第一章③
純の家から徒歩で五分足らずで海岸に面した砂浜に出る。純は痛む胸を押さえながらその砂浜へと向った。
その手には手綱が握られていた。その先には首輪がついており、愛犬のチャベスは少し煩そうに首を振りながら純の前を歩いている。チャベスはダックスフントである。血統書なんてたいそうな代物は高野家のタンスの引き出しには保管されていないが、ダックスフントのともすれば砂浜に埋まってしまいそうな短すぎる四本足が何よりの証拠となるだろう。
気持ちを落ち着かせるために散歩に出たのであるが、純が胸を患っていることなど関係なしに、チャベスはその短すぎる四本足を不器用にバタつかせ、砂浜を駆けていく。どちらかというと掻き分けていくといった方がいいかもしれない。チャベスが掻き分けた砂は意図したように、純の茶色いスニーカーをさらに茶色に染めていく。
目下のところテンションの上がる要素をこの苛烈な現実に見出すことの出来ないでいる純はぐいっと手綱に力を入れた。気持ちを汲んでくれない愛犬に少々イラッときたのである。チャベスはビクンと後ろに引き寄せられるようにして、コテンとかわいらしく尻餅をついた。
チャベスは首を純のほうに向けると、多少恨めしげに視線を寄越し「ぷぎゃあ」と吠えた。純は「悪いな」とチャベスに謝り、視線を海の方へ反らした。
それにしても、である。
「なぜ、わが妹が百合本なんぞを?」と純は首にぶら下げた足りない頭を無理やり働かせて考える。
冷静に考えれば、涙を溢すほどに怒るほどのことではないような気がしないでもない。
ただ百合本を熱心に読んでいるところを目撃しただけである。
まあ、熱心に読んでいるのが非常に気に掛かるわけだが……、それに言い訳すら出てこないほどに弥恵が動揺するのも珍しいことだった。純のような大人気ない兄を見て育ち、少し背伸びをしたがるいたいけな妹である。
弥恵の顔はあんなにも上気していたなあ……。
そこで純は『思春期の恥ずかしい条項』という本に「兄弟に自分の性癖がばれると恥ずかしいよね」といった記述があることを思い出した。
まさか、本当にわが妹はどうでもよい第四話の姉妹のように女の子どうしで百合百合したいのか?
純は記憶の片隅にある第四話を思い返してみる。この話だけは二回しかみていないからなかなか鮮明には思い出せない。「二回見たんじゃねえかよ!」との突っ込みが入りそうだが、第四話以外は少なくとも十数回は見ていた。第一話の視聴回数は優に五十を超えるだろう。それを鑑みるに純の第四話に向ける興味の無さが推し量れる。と同時に純のロリ巨乳に向ける一途で揺るがない性癖も推し量れることだろう。つまり、それほどまでに第四話にはロリ巨乳分が少ないのである。
しかし、ただ単にロリ巨乳分が少ないだけであれば、多種多様な趣向を持った大きなお友達たちに「どうでもいい」とは呼ばれなかっただろう。呼ばれるにはそれなりの理由があった。ひとえに過剰に含まれた百合である。監督が熱を出して寝込んだ隙に監督代行以下が待遇改善を訴えるため、だとか、監督代行が趣味に走った、だとか、監督代行がどこぞのフェミニズム団体に脅迫された、だとか、そもそも監督代行なんてクレジットされていないのだが、奇妙な噂が乱立するほどに第三話との流れをぶった切った内容だったのである。
その百合は本編だけに止まらずにオープニング、エンディング、はたまた提供各社まで侵食し、テレビ画面を三十分間、百合色に染めあげたのだった。その弁明責任を未だ果たさずの愚かしい所業は、少数派の人々を「むふふ」とさせ、魔法少女を待ちわびた大多数をテレビの前に置き去りにした。ちなみに第五話は何事もなかったように第三話からの続きで、ロリ巨乳の魔法少女がお風呂場でお兄ちゃんに裸を見られるシーンから始まっている。ゆえに第四話は「どうでもいい」のである。
「お姉ちゃん、むしろお姉さまが欲しいのだろうか、こんなに妹想いの兄がいながら……」
妹の弥恵の繊細な乙女心が誰よりも分かった気でいる高野家の長兄は、夕日をバックに弥恵のために立派に果たしてきた様々な所業を回顧する。
たった数秒間考えただけで、次のような確信が純の中で生まれ落ちた。
「お姉さまなど要らぬではないかっ!」
こんな妹想いの兄貴がいるならば、姉の必要性など皆無である。それが純の結論である。
そこで純ははっと思う。
「まさかお姉さまになりたいのではなかろうか……?」
妹は妹であるべきだ。お姉さんなんて……、と切って捨てようとした、その刹那である。
「……いいや、待てよ?」
