第二章③
私は窓際に手を掛けて彼女が来るのをいまやおそしと待っていた。
この感情は一体何だろう。腹立たしくなったり、急に切なくなったり、理解が追いつかなくてもどかしい。私は爪を立てて首筋をかきむしった。
そうしなければ私の抑えきれない衝動で薄く汚れたガラスが砕けてしまうかもしれないから。
早く来てよ。早く私のところに来てよ。
私は涙を流した。理由の分からない涙のせいで余計に悲しくなって、私はまた首筋をかきむしる。
ふと、窓の外に彼女の姿が見えた。彼女は無邪気に私に手を振っている。彼女の笑顔に私はいつも救われてきた。涙なんて一瞬で乾いてしまう。
多分それは、今まで彼女に抱き続けて存在してきた分からない気持ちは、私の愛。
私は彼女を愛してる。
多分私は恋してる。
カノとミヤは幼馴染でいつでも一緒だった。
同じ中学を卒業し、同じ高校へ進学する。そうなるものとミヤは疑わなかった。カノもずっとミヤにそう言っていた。
しかしカノには夢があった。その夢のためにはミヤと離れ、別の所にいかなければならない。
ミヤは笑顔を作り、カノの夢を応援すると言った。
けれどミヤと離れることが決まってから、カノはあふれ出てくる理解不能な感情に苦しむことになる。
その感情を解釈できないまま、歳月は流れ、出立の日が間近に迫ったある日、ミヤからカノへ電話が掛かる。「一緒に昔のアルバムでも見ようよ」
次の日、カノとミヤはカノの部屋で一日中アルバムを捲って、二人の思い出を出会った日からゆっくりとなぞっていく。
カノの気持ちは次第に整理され、ミヤへの気持ちが愛であると理解した。
ミヤはカノの家に泊まり、次の日の朝、いつの間にかカノと同じベットに潜り込んでいたミヤが言う。
「多分私、カノに恋してる……かも……」
――かいつまむと、『愛し愛され恋をする』はそういう内容だった。
「……えっぐ、……えっぐ」
「これまた一体全体、どうしてしまったんだ、少年よ?」
純が家に帰るなり、リビングで冷房に浸かりながらとろけてしまいそうになっているチャベスに見せたのは幼稚園児もドン引きの豪い泣き顔であった。その涙腺の緩みようが半端ではなかったので、チャベスは驚きながらも尻尾を振って純に近づいていく。チャベスの声音は神妙であったが、いかんせん尻尾は正直である。
「……これ」
純は溜まった涙をワイシャツの袖で拭いながら、手に持っていた文庫本の表紙をチャベスに向けた。
「その本がなんなんだ?」
純は既にもうチャベスを人間と同じように接していたので当然字も読めると思い込んでいるらしい。しゃべることが出来るけれども一応生物学上は犬であり、ダックスフントなので本であると分かっても、題名からその中身を類推するなんて器用なことは出来やしない。チャベスはそのことについて朗々と文句を述べようとしたが、
「……感動した」と純はポツリと呟いた。
「……は?」
「チャベスッ! 俺は今、猛烈に感動しているッ!」
どうやら純はその本を読み、猛烈に感動したらしい。純はその本を胸に抱きしめて、背景を百合色に染めながら、どこか遠くのほうに視線を泳がせている。心なしかまた潤んできているようだ。
それを見てチャベスは条件反射的に「うわっ! きもっ」と口走る。
しかし純は意に介さずという風に、ひとり、敷居を跨ぎながら物語の余韻にひたひたに浸りきっている。
「ふん。言いたいだけ言えばいいさ。今の俺は愛犬の些細な罵声など汲みはしないよ。そんなものは右耳から左耳へすっと抜けていってしまうよ。僕はこの物語の素晴らしさを知ってしまった。瑠璃光寺の宝物で酒を煽ったような、贅沢にひたひたに浸りきった気分だよ」
聞けば、電車の中で数十ページ読んでしまっただけでこの有様だという。
『愛し愛され恋をする』、この物語がたった数十ページで幻想の世界へ連れて行ってくれるほどの破壊力を持っているのか、それとも純の感受性が健全な高校生ほどに設定されてないのかは分からないが、まあおそらくは後者であろう。起承転結の起の時点で泣かれてしまっては筆者の方も堪らない。余韻も何もあったものではないではないか。
