てたらそうなるよッ!」


 ならば純の手助けなどかりなければいいのだが、恥ずかしがり屋の弥恵ちゃんである。放課後に体育館裏、はたまた早朝の屋上、もしくは昼休みの図書準備室に比呂巳を呼び出し、告白するなんて芸当が到底ひとりで出来ようはずがない。「信用できないっ!」


 弥恵にズバッと「お前なんて信用してねぇ」と言われ、純は少しばかり凹んでいたが、兄妹共々に凹んでいては上手くいくことも上手くいかないだろう。弥恵には黙っているが、純は既に比呂巳の気持ちを確かめ、相思相愛であるという妹たちの気持ちを分かっているのだ。強気にならないでどうする。あとは兄である俺が二人を後押しすればいい。簡単なことだ、と純はテーブルの下で拳を握り締めた。


「今回ばかりは信用してくれ。弥恵の一世一代の愛の告白を助けるんだ。へまなんてしない」


「兄貴……」


 兄貴の雰囲気がいつもと違い、それっぽさが滲み出ているのを弥恵も感じたようである。弥恵はおずおずと「……今日は頼りにしてあげる」と口にした。


「おう。まかせとけ。もう覚悟は出来てるんだろ?」


 弥恵は小さく頷いた。けれど不安であるのは変らないようだ。


「大丈夫だ。吊り橋効果は伊達じゃない」と純は励ます。


「そ、そうだな。なんてたって吊り橋効果だもんな」と、二人は微笑み合った。


 そんな兄妹の会話を後ろの方に聞きながら、チャベスは「吊り橋効果で出来たカップルって長続きしないんじゃなかったけ?」とどこで仕入れたか知れない雑学を人知れず思い出していた。


「吊り橋効果で比呂巳は弥恵のものだ。そうだろ?」


「うん」と弥恵は催眠術を掛けられた風に勢いよく頷いた。どうやら精霊の力と極度の緊張によって弥恵は催眠に掛かりやすい状態になってしまったようである。


「比呂巳は私もの」と弥恵は繰返す。そして、


「弥恵はあぁたぁしのものなんだからねッ!」


 弥恵はいきなりドカッと席を立ち、天井に向かって拳を振り上げた。突然ツンデレのような、ツンデレでないような台詞を吐いた弥恵に驚き純は椅子からどでっと落ちた。しかし落ちながらも津波のように脈打って揺れた露出の多い胸元を純は決して見逃しはしなかった。


 そしてトランス状態の弥恵は何の脈絡もなく、


「キ、キスの練習しなきゃ」


 とあわあわと慌てふためき始めた。「ど、どうしよ」と両手で口元を押さえながら、リップクリームを探すように辺りを見回し始めた。


 そこで弥恵のつぶらな瞳にロックオンされたのは純の潤う予定のない乾ききった唇であった。


「ろっく、おん」と弥恵は片目を閉じて、手で窓を作り、標的に狙いを絞る。


「え?」と弥恵が自分の唇を狙いに入れたことなど気付かずになにやら言行のおかしくなってしまった妹に戸惑うばかりである。


 弥恵は純を再び椅子に座らせると「私と比呂巳の身長は一緒くらいだから」と言って目線を純に合わせた。


「な、何を?」と声変わり前のような上ずった高い声で純は言う。「キスするのか? 俺と弥恵が?」


「すぐに終わるわ」と弥恵はなんとでもなさそうに目を瞑った。弥恵の潤った唇がゆっくりと近づいてくる。


 駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、唇と唇、まうすとうまうすは、らめぇ!


 純はふつふつと沸き上る煩悩を必死に抑え込む。


「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待てぇぇえぃ!」と純は唇の触れ合う寸前で弥恵の肩をつかんで顔から離す。


「何?」と弥恵は甘ったるい声を出す。


 純は呼吸荒く「キスなら母さんと経験済みだろ? 今更練習しなくたって」と何とか言うことが出来た。


 しかしトランス状態の弥恵は「でも」と艶かしく吐息を漏らした。


「比呂巳に上手ねって言われたいの。少しでも比呂巳をリードしていたいから」と弥恵は今夜比呂巳を攻める気満々であるらしい。そしてうるうるとした上目遣いで付け加える。


「どうしても、駄目……なの?」


「いいえ」


 即答だった。純はぎゅっと目蓋を瞑るといろんな文化圏を統治する神様、今までお世話になった諸先生、諸先輩方、ご来賓の皆様、会ったことのないご先祖様、そして父ちゃん、母ちゃんに全身全霊で平謝りをした。


 だって弥恵の方から迫ってくるんだもの。拒めるわけないじゃないのよ!


 心の中で白いハンカチを噛んでオカマ口調の言い訳をすると、純は「ではさっそく」といった風ににゅーっとタコのように唇を尖らせた。


 しかし、まさにそこで、


 ピンポーン


 と、チャイムが鳴った。


 比呂巳様がご到着のようである。


 はっとそこで弥恵は催眠から目覚めたようになり、硬直したまま唇を尖らせる純を椅子ごと押し倒して玄関口へと向った。


「まあ、こうなることは分かっていたさ」


 純は半泣きになりながらも、床にぶつけた後頭部を擦りながらお出迎えに向う。


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