第一章⑨

「……おえっ」


 水道水で口の中を濯ぎ続け、ざっと小一時間は経過していると思われるが、純の胸の辺りには不快感が刻み込まれてしまってどうしようもない。食道に入ってしまった中量の知覚過敏修復用薬用歯磨剤は重力に逆らうことなく、純の胃袋へと落ちていった。健康への害はないという誰から聞いたかすら覚えていない耳学問が唯一の救いであるが、この不快感の種類は健康云々の問題ではないような気がする。なにせ毎日の習慣で「かあーぺっ」と吐き出している類のものである。構造上少量ずつ出すことに特化した歯磨き用チューブで口の中を歯磨き粉でいっぱいにされ、吐き出すことも許されず、もれなくごっくんと純は飲み込んでしまったわけだ。「また一つ犯してはいけない禁忌を犯してしまったようであるなあ」と純はひとりごち、うなだれた。誰だって旧来の慣習を破るときは罪悪感がつきまとうものだ。


 純は胸を擦りながら蛇口を閉めた。そして大好物の並べられたテーブルを見渡した。喉の奥の方からシュミテクトの残り香が感じられ、とても食べる気になれない。純は地面に落ちたハンバーグを拾うと、生ゴミとして三角コーナーに放り込み、床の汚れを雑巾で拭いた。そして忌々しくてしょうがない用途不明のタライを持って庭の物置に向かい、「あばよ」といって放り込んだ。これでもうタライが落ちてくる心配は無いだろう。


 しかし、タライの心配など弥恵の機嫌に比べれば些細なことである。


 今日はもう弥恵に近づいちゃいけない。お互いに不幸になることが目に見えている。


 純はリビングの隅のバービーハウスのような犬小屋で呑気に寝息を立てているチャベスを無理やり小脇に抱え自分の部屋に向う。


 ガチャリ。


 純は後ろ手で最近部下の評判が上々であると噂されるパパさんの配慮によって設置されたシリンダー錠を閉めた。純はパパさんの配慮を無下にして現在まで鍵などかけたことはなかったのだが、さすがに疲労困憊の態であり、締め切りを中々守らない文豪よろしく錠を施したのである。ざぞかし鍵もビックリしているだろう。


 純は椅子に座り、机の上にチャベスを乗せ、顎をくすぐった。無論チャベスの顎である。今の純に妄想する元気は無かった。


 チャベスは純の手を煩わしそうに丸くなった。


「……眠い」


「起きろ。チャベス」


「……おふっ」


「オフ? オフってなんだよッ! もうスイッチ切れたから話しかけんなってことかよッ!」


「……んふふ」


「なんだよ、なんだよ! バカにすんなよ」


 純はチャベスを何と会議に参加させようと必死である。そこでの議題は当然「弥恵ちゃんの機嫌を直す方法について」である。純の比較的楽観的な悲観的な高邁な精神はたった一日で二度も吊るし上げられたため、中古車ディーラーに何年も売れ残ったままのアメ車のようにガタが来ていた。


 猫の手も借りたい。しゃべる犬ならなおさらである。


 純がチャベスを起そうと躍起になっていると、扉をノックする音が聞こえた。ママさんが帰ってきたのだろうか。純は何の用だろうと思い、ドアに向い、鍵を開けようとした。


「兄貴?」


 純の手がぴたっと止まる。


 ……なぜ弥恵が?


 ドアの向こう側から聞こえてきたのは紛れもなく弥恵の声だ。


 純が弥恵の部屋に本人がいるにもかかわらず、不法侵入することは幾度と無く繰り返された愚行であるが、ここ一年の記憶をたどっても弥恵が純の部屋に自分から訪れたことはなかった。まるで岩戸隠れした東洋の神様がヨーロッパへ歴訪の旅に出かけてしまったような椿事ではないか。


 しかし、椿事だからといって携帯を初めて買ってもらった小学生のようにむざむざと両手を広げて喜んで入られなかった。何せ吊られてシュミテクトだ。弥恵の怒りがひとっ風呂浴びたぐらいで治まっているはずは無いだろう。弥恵は扉の向こうで「兄貴?」と言った。声音から察するにそれほど怒ってはいないように思えるが、性善説で塗り固められた確信などいらぬ。


 純は扉を開ける決心を性悪説で塗り固めた。


しかし、弥恵をどうお持て成ししたらいい。出来れば座布団が欲しい。弥恵殿を上座に迎えるためである。それで少しでも機嫌を直して頂きたい。が、そんなお尻に優しいものが純の部屋にあろうはずがない。