だいたい、とチャベスは思う。人間は感動したらその物語のあらすじを話して聞かせるものじゃないのか。純は一向に「感動、感動」というだけで主人公の名前すら伝えようとしない。まあ、見てもいない映画の話をされるほどつまらないことがないように、チャベスはその物語の詳細などにいささかも興味関心はなかった。
「その余韻に浸っているところ悪いんだが、並木教員とは会えたのか?」
このまま放っておくと一生ふわふわしていそうなので、チャベスは話題を変えた。純ははたっと余韻から冷めると「ああ、そうだった」とチャベスを抱きかかえて、椅子に座る。
「その件なんだがな……」と純は一部始終の事情を話した。チャベスはさすがに旅に出てしまったことを聞いて少なからず驚いていたが、
「そうか、まあそのうち見つかるだろ」とあまり急いてはいないようである。
「随分、切迫感がないなあ」
純は先ほどと打って変わり、冷静に事態の把握に努めようとしながら、なんだか心配になる。
「もう片方のお守りを見つけた人間も同じように探してくれているかも知れない。お守りが離れてしまって起こる実害は所有者の不幸だけだ。どこぞの秘密結社がこの力を狙っているとも思えんしな。こんなちっぽけなお守りに込められた精霊の力なんて弥恵君の怒りに打ち勝てないほどに弱いんだ。それに世の中、私が持った力よりも何倍も強力なものがごろごろしているだろうし。その点紀州は神様がうようよとしている。私の力などそれに隠れて見向きもされんよ」とチャベスは自虐的に言いながらも、けろりとしてそう言った。
純も「そうだな」と頷きかけたところではっとする。
「不幸は俺に降りかかるんだろッ! 他人事だと思って」
「不幸といっても、タライが落ちてきたりとそんなことだろう」とチャベスは他人事のようにキャンキャン吠えている。
「そんなことでもめぐり合わせが悪すぎる。俺の不幸を楽しんでいるとしか思えないほどに絶妙だ」
昨日繰り広げられた熾烈な防衛戦思い出す。精霊の力によって見方によれば両想いになったようなこともないが、合いの手のように指し込めれる不幸によって、純の純真無垢の愛情はおそらく弥恵に届いていまい。
「それも含めてそれだけのことじゃないか」
純はなんだか釈然としないが、確かに「それだけのこと」といえばそれだけのことなのである。実害は弥恵の拳であったり、罵声であったりで許容範囲内でないこともない。
それに、と純はファーストキスを思い出して授業の内容が頭に入らない現役女子高生のように顔をポッとさせた。
「弥恵君の唇は柔らかかったろう? なあ?」
「うん」
絶妙な幸福も巡り巡ってくるらしいので、弥恵のキスを味わった頬を擦りながら純は頷いておいた。純の心はキス一つで迷走してしまえるほど繊細だった。
「……本当はもう相方に会いたくないんじゃないのか?」
そこで純がなんとなしにそう口にすると、はたっとチャベスの瞳が一の字型に細まる。
「どうした?」
「その件については……精霊は俺にないも言ってくれないようだ」
そのことはつまり図星ということだろう。他人の不幸に目聡い純はニタニタと笑い出し、
「訳ありのようだねえ。倦怠期だったんじゃないか……、だから牝牛のお守りの方はどこか遠くの方へ行ってしまった」との安い推理を人差し指を天井に向け、朗々と吟じ始めた。
精霊が喧嘩するとは思わない。が、何せ精霊と関わることが初めてである。猪口才にも人間レベルでの思索しか出来ないが、でもしかしお話に登場する神様はいつだって現代人より人間的である。
「相方探しを急いていないのは、出て行った女房に会うのを躊躇っているからだ」
「その辺は、少年、……プライベートなことだろうよ」
純はチャベスの体温がどんどん暖かくなっていくのを抱いていて感じた。チャベスの精神と精霊は混ざり合っていると言っていた。つまり精霊の動揺はチャベスの感情を左右するということだろう。純の単純な推理のような推測は大まか的を射ていたようである。
「ってそれよりも、」
純は携帯を取り出し、人差し指でボタンを押し始めた。人差し指なのに携帯を打つのが早い。傍から見ていて、ある種の苛立ちを撒き散らす、むずがゆい行為であるが、これも純の特技の一つである。
「誰に電話を掛けるんだ?」と、チャベス。
「比呂巳に」
「どうして?」
