第一章④

 世の中誰しも家に帰るときは当然ように気を抜いて、「ふひー」と溜息なんかついて、なんとなしに玄関の扉を開けるに違いない。家は帰省の場であり、サプライズなど微塵も無い、期待しない、外界の汚れから袂を分かつ、いわば絶対平和領域である。


 しかし、現在高野家は誕生してこの方、揺らぐことのそうそうなかった絶対平和領域が崩壊しかねないという重大な局面を迎えていた。


 原因は些細な兄妹喧嘩。それ以上でもそれ以下でもない。いつだって、なんだって、壁だって崩壊するときは、些細なことがきっかけとなるのである。


 ということで純は玄関の前で小さく深呼吸した。隣で腹を掻いているチャベスに向って家路何回も問いかけた質問を純はまた問いかけた。


「本当に妹の機嫌が直ってるんだろうな?」


「安心しろ、少年。精霊の力は伊達じゃない。予言しよう。妹は君の両腕の中にすっぽりと納まるに違いない」


 チャベスは自信満々にそう言い放つ。


 しかし、純は妹が機嫌を直してくれたらいいなあとの小さな期待を持っていたが、携帯電話以上の利便性を精霊の力に見出せないでいるため、正直あまり期待はしていなかった。どちらかといえばどうやって妹と対面し、謝ろうかと元来のネガティブさを発揮し、マイナス思考に陥るばかりであった。せめてもの救い、味方としてしゃべることに定評のある愛犬チャベスを小脇に抱えて玄関の扉を開いた。


「ただい、ぎょ!」


 思わず「ぎょ!」としてしまった。玄関の扉を開けた純の目に飛び込んだのは、腰に手を当て仁王立ちをした弥恵の姿であったからだ。


 弥恵は木曾四天王の巴御前のように今にも大刀と強弓を振り回さんばかりの勇ましく、怒りに富んだ表情をズン、と純に見せつける。天守閣から和歌山の城下町を睥睨するお姫様のようにきれいに切り添えられた前髪の向こう側から、釣りあがった黒目が純を串刺しにするように威嚇していた。


 まあ、しかしその怒った顔もなんだかんだでロリ顔なのでかわいいのであるが、今にも純を釜風呂に放り込み、出汁にしかねないおぞましい弥恵の剣幕は彼女がロリであることを万人に忘れさせるほどの迫力を持っていた。


 まさかのお出迎え、これは予想だにしていなかった。部屋にこもっているか、リビングで項垂れているのかの、どっちかだと思っていたから。


 純は危うくチャベスを小脇から落としそうになる。落ちかけてはいた。


 チャベスは小脇から落ちないように純の服を引っつかみながら「あれ? おかしいな?」という風な怪訝そうな表情を純に向けた。純は「少しでも期待した俺がバカだったよっ!」という風なあわあわとした表情をチャベスに向けた。


 そんな一人と一匹に向って、


「……お帰り……お兄ちゃん」と弥恵の口からは地獄に落ちた罪人から教わったような、生々しい呻き声が漏れた。


 純はせっかく「お兄ちゃん」と呼ばれたのにもかかわらず、「ひぃ!」と小さく悲鳴を上げ、小脇に抱えたチャベスで顔を隠す。兄妹の喧騒に巻き込まれた方はたまったものではない。チャベスは精霊の力を使ったことなど忘れ、弥恵の怒りを一身で浴び、キャンキャンと喚いている。


 純は目をぎゅっと瞑って、弥恵から発せられる罵声と暴力に備えた。純の口からは、お経を唱えるように「ごめんなさいごめんなさい」が次から次へと零れ落ちる。


 しかし、弥恵の罵声と暴力はなかなか純を襲わなかった。


 純は「おかしいな」と思って、チャベスの位置をゆっくりと顔から胸へと変える。


 と、純の目に飛び込んだのは愛しの妹、弥恵ちゃんが涙を瞳に溜めているなんともいたいけな姿であった。


 純は「まさか」と思ってちらりとチャベスの方に目をやる。ニヤリ、そうチャベスはニヤついた。


 次の瞬間。


 弥恵はなんと純の腕の中に自分から飛び込んできたのだ。


「ぽむっ」とやわらかい妹の体が純の胴体を直撃する。弥恵の黒髪からは少しお高いシャンプーの香りが「ぽやっ」と薫る。かつて妹と匂いを分かち合おうとして、お高いシャンプーに無断で手を出し、股間をけられ、のた打ち回った純のほろ苦い思い出を持ち出すことはこの際どうでもいいだろう。


 妹の弥恵は今まさに純の腕の中にいるのだから。


 弥恵のそのたわわに実った二つのファンタジーは現実に純のお腹の辺りに体温とともに感じられた。弥恵はさらにそれを純にぐりぐりと押し付けてくる。


 ……これが……精霊の力……だと?


 純はえもいわれぬ幸福感と高揚感をぎゅっと拳を握ってかみ締める。目頭の辺りに血が溜まってきたのが分かるほど純は興奮していた。鼻血を噴出さないように軽く首をもたげながら、純は泣きじゃくる妹の肩に手を置いてそっと声を掛ける。


「そんなに泣くことないだろ。弥恵は強い子だ。涙なんて似合わないよ」


「えっぐ、えっぐ」


「弥恵、顔を上げて」


 弥恵は涙を拭いながら上目遣いに純と視線を合わせた。


「えっぐ、こんな時間までどこ言ってたの? 弥恵、本当に……本当に心配したんだからねッ!」と弥恵の力の無い拳が純の胸板を叩いた。


「そうか、そうか、お兄ちゃんのことをずっと心配してくれていたわけか」


 純は弥恵の髪の毛を撫でながら、至高の微笑みを浮かべた。


 この場面を何回妄想したか、分からない。まさに夢心地。


 けれど、そうそう夢のような時間は長くは続かないのが、人生というものだろう。


 弥恵の泣き声が急にひたっと止んだ。まさに嵐の前の静けさ。


「ええ、……だって兄貴がこのまま私の秘密を抱えていったかと思うと生きた心地がしなくて。もしも他人にしゃべられたらどうしようかって不安で、不安で、不安定でどうにかなりそうで……もし兄貴が帰ってこなかったらウシノコクマイリを夜な夜な決行していたところよ」


 弥恵の声音は悪魔の囁きのように不気味に純の耳に入り、その鈍感な脳味噌に危機を告げた。


「ん? どうしちゃった、のかな?」


「約束しなさい。私の秘密を誰にもしゃべらないって」


 弥恵の力の無い拳がぺたっと開かれ、その手がそのまま鯉口を切ったような勢いで純の襟元を襲った。ロリ顔からは想像もできない馬鹿力で、純は軽々と吊るし上げられた。


「う、浮いてるぅ、俺、浮いちゃってるぅ」


「私の秘密、しゃべるんじゃねぇっていってんだよッ! ああっ! 分かってんのかよッ!」


「……は、はひぃ」


 もう精霊の力なんて信じない。

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