 そんな風に純の思考があたふたと逡巡しているうちに、またドアがノックされた。


「ねぇ、寝てるの?」


 さっきよりも声音が少しだけ強くなった気がする。しかも語尾の方が。最悪の事態は免れたい。最悪の事態とは何だ? ドアを蹴破られて吊るされることさ。


 ええい、ままよ。


 純は鍵を開け、息せき切ってドアを開けた。


まるでトラが涎を垂らしているのを目の前に、檻の扉を開けたような気分だぜ。


純の脳裏には腰の両側に拳をあてて、居丈高に睨みつける妹の姿があった。そして脳内では既に「きもい」「変態」「エロイ」といった耳になじんだロリ声の罵声が高音質で再生中である。


が、しかし、またしても純の杞憂だったようである。


ドアの前では拍子抜けするほどのあっけらかんとした表情で弥恵がロリっぽくちょこんと立っていた。


「もうっ、起きてるんだったら早く開けてよね」


 弥恵は風呂上りにふさわしく濡れた髪に火照った頬を携えていた。バスタオルを肩に掛け、外では着れないようなパステル調のもっこもことしたタオル地のパジャマを着ていた。


純は瞬時に「弥恵ちゃんの私服」という独自のデータベースにこのパジャマを検索にかけた。間髪いれずに赤字でゼロ件と表示される。おそらく今日買ってきたものだろう。恐ろしく似合っている。タオル地特有のもこもこのおかげで胸は環太平洋造山帯のロッキー山脈並みに隆起し、親指を隠してしまうほどサイズの合っていない袖は弥恵の姿をエビングハウス錯視かけていた。要はロリで巨乳であれば見境がないのである。


「……ねぇ、入ってもいい?」


 風呂上りの上目遣いにそう言われてしまっては、姫を守る騎士のような使命感を持って部屋に招き入れるしかない。


「は、はい。お好きなように」と純の声は上ずっている。


 弥恵は何食わぬ顔でするすると純の部屋に入っていった。


どうやら吊られる心配はないようである。純は弥恵に悟られないようにそっと息を吐いた。


「チャベスここにいたんだ。少し心配しちゃった」


 弥恵はそういって先ほどまで純が座っていた椅子に腰掛け、チャベスの頭を撫でている。しかし一向に純の部屋を出て行く気配が無い。どうやら単にチャベスを探しに来たわけではないようである。


 それなら、一体何の用があって……。


 純は万年床の上に胡坐をかいてチャベスとじゃれる弥恵を見つめた。弥恵のかわいさを再認識する。まるで天使である。死んだように寝ていたチャベスがコロッと起きているというちょっとした苛立ちは弥恵のパジャマ姿、もとい天使の微笑みに免じて許してやろう。なにせタオル地だぜ、タオル地。


そして純は弥恵を見つめているうちになんだかふわふわと変な気分になってきた。眼前には純の部屋に弥恵がいるという事実がある。純はカラコムル山脈でユキヒョウに遭遇したような希少性にえもいわれぬ感慨を人知れず抱いていた。


断っておくが感慨だぞ。興奮を抱くなんてことは決してない。感慨だ。感慨。


そんな風に純は豆乳鍋のようなぬるい理性を堅固に維持すべく、誰に届けたいのか言い訳を繰返していた。


「あのね」


 弥恵はチャベスを胸元に抱くとやっと口を開いた。純にいらぬ妄想を掻き立てさせるほどに甘いロリボイスが部屋に響いた。


「は、はい」


 純は上ずった声を上げ、なぜだか正座で次の言葉に備えて待機する。


「あ、謝ろうと思って」


 弥恵は湿り気を残した前髪を触りながらそういった。


「ごめんね」


 その言葉で純の心に掛かった一個連隊で形成され飛行機雲が戦闘機ごと吹き飛んでしまった。


そして純のなけなしのお兄ちゃんパワーが水を得た恐竜の玩具のようにむくむくと膨らみ出し、ここぞとばかりに発動する。


「謝るって何をだい? 弥恵は俺に何かしたかい?」


「もう、言わせないで。……さっきのシュミテクトのことに決まってるでしょ」


 きゃっと恥らうように言った。


「ああ、そんなことか」


 お兄ちゃんパワーがフルスロットルで輪転中の純にはシュミテクト事件など「ああ、そんなことか」という言葉で片付けられる程度のことである。純は悩んでいた過去の自分のことなどささっと忘れ、自慢のストレートヘアをゆっくりとわざわざ両手を使って掻き揚げ、こう言った。