「打てる手は打っておかないと」
純はそういって満面の笑みをチャベスに向けた。チャベスは何か言いたげにしていたが、既に純は比呂巳の携帯にダイヤルしていた。
「もしもし?」
ワンコールで比呂巳は出た。さっき家に帰ってきたところらしい。まだ部活のテンションが冷めやらぬのか、声が大きい。まあ、元気で何よりである。
「今日のこと忘れてないよな?」
「パジャマパーティーのこと?」とポテチをかじる音が純の耳に入る。「忘れるもなにも家が隣同士なんだからパーティーもないでしょ。弥恵ったら急にどうしちゃったんだろうね。それよりもう行っていい? 帰ってきたら暇で暇でしょうがなくて」
「駄目だ」と純は強く断った。
まだ弥恵はパーティーの買出しに出掛けていて留守であるし、準備はこれから始める予定である。それにまだ弥恵との最終の打ち合わせも済んでいない。純の感受性は必要以上に研ぎ澄まされ妙案が七光しているところなのだ。ここで来られてしまっては計画が全ておじゃんになる。
「どうしてさ?」となんだかふてくされたように比呂巳は言った。
「ちゃんとおもてなししたいからな。比呂巳は舞踏会に招待されたお姫様の気分でいてくれ。きっかり六時にチャイムを押すように」
お姫さま、という言葉に機嫌をよくしたのか、「へへっ」と笑い、
「はーいはい、分かったよ」と比呂巳は続けた。根が非常に真っ直ぐな娘なので、約束を破ることはしないだろう。とりあえず一安心である。
「それと」
ここからが肝心である、と純は言葉に力を込めた。
「……ん?」となんだかいきなり真面目な口調で話し始めた純に比呂巳は少々戸惑い気味である。
「大事な話があるから」と純は恋人にプロポーズをけし掛ける様な口調で言った。
チャベスは純の腕の中で「一体何を考えているんだ?」と驚き顔で根拠のない自信で彩られた得意顔を凝視する。
純は何を考えているのか。それはそれは簡単なことである。純は『愛し愛され恋をする』にいとも容易く影響され、弥恵と比呂巳の恋を絶対に成就させようと勇み立ち、事前に比呂巳にも心の準備をさせておこうと思い立ったのである。「打てる手は打っておかねばならぬ」との純の思いは立派である。しかし、ここに至り純の本意を理解するためには源氏物語の「浮舟」並みの主語の不足を掻い潜る程の読解力が必要不可欠であった。
そのため、まるで純が比呂巳にプロポーズをけし掛ける風にも聞えてしまう。純の弥恵への気持ちは真っ直ぐであった。そうであるから比呂巳にも真っ直ぐに純の熱い気持ちが曲がりなりにもズッキューンと届いてしまったようである。
「えっ? な、何だよ。そんな……いきなり……さあ」
と困惑、動揺を含んだ比呂巳の声が携帯から漏れる。声のトーンが明らかに先ほどとは違う。快活さが消え、恥じらいで形容されるべき、理想的な尻すぼみ加減が比呂巳の口から発せられているのだ。
案の定、比呂巳は純の言葉を勘違いしてしまったようだ。
もちろん、年下の気持ちに対して鈍感に出来ている純は比呂巳が勘違いしてしまったことなど一切気付かない。
「そのときは話を聞いても笑わずにちゃんと答えて欲しいんだ」
「……う、うん」
トレンディードラマの真似事のような台詞が巧みに純の口から選ばれる。とても純に似合わない台詞であるが、幸か不幸か比呂巳の心の機微をがっちりと捉えてしまっているようである。頷く比呂巳の声音は冬の日、缶コーヒーから立ち上る湯気のように温かみに満ちている。外は夏真っ盛りだが。
そしてさらに誤解を深めかねない一言を純は付け加えた。
「出来ればな……その、いい返事をくれると嬉しいんだが……」
その一言で電話の向こう側から布が擦れたような雑音が聞えてくる。まるで電話の先の比呂巳が塩素で茶色に薄まった毛先を弄繰り回してから、中学校指定のジャージのファスナーを突っついて、そして枕に顔を埋めて悶えているような雑音である。
「比呂巳?」
少し無音状態が続いたので、純は不安になって声を掛けた。
「は、はいっ」
「どうした?」
「な、何でも……その、だ、だから今日、わざわざ?」
「もしかして、……比呂巳は気付いていてくれたのか?」
「う、うん。そ、そっかあ。……変だと思ったんだよ。いきなりパジャマパーティーだろ。や、弥恵のやつ、気の使いすぎだよな。ははっ」
