第一章⑥

 純はいつものようにチャベスの背中を洗ってあげる。どうもしゃべるとなると勝手が違うようで犬と分かっていても変な気を使ってしまう。だから「かゆいところはないか?」と純は弟に問いかけるように聞いてしまった。


「たまには弥恵君の使っているシャンプーで洗ってくれないかな? 少年が使っているシャンプーは研磨剤が入っていて毛によくないんだ」


「勝手に使うと怒るんだよ。それに弥恵君ってなんだよ。あいつのことはちゃんと名前で呼ぶのか?」


「彼女は人間が出来ている」


「まあ、それは否定しないが」


「つくづく君は妹に対して寛大というか、甘いというか。あんな仕打ちを受けてよく好きなままでいられる」


「当たり前だ。弥恵を嫌いになるはずは無い。弥恵の全部が好きなんだ。弥恵のありのままの姿を見て愛していられるのは俺ぐらいなもんさ」


 弥恵のヒステリーは純にしか行われていないことを純は知らなかった。チャベスは体を洗われている気持ち良さもあって、その辺りはスルーした。


「大した自信じゃないか」


「しかし、弥恵が一体どうして俺の純真な気持ちに振り向いてくれないのか、さらに謎が深まったよ。精霊の力は確かに働いていたんだろう?」


「その通りだ。精霊の力は確かに働いていた。そうでなければ君の胸に飛び込むなんて真似を弥恵君はしないだろうからな」とチャベスはキャンキャンと面白がっている。


 いつもの純であれば真っ先に否定してくるところである。しかし、反論すると思いきや、以外にも自覚症状があるようで、


「悔しいがその通りだ」と冷静に事の実情を受け止め、幸薄そうな下唇をかみ締めている。


「……しかし、どうして精霊の力が働いていたのにもかかわらず、弥恵はあんなにも怒ってたんだ?」


 純はチャベスの背にお湯をかけた。シャンプーを流し終わると、チャベスはふるふると震えて、水気を払い純に向き直った。


「まあ、弥恵君のヒステリーの程度を甘くみていた、という点は否めない。先ほどの弥恵君の行動を分析すると、少年に対しての憎悪と虚偽の愛情が十対十の割合で構成されていた。いくら精霊の力をもってしても弥恵君の少年への怒りに満ちた心を完全に少年への愛で埋めることが出来なかったようだなあ。あまり力を当てにするなよということだろう。まだ私も力を把握しきってはいないのだ」


 純はガックリと肩を落とす。あまり期待していなかったとはいえ、弥恵の怒りは精霊の力をも凌駕するほどに強いのかと。


「しかし少年は弥恵君との確執を免れることが出来たではないか。もしも精霊の力が働いていなければ兄妹の不幸な物語が始まっていたところだぞ」


「確かにこのまま口をきいてくれなくなるよりは大分マシだけれど」


「それに弥恵君に吊るし上げられていたとき君は心なしか恍惚な表情をしていたぞ。プラマイゼロ。ウィンウィンの関係だろ? なあ?」


 悲しいかな、ドSの弥恵に恐怖とともに興奮を覚えてしまったことは愛犬には黙っておく。しかしこう刺激が強すぎるのも困ったものである。光源氏が若紫を愛でるように純は弥恵を愛でたいのである。MにはMなりのいと限りなく歪んだ支配欲を持っているものなのである。出来れば純が欲しがるときにSっけを発してもらいたい。さっきのような生死レベルに関る激しいプレイは本来の目的から大きく外れる。といっても過激な弥恵が嫌いではないことを断っておこう。


「もう一度、精霊の力を使ってみてはくれないか」


 純は風呂につかると二の腕につかまるチャベスに向ってそういった。


「できん。精霊の力は二回までと言っただろう」


 チャベスは風呂が持つ人生観をひっくり返しかねない偉大な力によって一瞬で腑抜け面を作りながらも、浴室に響くいい声であっけなく拒絶した。


「そう言わずに頼む。俺は一度味わってしまったんだ。妹にお兄ちゃんと呼ばれたときのあの精神が一瞬のうちに昂揚し、この世の全てに感謝したくなったあの幸福感を」


「ヘロイン中毒者のようなことを言うじゃないか」


「中毒患者になるよりはとても健康的だろう。なあ頼む。この通りだ」


 純は合掌し、頭を下げた。


「まあ聞け。こればっかりは出来る、出来ないの問題じゃないんだ。一人の人間の精神に働きかける行為は一度っきりと誓約がある。それに精霊の力は半永久的に働き続けるんだ。力は一時的なものじゃない。例えば少年との関係が今までなかった人間に精霊の力を使えばずっと少年が望んだようになり続けるんだ。しかし、だ。弥恵君と少年の場合は事情が少々複雑になる。私が精霊の力を弥恵君に行使したとき、おそらく弥恵君は少年を包丁で刺しかねないほどの憎悪を抱いていたんだ。それこそ精霊の力で完全にコントロールできないほどの怒りだ。その怒りの中、無理やりに精霊の力によって生み出した少年への愛情によって弥恵君はまるで二重人格になったように、少年に向ける感情を両極に二つ持ってしまっているんだ。と、精霊が語りかけているような気がする」


「……それってなんだかやばくないか?」


「少年へ向ける感情の起伏が大きくなるだけだ。日常生活には差し障りないだろう。極端な話をすれば少年への愛情を心の奥底に秘めていても他人に強い愛情を抱きえるということだ。精霊の力を使う前と変わりない健全な状態だ」


「でも、俺に対してはずっとあんな感じなんだろ」


「そうではない。弥恵君の憎悪は少年がもたらした天然ものだ。だからその怒りを少年の力で愛情に変えてしまえばいいんだ。そうすれば弥恵君の精神バランスはひとつになって少年への愛は磐石になり、揺るがなくなるはずだ」


「簡単に言うなあ。弥恵のあの怒りをどうやって抑えろっていうんだよ」


「ちゃんと話を聴いていたか? 弥恵君には精霊の力が常時働いているんだ。それは少年に優しさを見せる隙があるということだよ。その隙をついて弥恵君との仲を睦まじくすればいい」


「なんだそれ? それなんてエロゲ」


「ゲームのように考えれば気が楽だろう」


「……俺、いつもバッドエンドなんだよな」


「……三次元でも駄目な奴は二次元でも駄目なんだな」


「うう……耳が痛い」


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