第一章⑧

「お兄ちゃん」


 弥恵の純に向ける精神状態はやはり不安定なようで「お兄ちゃん」と呼びながら睫毛の長く、ロリ顔でも気の強そうなその瞳は相変わらずつりあがったままである。


 純は風呂から上がると通常の三倍は着替えに時間を使い、弥恵に顔を合わす決心を固めていた。弥恵の笑顔を独り占めにするという任務において、純の頭の中には戦略に類する必要不可欠な合理主義的思考は未だ成長して間もないという現状がある。何事もスロースターターな純は現状維持という言葉が大好きである。


 弥恵はおそらくまだ機嫌が悪いままだろう。とりあえず今日のうちは無理な行動を起さないようにしよう。何よりも地雷を踏まないようにすることが最重要事項である。


 地雷とはなんぞや。


 クソゲー?


 表紙だけエレガンスな人気アニメの同人誌?


 凄く……チェンジしたいです……?


 いいや、違う。本当の地雷はそんな生活の片隅に支障のきたすような生半可なものではない。


 地雷とは踏んでしまえば即起爆の恐ろしい対人兵器のことである。


 純は洗面台の鏡に向い、自分の美しく、太ましい眉毛に唾をなすりつけ、頬を叩いて気合を入れた。


 ……が、なんだか杞憂だったようである。


  弥恵はテーブルに並んだ夕食を前にして、相変わらずの仏頂面をしながらも、頬を乗せて肩肘を突いていても、「はあ」とくどいようだが兄の自慢のロリボイスで溜息を付きながらも、純の存在をぞんざいには、辛うじてだが扱っていないようである。


 夕食の献立は純の大好きなハンバーグと鳥のから揚げとエビフライである。純は心の中で小躍りして喜んだ。幼稚園児の好きな食べ物ランキングを上から順に選んだような非常に分かりやすい大好物である。


 弥恵はロリ顔に似合わず料理が上手い。といっても母に料理を習い始めた頃は、B級メイド喫茶のドジっ娘メイド並みの失敗を繰返した。ゆで卵を圧力鍋で爆発させたり、包丁で指を切って五指全てに防水の絆創膏を巻いたり、クリームシチューに入れるはずだった牛乳を具が煮込まれた鍋を目の前に飲み干してしまうなどの数々の微笑ましい伝説を残していた。そんなときに純が「ああん、申し訳ございません、ご主人様って言って」と弥恵に頼むと、「ぐすん」「うわん」と泣いてしまい、運動会ですら子煩悩を披露しない親父が純の頬を張ったことはとても家庭内暴力とは言えないだろう。


 しかし兄の前ではSっけを気取るいたいけな妹はそんな縦横無尽にドジっ娘を演じる自分が許せなかったようで、母の放任主義的スパルタ教育の元でひたむきに努力し、純がぼけっーと、ニヤニヤとその姿を見ているうちに、母から免許皆伝を授かった。何の裏づけもない、放任主義的な免許皆伝であったが弥恵は初めて自信に満ちた表情をそのときに見せたのである。


 小悪魔的な八重歯に俯きながらの上目遣い。


 舌が唇を濡らして、グロスを塗ったような光沢を生み出す。


 思えばその日に初めて弥恵に「きめぇんだよ」と言われたことを思い出して純は少し鬱になる。


 しかし、純の好物をこうも並べてくれるということは、妹の機嫌は既に直りつつあるのではないか。と、風呂から上がって冷静さを多少欠く、年がら年中、かに味噌が苦笑するほどの甘い脳みそは早くも楽観的希望的観測に全面同意しかけていた。


 いずれはプレイボーイを気取ることを前提に生きている純は、日頃から女の子の好意にはきちんと恐懼感激、恐悦至極の意を高々と表明することにしている。まあ機会があまり無いのが悔やまれるところだが。


