第一章⑩
「ごめんね。お兄ちゃん」
弥恵はしゅんとしていた。
しゅんでるという言葉はこういうときのために使うんだったっけ?
便宜上は関西地方に分類される和歌山県であるが、実際は紀州地方といったほうがいい程に生活様式その他諸々がザ・紀州であるために本場大阪の言葉遣いは良く分からない。
しかし曖昧さを由とする現在高校一年生の高野純である。
しゅんでる、しゅんでる、しゅんでると脳内で何回か繰返しているうちに、その意味は「かわいいロリっ娘がしゅんとする様子を表す動詞」ということになった。用例は以下のようになる。大阪人の方には申し訳ない。
「弥恵がそんなにしゅんでしまったらとお兄ちゃんもしゅんでしまうな」
「……」
純はかわいいロリっ娘ではないのだが、その辺曖昧さを由とする純である。全く抜かりはない。アクセントの位置すら前と後ろでバラバラで、全く統一感がない。
まあ細緻な議論は言語学で生計を立てている人間に任せるとして。
潤んだ弥恵の瞳に映った純の顔にはカーゼがモザイク壁画のようにペタペタと敷き詰められていた。カーゼの奥からは茄子漬のようなきれいな群青色が覗いている。見るものが見れば恣意的に生み出されたその前衛的な造形美に感慨を抱くかもしれない。
純の顔がこんな風に美しさか醜さのどちらかを極端に演出している要因は、ずばり怒り狂った昇り竜のような弥恵の拳なわけだが、当の本人は純によればしゅんでしまっている。弥恵はサナトリウム文学に出てくるヒロインのように青白い、自身の手の甲をゆっくりと擦っていた。だからといって弥恵の拳は傷ついていることもなく、去年まで道場で巻き藁を叩いていたこともあり、もう五、六時間は純をぼこぼこに出来そうなくらいの耐久性を人知れず誇っていた。
その耐久性を試すことなく済んだのは純と弥恵を生んだ実の人、弥恵に良く似たロリ顔と巨乳の持ち主であるママさんのお陰であった。ママさんが仕事から帰ってきたのは丁度向こう両隣まで弥恵の金切り声が轟いた頃合。通常シフトで週四回は繰り広げられる兄妹喧嘩には散々慣れていたママさんだったが、今晩の弥恵の金切り声には心底驚いたようである。驚きすぎて新入社員の可愛い女の子が絶賛残業中の仕事場に引き返し、「飲みに行こう」と誘おうかなと思案したほどである。しかし、そこは二児のママさん。その根性の座り方には昨今の日本人力士が見習うべきものがある。
ママさんはたすきを掛けるようにブラウスの袖をぐっと持上げ、二階へと通ずる階段の前に立った。二階からは泣きじゃくりながら平謝りしている純の声と悪魔に取り付かれたような、信じたくはないが実の娘の罵声がくっきりはっきり聞こえる。
「弥恵、それ以上は駄目……。それ以上は遺産相続のときにまで残ってしまう遺恨を生むわ」
ママさんはそう呟くと一気に階段を駆け上った。純と比べ物にならない程の忍者走りである。いや、正しくはくノ一走りというべきか。さすが雑賀衆の末裔と噂されることだけはある。
ママさんは弥恵の部屋に転がりながら華麗に飛び込んだ。
「おやめなさいっ……ってあれ?」
しかし兄妹の抗争が繰り広げられているのは純の部屋であった。
「ちぃいっ! ぬかった」
ママさんも弥恵が純の部屋に入りたがらないことを知っていた。だから真っ先に兄妹喧嘩の多発地帯である弥恵の部屋に飛び込んだのである。ママさんは己の俗世に歪み、衰えた野生の感を悔やみ、唇を噛んだ。
ママさんは純の部屋に向かう。純の部屋のドアノブを引っ張る。
「あ、開かない」
なんと純の部屋には鍵が掛けられていた。
と、そこで嫌な妄想がママさんの脳裏を過ぎった。
まさか、純が弥恵を部屋に無理やり連れ込んで……。
「SMプレイを……」
日常の兄妹喧嘩が一見するとSMプレイのようなのでママさんの脳裏には「おーほっほっほ」と言いながら鞭を振りかざす女王様の弥恵と縄で縛られ恍惚の表情を浮かべる純の姿が容易に想像できた。
「あ、開けなさいっ! 純ッ! 弥恵ッ! 何してるのッ!」
ママさんはドンドンとドアを叩くが一向に開く気配がない。弥恵の罵声は次第に大きくなっている。ドアの向こう側ではプレイ(?)が更にエスカレートしているようだ。
「ああん。ら、らめぇ」
純の喘ぎ声が漏れる。
「声上げんじゃねぇ。このクソ野郎ッ!」
弥恵の罵声がすかさず飛んで、純の喘ぎ声すら黙らせる。
ママさんは絶句した。
……なんてこと……惚れ惚れするほどの女王っぷりじゃないッ!