比呂巳は動揺を隠すように取り繕うが、若干の中学一年生である。トレンディードラマの女優のように上手く演じるのには無理がある。その無理は、比呂巳は弥恵の気持ちをきちんと理解しているという風に純には理解されたようである。純は電話してよかったと少しほっとして胸をなでおろし、誰に見せるでもなく自慢のストレートヘアを掻き上げた。
「弥恵も少し不器用なところがあるからな。弥恵の気持ちっていうか、頑張りも汲んで欲しい」
と純はふっと笑いかける。チャベスはうげーっと舌を出した。
「じゃあな」と純は通話を切ろうとした。
しかし、
「ねぇ、兄貴」と比呂巳が呼び止めた。
その声音には、今決心をしましたというような小さな重みを純に感じさせた。
「ん?」
「……まだ、ちょっと整理がつかないっていうか、もうちょっと未来の話だと思ってから、まだドキドキが収まんないんだけど」
そういって、比呂巳は唾を飲み込んで、優しげにゆっくりと、
「……いい返事を期待してて。私もずっと同じ気持ちだったから」と言った。
どうやら比呂巳も弥恵のことをずっと好きでいてくれたようである、と純は理解し、『愛し愛され恋をする』の強壮作用も手伝って、思わずぶわっと涙ぐんでしまった。純は目元を押さえながら、
「……比呂巳、あ、ありがとうしゃいしゃいっす」
と涙ながらにお礼を述べた。最後の方はもう言葉になっていない。
「ううん。私も、その、嬉しい……弥恵にありがとうって言っといて。弥恵の気持ち、とっても嬉しいよって」
そして電話を切った。純の心の内は言い尽くすことの出来ない幸福感に満ちていた。
それと裏腹にチャベスは飼い主のために先ほどのやり取りから推測されるおそらく不幸の事態を回避すべく口を開きかけた。
「おい、しょうね、」
「たっだいまー」
しかし、そこで丁度弥恵が買い物から帰ってきた。
弥恵は大量に買い込んできた食材に引っ張られるようになりながらも、それらをどかっとテーブルに放り置くと、「さあ、頑張るぞいぞいっと」と少々半狂乱気味に拳を振り上げる。
そんな恋に一途な弥恵に顔をほころばせながら、純も拳を作り、「ぞいぞいっと」と呼応する。
純は比呂巳に電話したことを黙っておこうと思った。ハッピーエンドで終わる結末であるならば、サプライズは大いに歓迎されるはずだ。
一方チャベスは「運がないなあ」と憐憫の情を純に注ぐのだった。
弥恵と純は近年まれに見る兄妹仲を発揮し、手分けをして準備に勤しんでいた。工事の現場監督のように弥恵の口から純に指示が飛ぶ。罵声も飛ぶ。
一方チャベスはずっと純がひとりになるのを見計らいながら、「少年は聡明に過度の角の立つ勘違いをなされている」と伝えようとやきもきしていた。しかしこれもお守りの不幸かどうか、純に声を掛けようとするときになって弥恵はひょこひょこと純の側にやってきて、いつになく頼りにし、まあ奴隷のように扱い、野放しにはしてはおかないのであった。ということでまだ勘違いは続いたままである。純の自信に満ち溢れた表情と一仕事終えたような満足げな表情は見ていて非常に痛々しい。一応長年連れ添った中であるので、なんとか未然に悲劇を食い止めたいのだが……。しかし純はそんなチャベスのそわそわした様子に「おしっこか?」と問いかけるばかりである。そわそわしている人を見るとすぐに「おしっこ」に繋がるところが純の通常の反応であった。チャベスは首を横に振るとふてくされたようになって「もうどうでもいいか」と耳を垂らして事態を傍から見守ることに決めてしまった。諦めの早いのは飼い主譲りということだろうか。
そんな風に腰をどっしりと据えてしまったチャベスがいる一方で、ピアノコンクールの直前、舞台袖で小さく震える五歳児のように、体の芯からそわそわしているのは本日の主役の弥恵であった。
正月の大掃除よりも気合の入った掃除が済むと弥恵はたすきを掛けるように袖を捲くり、純白フリフリのエプロンを颯爽と身に付けると料理に取り掛かった。純はそのエプロン姿を何度も目にしているが、今日という日も弥恵を目の前に幼な妻を妄想して悦に浸っていた。弥恵はその視線に慣れっこであるが、妄想されて気持ちのよいはずはない。弥恵は純のバーコードのようになった瞳に目潰しを食らわせた。「さっさと準備してッ!」