 純は椅子に座りながら、


「うわー、すごい。俺の大好物ばかりじゃないか。弥恵は料理が上手だからな。弥恵の手料理を毎日のように食べることのできる俺は本当に幸せもんだよ」


 と、「どやっ!」と言い放つ。あまり褒められた台詞ではないが純の顔は些細な達成感で緩んでいた。


 噛まずに言えた。


 純は確信する。次の瞬間、弥恵は「はぁーん」と感激のあまりにかすれたロリボイスを発して、エビフライを食べさせてくれるはずだ。「あーん」って。「あーん」って。


「あーん」


 純は無意識のうちに口を阿呆のように半開きにして、そう口走る。


 しかし、弥恵の反応はポカンを通り越して、ヒマラヤの氷河の上に吹いては止まない強風のように冷たく、そっけない。つまり、無反応である。純は慌てて締りの悪い口を閉じた。心なしか少しだけ肩幅が狭くなったように見える。


 純はちらりと弥恵の方を窺う。精霊の力は未だ健在のようで「きもい」と怒鳴りつけてきたり、お玉が飛んできたりはしなかった。純は間一髪で地雷を踏み外したような気がして、ほっと胸を撫で下ろした。


「……お母さんが朝に作っておいてくれたのを暖めただけよ。私、今日は用事があったから」


「そ、そうだったな」


 純は努めて知ったかを装っているが弥恵のスケジュールなど全く把握していないし、聞いても教えてくれない。


 普段の純であればここで会話を終了させてしまう。予定を訊くたびに「うぜぇ」と言われるのが経験で知れていた。三十回ほど「うぜぇ」と言われて本当にうざいと思われてるんだなと純は悟ったものである。人間誰しも悟ってしまうと臆病になるものだ。鈍感をそのまま3Dにしたような純でさえ、その例外ではない。


 しかし、会話を途切れさせてはいけない。エロゲよろしく、純は弥恵を落とさなければいけないからだ。そしてその前提に純に向けられた怒りをまっさらのさらさらに消し去らなければいけない。そのヒントはきっと弥恵の中に隠れているはずだ。まずは弥恵からそのヒントを引き出さなければならない。しかし引き出してしまえば、こっちのもんだ。国語の先生が言っていた。答えは文章の中に必ずあります。


 しかし残念。純は現代文が数学よりも苦手だった。


 純は期末の現代文のテストの点数を顧みる余裕は無く、精霊の力を信じろ、と自分に言い聞かせる。精霊の力を信じる自分を信じろ、とそんなようなことをどっかの兄貴が言っていたことをお経のように繰返す。


 そしてゴクリと唾を飲み込み、勇気を振り絞り、口を開いた。


「……で、今日はどこへ出かけてたんだ?」


 まるで高校生の娘を持った父親が言うような台詞である。


 しかし、である。以外や以外、弥恵はかぁっと薄く頬を赤く染めた。


「えっ! ……ええと」


 よしっ!


 鈍感な純にはどうして弥恵が動揺しているのか分からない。が、心の中では上半身裸の兄貴と一緒にガッツポーズをしていた。


 そして弥恵はもじもじと上目遣いで純の方をちらちらと盗み見ながらこう言った。


「べ、別に。……お、お兄ちゃんにはか、関係なんてなくなんてな、ないんだからねッ!」


 精神バランスの不安定なツン娘こと高野弥恵は見事に主人公の一言に動揺して語尾を乱す、金髪ツインテール並みのツンデレっぷり披露した。しかももれなくお兄ちゃんのオプション付だ。


 危うく萌え死ぬところだったが、口を真一文字に結んで一筋の鼻血だけという最小限の被害に留めた。純にしてみれば充分及第点であろう。


 純は少し匂いのついた台布巾で鼻の下を華麗にさっと拭うと、ここで一気に攻勢に転じることにする。兄貴は純に向って親指を立てている。


 俺、男になるよ、兄貴ッ!