ママさんは思わずひたっとドアに耳を当て雑音の多いAMラジオを聞き取るみたいに、真剣に弥恵の罵声を耳で拾い始める。
ママさんは娘の罵声を聞きながら自分の人差し指を甘噛むと恍惚の表情を浮かべた。ママさんは地震計のように山あり谷ありの激しい紆余曲折を経て現在ドM真っ盛りであった。
「……仕方ないわね」
このままでは純の命が危ないのだ。
べ、別に弥恵に罵ってもらいたいわけじゃないんだからねっ!
ママさんはドアから半歩離れ、助走を付け、
「どうりゃあああああああああああああああっ!」
ドアを蹴破った。
「弥恵ッ! 罵るなら私を罵りなさいッ」
思わず本心が出てしまった。
「っじゃなくて、」
二人の子供の手前これは恥ずかしい。ママさんはその場で一回転、仕切り直しである。
「二人とも、もう止めなさいッ!」
ママさんの目の前では想像通り過酷なSMプレイが繰り広げられていた。予想外だったのは弥恵がズボンをはかずに純白のパンツをばっちりお披露目しながら、マウントポジションでぼこぼこにしていたということだ。
「まあ、弥恵も乗り気じゃないの」
娘の成長にママさんは頬をぽっとさせ、思わず悦に入ってしまった。
純はママさんに気付き、無人島から石油タンカーにSOSのサインを送るようにヘルプの視線を目一杯瞬かせる。
一方弥恵は怒りに心身ともに乗っ取られてしまっているためにドアを蹴破ったのにもかかわらず、一向にママさんに気付かないでいる。
「仕方ないわね」
ママさんはコキコキと肩を回し、ぐっと伸びをした
「弥恵ッ!」
ママさんは弥恵の頬をがしっと掴むとぐいっと顔を引き寄せる。そして間髪いれず、ママさんは唇で罵声を次々と作り出す弥恵の唇を塞いだ。
「むちゅう」
ママさんの両手は弥恵の首筋をつたい、腰に回り、弥恵はがっちりとロックされてしまった。
「んーんーんー」
弥恵はジタバタとママさんの腕の中で暴れていたがママさんの舌が弥恵の中に入っていくにつれて、弥恵は気持ちよさそうに瞳を閉じて、ブレーカーが落ちたように完全に沈黙した。
純は隙をついて母と娘の濃厚なキスシーンをなるべく視界に入れないようにしながらせこせこと脱出した。実の母と実の妹のキスシーンほど実の兄にとって眼の毒になるようなものはない。
「ママ?」
弥恵の唇とママさんの唇が糸を引きながらそっと離れ、弥恵が甘えた声でママさんを呼んだ。
「どう落ち着いた?」
ママさんはあっけらかんとしている。ママさんの包容力は遺憾なく発揮され、
「ふぅん」
と弥恵は力なくこっくりと頷いた。
「よし。弥恵はいい子だぞ」
ママさんは弥恵と額を合わせて笑いかけた。弥恵もつられて笑った。
「……ねぇえ?」
「何?」
「もっと……ダメ?」
「もう、弥恵は甘えんぼさんなんだから」
こんどは弥恵の唇がママさんの唇を塞いだ。
純は母と娘の仲むつまじいワンシーンを出来るだけ邪魔しないように怪我の治療のため階下に降りた。
以上のような純にとってはなんとも後味の悪い寸劇がなかったとかあったとかで、現在、弥恵と純は向かい合って座っていた。
純は思う。
今日という日、何度話の腰が折られたであろうか。
兄妹の幸せのためには上下関係、SMの区別なく、対等に話が進められるべきである。
ということで急遽部屋を移動することになった。純と弥恵に遺伝子を分け与えた実のパパさんの書斎である。
書斎にはどこぞの探偵事務所のように中央に灰皿の置かれた長方形のテーブルを挟んで、二つのソファーが設置されている。これによって女王と名のない平民の身分の差を埋めることが出来るだろうとのママさんの考えである。
女王と名のない平民の代表こと弥恵と純はそれに浅く腰をかけるようにして長年連れ添った熟年夫婦が離婚届を目の前に塞ぎ込むように向き合っていた。チャベスは弥恵の膝の上にもれなくついて来ている。
そして前例を無視して横暴に振舞う裁判官のようなニタニタとした表情で、ママさんが机に深く座っていた。