「全く気にしてないよっ」


 歯周病気味の歯茎を覗かせ、語尾にわざわざ促音を付けてまで余韻を残した。もし市原悦子がドアの隙間からみていたら途端に駄目だしを入れるところであるが、あいにく高野家には家政婦を雇う財産も必要性もなかった。


 しかし、普段であればそんな兄の安いオーデコロン並みの色香にやすやすと騙される弥恵ではないが、


「なんだか今日の私ちょっと変なんだぁ」


との自覚症状もあるようで、兄の雑な演技にころっと騙されしまう。弥恵はおでこに手の甲を乗せ、熱っぽい視線を純に向けた。変なのは無論精霊の力のせいである。


今日の弥恵は、「急にお兄ちゃんのことが恋しくなったり」と悩ましげな視線を弥恵は送ったりする。純は精霊の力を使ったことなどおくびにも出さず、普通に照れていた。


そしてその一方で、「急に兄貴を殺したくなるほど憎くなったり」と弥恵は拳を作って机を叩き、ぎろっと純の方を睨みつけたりする。ぞわっと純の背筋が凍りつく。


「本当にごめんね」


 弥恵は手を合わせて、舌をぺろっと出した。片目でウインクするのも忘れない。これで本人にロリの自覚がないのだから大したものである。


「それに、お兄ちゃんにお願いがあって。……ご飯食べながら話そうと思ったんだけど、」


 弥恵は恥ずかしそうに俯いて、


「こんなこと頼めるの、お兄ちゃんしかいないから」と続けた。


純は弥恵を思わず抱きしめてしまいたくなる衝動に駆られた。


いつもの純であれば部屋の中であろうが、家の外であろうが、渋谷のまるきゅう前だろうが躊躇いなく飛びついていたに違いない。しかし只今の高校一年生高野純はお兄ちゃんパワー発動中である。純は脳内で腹筋を始め、欲望に満ちたトゥルーハートを筋肉に変えた。まあ、腹部に力を入れて我慢したということだ。


ここで自然と純の人差し指が静かに顎に当てられた。そして薬を煎ずるようにゆっくりと人差し指が動き始める。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 純の脳内ではなんだかロミオとジュリエットのような雰囲気の中、二人は演劇部の倉庫から盗んできたようなところどころほつれた衣装を身にまとっていた。純の性格上ディティールには拘らないようである。


「これは、一体どうしたというのだろう。なんでも一人で出来てしまう弥恵が僕に頼み事だって? 今夜は雪でも降るんじゃなかろうか」


「もうお兄様ったら嫌だわ。弥恵を涼宮ハルヒか何かと勘違いしていらっしゃるんじゃありませんこと。弥恵は普通の中学生一年生です。私に出来ないことは世の中にたくさんありますわ」


「ははっ、そうムキになるな。しかし、弥恵がわざわざ頼むということは余程大変なことなんじゃないか?」


「いいえ、簡単なことですわ」


「……簡単なことなら、なぜ僕に頼むんだい?」


「お兄様。私がいくら頑張っても出来ないことがあるんです? 何だか分かりますか?」


「……降参だ。意地悪しないで教えてくれよ」


「それではお教えします。それは、」


「それは?」


「お兄様の心の中を知ることです」


「……弥恵?」


「お兄様は弥恵のことをどう思っているのです?」


 弥恵はスカートの裾を摘んでカツカツと純に歩み寄る。


「どうって……目の中に入れても痛くない大事な妹だよ」


 あからさまに困惑の表情を見せる純。


「……それだけ? お兄様は今までただの大事な妹としか見てくれていなかったんですね?」


「弥恵は大事な妹だ。それ以上に何があるんだい?」


「分かっているくせに……お兄様は罪作りな人よ。私のこのお兄様に向けられた愛を分かっているくせに……いつだって分かっていない振りをして私を苦しめるんだわ」


「や、弥恵ッ!」


「触らないでッ、お兄様なんて大嫌いだわ」


「ごめんよ。やっと目が覚めたよ。僕も自分の気持ちに正直になろう」


「……お兄様」


「弥恵、僕は君のことが好きだ」


「お兄様。私もお兄様のことが大好き。あっ……」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「兄貴? 顎から血ぃ出てるよ」


 弥恵のその一言でシャイクスピアも苦笑の全く捻りのないシナリオから現実に引き戻された。


純は慌てて「ムチュー」の形に変形した緩みきった唇を真一文字に戻し、こういった。


「照れるじゃないか」


 純は未だ妄想の中に片足に突っ込んでいるらしい。


「はあ? 何で兄貴が照れるの? 恥ずかしいのは私のほうでしょッ!」


「……スルーしてくれ」


 スルーするも何も弥恵には純が妄想をしているなんてことは分からないし、あまつさえ純が何を妄想していたのかなんて、純が口を割らない限り知れることはない。弥恵には純の一連の挙動が意味不明に移り、憎悪の方に気持ちが傾き始めた。