「関係ないことなんてことはないだろう。弥恵は俺の大事な……そうだ本当に大事な妹なんだよ。弥恵のことが心配なんだよ」


 最後の例えは良く分からないが、弥恵はぽっとなって「お兄ちゃん」と貴公子を見つめるような眼差しで呟いた。


「あ、あの……ね。……は、恥ずかしいぃし」


「恥ずかしがらないで言ってごらん」


 もう一押し。


 しかし、


「や、やっぱり、言えないよッ!」


 弥恵は頬を自分の掌で包み込んで、立ち上がった。ロリ顔にその仕草はよく似合う。


 か、かわええのう。


 って、いけないッ。せっかく針の穴のような光が差してきたところなんだ。このまま部屋に帰られてしまったら……。


 しかし部屋に帰るのかと思いきや、それも杞憂だったようで棚からドックフードを取り出して、皿に移していた。


「ほら、チャベス。ご飯だよ」


 チャベスは口元から「ハアハア」と息を漏らしながら弥恵に駆け寄ると、うらやましいことに「いい子、いい子」といわれて頭を撫でられている。その様子を見せ付けられ、純の中の何かが発火した。しゃべる前は全く抱くことのなかった愛犬に対しての嫉妬の炎である。


 純に握られた箸は少し歪んだ。折れないのは純の握力が不足しているためである。決して嫉妬の炎がガスバーナーを消す直前のようにふわっふわっしているわけではない。


 あの野郎。犬のくせに……。


 愛犬への怒りは弥恵がチャベスに向って笑いかけたところで頂点に達した。


 普段は動物愛護団体の行き過ぎた愛護にも寛容な純であるが弥恵が関るとなると話はコペルニクス的転回である。しかもチャベスは砂浜でまずい、まずいとひときわ酷評していた、ペットショップでひときわ安いドックフードを、尻尾を振って嬉しそうにがつがつと食べているではないか。


 チャベスはちらっと純の方を見た。純と目が合う。


 ニヤリ。


 純は確かに見た。チャベスはしゃべる能力とともに手に入れた、人間味のある豊かな表情を満遍なく行使して、純に笑いかけたのである。純は心の中で頭をひしっと抱えた。


 純はチャベスを睨みつける。


 長年連れ添った中である。視線を交わすだけで自然と互いの気持ちは通じてしまう。


(い、犬のくせにぃい)


(ああ、私は犬だよ。少年。これは犬の権利だ)


(さっさと弥恵からはなれろや)


(無理だな)


(ああ?)


(弥恵君が私のかわいさを求めているんだ。かわいいとは罪なことだ。正義でもあるがな)


 チャベスはキャンキャンと吠えて、純に尻を向けた。


 ぐぬぬ。


 純はメス犬を寝取られたオス犬のように恨みがましく喉を鳴らした。


 そういえば、と純は思い至った。弥恵の前で会話をしないようにとチャベスとは約束もしていない。しかし長年連れ添った中である。その辺抜かりない。見事に今までのようにかわいいダックスフントを演じてくれている。


 しかし、である。


 なんだ、あの犬のようなかわいがられ方は。「くうん、くうん」って、さっきまでいい声でタメ口だったろうが。


 純は生物の進化の歴史にいちゃもんをつけるかのような、なんとも理不尽な怒りを犬であるチャベスに向けた。しかしこの食卓において既に純は空気と化していた。弥恵は恥ずかしがってか、意図的にかは分からないが純に一瞥もしない。チャベスは意図して華麗にスルースキルを発動させて純の怒りに乗ってこない。弥恵に顎をくすぐられて、目を細めるほどに気持ちよさそうである。


 しょぼん。お兄ちゃん、寂しいな。


 純はやり場の無い怒りを食欲に向けた。やけになり大好物のハンバーグにまるごとがっついた。


 あれ? なんだか冷たい。


 どうやらレンジで暖める時間が短かったようである。ハンバーグの中心が少し凍りついている。


 とたん、純の歯は強烈な痛みに襲われた。そういえば知覚過敏である。


「いったーいッ」


 純はお世辞にも男らしくない叫び声を上げた。それとともに純の箸に刺さっていたハンバーグはすぽっと独り立ちし、きれいな放物線を描いて、純のカマ声に反応した弥恵の頭上にぽとりと落ちた。