ママさんの手にしたグラスの中でコロンと氷が音を立てた。注がれているのはパックから取った安いウーロン茶であるが大正モダ二ズムを意識した静謐を気取った書斎のお陰か、本棚に飾られたウイスキーの中身と見間違えないこともない。だから純はママさんが酔っ払って頬を紅くしていると思っていた。しかし、ママさんが頬を昂揚させている理由は娘と息子のどろどろとした恋愛活劇に対してだった。そしてママさんは少女マンガを読む小学生のように瞳をわくわくと輝かせていた。
しかし闘争の理由がたかが純白のパンツ一枚の出来事だと知ると、ママさんは一気に冷めてしまったようで、机に年齢に不相応なグラマーな両足を乗せてつまらなそうに「会社の女の子たち全員連れて豪遊したい気分だわ」と純を睨みながら文句を言った。
一方で純は顔面に全治一日とも一週間とでも解釈の可能な激痛を人知れず我慢しながら、弥恵の発した一言を考えていた。純白のパンツによって危うく記憶から失せてしまうところだったが、弥恵は勇気を振り絞って兄貴に一世一代の告白を行ったわけだ。
しかし、なんとも純の心の内は複雑すぎてニューロンがぶちぶちとショートしている。
取り合えず、驚いてみることから始めよう。話はそれからだ。
「な、なにぃっ! 比呂巳のことが好きだってぇえっ!」
お膳立てもなし、純がいきなり話を切り出したものだから、弥恵のこめかみには細い血管が十字型に浮かんだ。弥恵は純への敵意をママさんのキスによって一時的に沈められたが、精神バランスが不安定であることに変わりはないようだ。チャベスが危険を察知して弥恵の膝からふらりと降りた。
弥恵の手がすばやくテーブル上のウーロン茶が注がれたコップに伸び、パシャリと純の顔目掛けて液体が浴びせかけられた。
「こらっ! 弥恵、そういうことするのは上司にセクハラを受けたときまで取っておきなさい!」
ママさんにそういわれ、弥恵ははっと一瞬で片方の羽根を失ってしまった天使のような儚げな表情に戻った。
「お兄ちゃん、ごめんね。……やっぱり今日の私何だか変だわ」
弥恵は頭痛持ちの女子高生のように額を押さえる。
一方水を浴びた純は濡れた顔を拭かず、「気にしてないよ」という微笑を見せた。ポタポタと雫が垂れている。既に純は弥恵の暴力に対してかなりの免疫を身に付けつつあった。「気にしてないよ」の微笑も強がりではなく、本心から出ているようである。いつになく真面目な表情にウーロン茶が垂れている。
「弥恵ッ! 俺は真剣なんだッ! お兄ちゃんに正直に話してくれないか?」
純の他を圧巻する情熱に弥恵はドキッと心打たれたようである。
「……お兄ちゃん。う、うん」
弥恵はぐっと拳を握り締め、コホンと小さく息を吐いた。
「私、比呂巳のことがね」
どっくん、どっくんと純の心臓の音。
「大好き、キャッ」
純は真面目な顔面のまま、心の中でがっくりと項垂れた。やはり、恋愛対象は比呂巳であったのだ。そして百合本とどうでもいい第四話と純に向けられた尋常でない怒りを手がかりに考えてみよう。って、考えるまでもない。
弥恵は女の子が好きなのだ。
そう純の回転の遅い頭でも断定口調の確信が得られてしまった。しかし往生際が悪いのが純の良くも悪くも特性である。純はふっと涼しげな表情を作ると質問を矢継ぎ早に発した。
「比呂巳って女の子の比呂巳?」
「うん」
「比呂巳ってあの比呂巳か?」
「うん」
「比呂巳って隣に住む広瀬さんちの比呂巳か?」
「うん」
「比呂巳って弥恵と一緒の中学に通う比呂巳か?」
「うん」
「比呂巳って弥恵の幼馴染の比呂巳か?」
「もうッ! 比呂巳って言ったら比呂巳よッ! 兄貴ふざけてんのッ!」
純はテーブルの向こう側から飛んできたクッションを華麗に避けると最後に一番聞きたいことを聞いた。
「……それは親友という意味ではなくて?」