 しかし、なぜ弥恵が自分の方に恥ずかしがる権利があると主張するのか。妄想の世界にしばしばご優待されていた純には見当がつかない。が、たまらず口走ってしまった。


「……まさか今付けてないのか」


 純の視線が弥恵の胸元を集中攻撃し、鼻血がいとも容易く決壊した。純の手が弥恵の胸元に伸びる。


 ……まさか……タオル地の向こう側には。


 弥恵は顔を少し赤らめ、わなわなと胸元を隠しながら、


「喧嘩売ってんのッ!」


 そう言うが早いか、弥恵はすらりと伸びる長い足で純の顔面めがけて、回し蹴りを放った。最後の一瞬まで畳まれた右足は、一切余計な軌道を描くことなく正座で待機中の純の頬骨にまで達した。弥恵の右足の甲は少し赤く染まっていたが、弥恵は気にせずにまた椅子に座りなおした。弥恵は去年まで空手道場に出入りしていたのである。


 純はしばらく万年床の上で気持ちよさそうに伸びていたが、意識を取り戻すと何事もなかったように正座して弥恵に向き直った。


「で? 何の話だっけ?」


 段々と弥恵の家庭内暴力にも抗体が出来始めてきているようだ。


一方の弥恵も何事もなかったように話し始める。


「だから、見たでしょ……私が百合本読んで……」


 語尾がごにょごにょとしていて聞き取れないが、弥恵はどうも百合本を読んでいたところを秘密にしておいてほしいらしい。それならば砂浜から帰ったときに吊られた状態で約束させられた。純は妹との約束は必ず守る。部屋への不法侵入については「約束はしていない」との純の苦しい言い訳があるのでここではスルーしておく。


「誰にも言わないって、安心しろ。大船に乗った気持ちでいてくれ」


 歪んだポリシーを背に純は胸を張った。この決意を褒めてくれといわんばかりの張りようである。が、


「そんなの当たり前でしょッ! この際だから言っておくけど、私、兄貴の緩みきった口なんてこれっぽちも信用してないんだから。その自信に満ちた表情、腹立つのよッ!」


 弥恵は純の自信に満ち溢れたポリシーを一蹴した。とたんに純はしょぼくれ、指をくわえんばかりの慄き具合である。ロリボイスであったことが不幸中の幸いであった。


「って、そんなことはどうでもいいんだよっ!」


 なら言わないで欲しかったと思う純。


 弥恵は腕を組み、落ち込む純に構わずに話を続けた。


「……私」


 次第に弥恵の顔が深刻になっていく。深呼吸しているからだろうか。


 弥恵は堪らずといった感じに純の机の引き出しを開け、壊れたシャーペンを取り出しペン回しを始めた。手の方を見ずに高度な技を次々に披露する。シャーペンが弥恵の指の先で生きているようにするすると動いている。


 純の視線は自然とそちらに移る。いつの間にか近所のお兄ちゃん達のミニ四駆レースを見るように純は弥恵のペン回しに夢中になっていた。


「……実はね……」


 うん、うん。実話ね。


「……比呂巳のことが……」


 うん、うん。比呂巳の琴がどうしたって。


 純は繰り出される技ひとつひとつに見入り、観客のお手本のようにいちいち歓声と拍手を送っていた。


「……好き、なの……」


 ん? 今なんて言った? 好き? 誰を? まあ俺じゃないことが分かってる。


 純がはっとペン回しの熱狂から冷めると、弥恵が顔を真っ赤にさせて部屋から出ていこうとしていた。


 そうはさせるかッ!


 なぜ純がそう行動したのかは純にも分からない。ただ、ここで逃がしてしまっては互いに不幸になる、とかなんとか思ったわけである。


 純は立ち上がり弥恵の肩を捕まえようとした。


 しかし、純の膝から下は血流が滞り、中枢神経・末梢神経に障害が発生し、力が入らない、電気ウナギに絡みつかれているといったような異常事態に陥っていた。


 そのような異常事態で息せき切って人間を追いかけるとどうなるか。


 純が伸ばした手の平は壮大に弥恵の肩を空振りした。しかし、差し出された手の平は何かを捕まえずに入られない。それが宇宙の真理である。誰が純を責められようか。責めて差し支えないのは純白のおパンツ様を披露してくれた弥恵以外にいないだろう。


「いいやああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 例によって純はボコボコにされたということは言うまでもない。


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