 ハンバーグは肉汁と混ざったデミグラスソースを弥恵の黒髪にべったりと付けて床にベタンと辿り着いた。ハンバーグは空中旋回を体験し、宇宙旅行をして人生にやることがなくなったお金持ちの老人のように満足げでもあり、またもう食べないでくださいねという風にまずそうである。


 弥恵の精神バランスはここにおいて一気に憎悪に傾いた。


「……」


「ご、ごめんな。弥恵。ハンバーグの中が凍っていて。お兄ちゃん、知覚過敏で」


 弥恵は何も言わずに目元を暗くしたまま、スタスタとリビングを出ていった。そしてすぐに戻ってきた。純の目の前でスタッと止まる。


 見ると弥恵の手にはシュミテクトが握られている。


「あ、ありがとう。弥恵、お兄ちゃんこれからシュミテクトで歯をみがっ!?」


 弥恵のシュミテクトが握られていない方の手が純の襟元を掴み、純の無駄口が封じられる。


 や、弥恵しゃん?


 弥恵はそのまま純の襟元を掴み吊るし上げ、冷蔵庫を背に押しやった。不運にもその衝撃で冷蔵庫の上に不安定に積まれていたタライが純の頭に落下して、ドッチボールのダブルアウトさながらに弥恵のデミグラスソースのかかった頭にも落下した。


 ガコン、ガコン。


 しかし、なぜタライが冷蔵庫の上にあったのか?


 怒りの感情に支配されてしまった弥恵にはそれはどうでもいいことだった。


「……いたい」


 弥恵はポツリと呟いた。純は恐怖でがくがくと震え上がってタライどころではない。弥恵は純の喉元をさらにきつく押さえるとぐっと力を入れた。そしてシュミテクトの蓋を片手で開けた。蓋がスパンと純の足元に転がる。まるで拳銃の安全装置を外し、言うことを聞かない人質の足元に試し打ちをしたような安っぽいギャング映画のワンシーンをみているようである。


「……何か言うことは?」


 喉元の力が相対的に緩んだ。苦しいことには変わりない。けれど搾り出そうとすれば声は出せないことは無いくらいの絶妙な力加減である。


 優しい弥恵は純の弁解を聞いてくれるらしい。まあ、その後に殺されるのが安っぽいギャング映画のセオリーのはずだが。


「が、学校の先輩に百合本貸してもらえるように頼んでみるよッ!」


 わなわなと弥恵の肩が震えている。伏せられた顔がきっと純の世の中を舐めきった緩んだ顔を睨みつけた。


 こうも見事に地雷を踏める人間も数少ないだろう。


 弥恵は純の喉元を締め上げる。


「こ、この糞兄貴ぃいいいいいいいいいッ!」


 弥恵の激昂とともに、純の口の中にシュミテクトという多くの日本人から絶大な支持を受ける、知覚過敏に特化した歯科学界の結晶が吹き割れの滝のように勢いよく流し込まれた。


 純は必死にもがき抵抗の意志を見せたが、怒りに満ちた弥恵の前になすすべなく、慣れないシュミテクトの味によって昏迷に陥った。純は普段はガム・デンタルペーストを使っている。純はなんと歯周病にも悩まされていたのだった。


 弥恵は純の口の中をシュミテクトで満たすと空になった容器を即死したように動かないでいる純の手に握らせ、髪を洗いにそそくさと風呂に向った。


 頃合を見計らって、非難していたチャベスが戻ってくる。そして冷蔵庫に持たれかかった純を第一発見した。


「……少年。自分で逝ってしまうことなんてないじゃないか」

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