純ははっと我に返り、小学校のときの家庭科の時間にミシンを三台資源ごみにして完成させたチェック柄のエプロンを探しに行った。しかし見当たらないので弥恵と同じ純白フリフリのエプロンを拝借し身に付ける。おそらくママさんのだろう。「よし」
「うっわぁ……」と、純のエプロン姿を見て弥恵は苦虫を噛み潰したような顔で実の兄を二度三度ちら見する。
「わ、悪いかよ。これしかねぇんだからしょうがないだろ」
そうはいいながらも純はリビングのスタンドミラーに自分の姿を映した。弥恵が向こうを向いたところで一回転してみる。「なかなか似合うじゃないか。なあ、チャベス」
「……」とチャベスは軽蔑の流し目を送ったことは言うまでもないだろう。
純は弥恵に言われるままに、何に使うか知れない緑色の粉と鶏ではないアフリカから密輸入してきたような巨大な卵と色彩豊かな調味料の混ざった液体を掻き混ぜたり、弥恵が裏山で掘ってきたという自然薯をすったりといいように酷使されていた。時折、慣れない作業に手をこまねく純の前に小皿が差し出され、弥恵に味見を頼まれる。弥恵の作った料理なので全て美味であることは全人類に知れ渡っている既知であり、有難いことこの上ないのだが、しかし、ここに来て弥恵の精神は期待と不安でどうにかなりそうな按配である。単純に「うまいっ!」と言っただけでは茹で立てのパスタを頭から掛けられそうなので、純は気の利いたコメントをそのつど用意した。しかしそのつどにパスタを茹でるために用意された沸騰済みの水道水をかけられた。「一体なんて言えば笑ってくれるんだ」と純は小さく唸った。一見すれば夫婦のように見えなくもないなんともうらやましい光景である。けれど魔法学校に通う少女が夜な夜なほれ薬を精魂掛けて作っているようなどす黒いオーラが弥恵の全身から滲み出ていて純は気安くそんな思索に励むことは出来なかった。
そんな風に繊細な純の神経が弥恵の機嫌に対して恐れ多さをぶるぶると感じている内に料理は一通り完成したようである。
「で、出来たわ」と、弥恵はほれ薬を完成させた魔法少女のように瞳をぎらぎらとさせて、感歎の息を大きく吐いた。まるで町内を一週全力疾走してきたように弥恵は疲れ来っている。「完璧……だわ」
バタッ。
「や、弥恵ッ!」
突然、膝から崩れるようにして弥恵が倒れた。慌てて純は駆け寄り、弥恵の顔を覗き込んだ。切りそろえられた黒髪の隙間から血の気の引いた真っ青な肌が覗く。「し、しっかりしろ」
その瞬間、どこからか降ってきたお玉がコンと純の脳天を叩いた。「痛い」
「だ、大丈夫よ。……あれを飲めば」と弥恵は腕を冷蔵庫の方へ持上げた。
弥恵があれといったら、あれしかない。あれを幼少のころからぐびぐびと飲んで弥恵はこんなにも立派に育ったのだ。純は弥恵の胸元を一度視界に入れると、冷蔵庫を開き、そこからあれを選んだ。
「ほら、牛乳だぞ」と純が弥恵の前に差し出したのはコップに注がれた脂肪分たっぷりの牛乳である。どうやら純の頭はお玉に叩かれた影響で一時的にお馬鹿になってしまったようである。
弥恵の目が点になり、そして猛獣のように喚いた。
「ちっがああああううううううわああいっ!」
弥恵は眉間にかわいらしく皺を寄せ、牛乳の入ったコップを純の手からひったくると純の頭にどぼどぼとかけた。弥恵はコップを純の手に握らせると、なんともなかったように立ち上がり、冷蔵庫の中からタウリンが高濃度で圧縮された中学生にはまだちょい早い飲み物を取り出した。
弥恵は腰に手を当てぐびぐびと一気に飲み干した。「ぷっはー」
「うぷっ」となんだか酔っ払ったようになっているのは気のせいだろうか。ひとまず弥恵は完全回復を成し遂げたようである。
うっすらと頬っぺたに丸くピンク色を浮かべながら恍惚の表情の弥恵を尻目に、純はヨーロッパの小公女のようにせっせとタオルで牛乳を拭っていた。水分をふき取り終えると、魔が差したように純はタオルの匂いを嗅いだ。「うっ、くせえ」
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