この質問で全てがはっきりする。そして希望が費える質問だ。
「違うのッ!」
と即座に否定の言葉が飛んできた。バシッとテーブルに弥恵の手の平が垂直に落下した。この場所でなかったら今頃純は意識を失っていたことだろう。
純はそんな食い気味に否定せんでもと思いながらも、
「ですよねー」と相槌を打ってしまった。どこぞの不動産屋か。
弥恵はどんどんテンションを上げながら、おそらく純への怒りの興奮と合い重なり、次々と比呂巳への抑えきれない愛情を語りだした。長らく秘めていた想いがここに来て一気に噴出したのだろう。
弥恵はひとしきり語りつくすと、
「私、もう手を握ったり、腕を組んだりするだけじゃ我慢できない」
弥恵はひしっと自分の体を抱きしめた。
「広呂巳とあんなことやこんなこともしたいのッ!」
まさか妹からそんな言葉が発っせられるとは。お兄ちゃんちょっぴり悲しいな。と思いながらもしっかり興奮している純であった。性の目覚めとは恐ろしい。
「って何で兄貴にこんなことまで話さなきゃいけないんだよッ!」
そう言いながら弥恵は悶えるように机の上に無造作に置かれた巨人の応援メガホンを手に取り、ポカポカと純の頭を叩いた。巨人製だけあって当ると痛い。テーブルという両者の安全を保証する境界線は既に運動会の後の校庭の白線のように空気である。
純はクッションを盾にして弥恵のとめどない攻撃から免れようとする。純はこのとき程クッションに感謝しようと思ったときはなかった。MはMでも痛いのは嫌なのである。このようなわがままなどっちつかずの一貫性のなさが純の特性である。天野が純を許せないのもこの当りに原因があるのかもしれない。まあ、そんなことはこの喧騒の中どうでもよろしいだろう。既に今はどっちの弥恵なのか見当がつかなくなっている。
「弥恵ッ!」
ママさんが止めに入る。今日三度目のキスである。
「ふうん」
途端に弥恵はとろんとした表情を浮かべて静まる。一体口内ではどんな作法が繰り広げられているのか。
「それにしても以外ね。弥恵がこのことを純に話すなんて」
どうやらママさんは弥恵が比呂巳のことを好きだということを知っていたらしい。そういえばママさんは純が話を切り出したときも驚いていなかった。
「……私が女の子好きなの兄貴にばれちゃったし……それにお兄ちゃんに比呂巳との中を取り持ってもらおうと思って」
「ええっ!」
「明日の夜、比呂巳をパジャマパーティーに招待してるの。兄貴じゃ頼りないけど、味方はいないよりいた方がいいし。……私、きっと、比呂巳を私のものにしてみせるわ」
「弥恵、よく言ったわ。それでこそ私の娘よ」
「ママッ!」
ハシッと親子は純を置き去りにしたまま抱き合った。
「もちろん協力してくれるわよね?」
「えっと……」
「とにかく協力してッ!」
「い、いや、でも……」
「お兄ちゃんはリベラルで同性愛にも理解があるんでしょッ!」
そういえば夕方ぐらいにそう口走った気がする。
弥恵の柔らかい手が純の手を掴んだ。
「お願いッ! お兄ちゃん。お兄ちゃんしか頼れる人がいないの」
うるうると弥恵の瞳が純を見つめる。潤んだ瞳が純を射すくめる。
これは……断れない……。
まあ、断ったところでぼこぼこにされるであろうし、弥恵との関係も悪化するに違いない。それに弥恵の恋愛対象は女の子である。見ず知らずの男子ならまだしも、相手は比呂巳である。思春期の少女によくある気の迷いであろう、なんて純は自身の思春期を棚に挙げ、弥恵の思春期を甘くみた。
「……よしッ! お兄ちゃんがんばっちゃうもんね」
「わーい。お兄ちゃん大好き」
チュッ。
純の頬に弥恵の唇が軽く触れられ純の理性は軽く吹っ飛んだ。途端、誰かとこの喜びを分かち合いたくなる。純はチャベスを抱きかかえ、「ありがとう」とそっと耳に囁いた。
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