純の脳裏に輝きを秘めたダイヤモンドの原石ならぬ、妄想の原石が投下された。純は妄想力の限りを尽して、妹の弥恵のお姉さん振りを餃子の皮を包むように大事に大事に妄想の原石を磨いていく。
純は人差し指であごの中心をぼりぼりと上下に掻き始めた。『美しき生命』の会員らによれば、純はあごを上下に掻くことで妄想力を極限にまで高めているのだという。みみず腫れの様に跡が残るだけならよいが、天野は教室で純があごから大量の血を流しているのを目撃したことがある。天野が「おい、あごから血ぃ出てるぞ」と慌てていうと、純は自分が血を流していることに驚きながらも「はあ? 何言ってんの? これ鼻血だしッ!」となんだかカッコ付けては譲らなかった。確かに純の言い分は全くの虚偽ではなく、きちんと鼻からも血液をたら流ししていたのである。「いや、その血は鼻からでてねぇし……って血流しすぎなんだよ!」と、さすがの天野でも突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込んでいいやら分からなかった。
後からその習性を見抜いた天野だったが、純がなぜ倫理の時間に血を流していたのかは未だに不明のままである。錆びて開かなくなった裁てばさみのように純は口を割らないでいるためだ。会長は「七不思議に加えようか」とにこやかにいって、内海は「どうせリビドーって言葉に反応したんでしょ」と切って捨てた。
純のその不可解な習性は血を流すという失態をクラスの皆に包み隠さず、バッチリ、はっきりとお披露目したにもかかわらず一向に治る気配は無かった。「逆に悪化の傾向にある。現在の純のあごはしゃくれず、引っ込まずのつまらないあごではあるが、将来はケツあごが約束されたも同然であろう」との、天野談である。
それはともかくとして、純の妄想は目下驀進中である。
妹にヒステリーを起す弥恵。
妹と喧嘩して無意識のうちに学校中を徘徊する弥恵。
妹と桜の下で抱き合う弥恵。
そして二人を抱きしめる俺。
「いいッ! それ採用ッ!」
そう言って鼻血を垂らしながら、純はグッと拳を握りしめた。
結局、ロリで巨乳であれば見境がないのである。
けれど、弥恵が百合なのかどうかということよりも、純は弥恵に嫌われてはいないだろうか、と心配でならなかった。察しの通り、もちろんのこと、弥恵は純のことをこれっぽっちも好いてはいないのだが、なんと涙を見せられたのはこれが初めてのことだったのである。
純の瞳孔の裏側では、去り際に垣間見た涙を浮かべた弥恵の表情が現在進行形で、生放送で、実況中でフラッシュバック!
日はもう少しで海に沈もうとしていた。チャベスの影と純の影は長く砂浜に横たわり、痛んだ胸に追い討ちを掛けるような情景を醸し出す。
純の気管支の辺りはその情景に促されるようにして次第に何かに締め付けられたようになって、心臓が鼓動を繰返す度にそれは苦しみとなって感じられるようになる。
何? この気持ち?
純はまるで恋に恋する少女のように胸の前で五指を交互に組んだ。
ああ、神よ。
祈るごとに不安は募ってくる。
もう二度とお兄ちゃんって呼んでくれないんじゃないだろうか……。
もう二度と一緒にお風呂に入れないのではないだろうか……。
もう二度と一緒のお布団で寝てくれないのではあるまいか……。
一応断っておくと、弥恵が小学生になってからは上記のような羨ましい限りの行為はすっかり健全に鳴りを潜めている。そしてこれから行われるという目星は流れ星になってじゅっと燃え尽きて久しい。
純は砂浜に膝を突くと、そのままゆっくりと砂浜にへたり込んだ。チャベスはじっと純の方を窺うようにしていたが、くるくると純の周りを一通り徘徊すると、純の胸に頭突きをするようにして懐に潜り込む。そして小さくあくびをすると純と同じように果てしない水平線を眺めるのである。
「おお、チャベス、分かってくれるか」
純は味方を得たような気持ちになり、チャベスの背中に頬ずりをした。
しかし、チャベスは勘違いはなはだしいという風に、
「キュワン」
と甲高い泣き声を上げて純の懐から飛び出した。そして純にお尻を向けると小火は一刻も早く鎮火しなければならない、という風に短い後ろ足を器用に掻いて、砂を浴びせた。
「う、うわっ、チャベスぅ。やめろッ! こらっ、ちゃ、チャベスぅ」
この世の人と犬の主従関係の概念を根底から覆しかねない、微笑ましくも理解し難いじゃれ合いが続く中、ふと純のズボンのポケットから何かが落ちた。見れば、並木教員から貰ったお守りであった。確かトリトとかいう牛のお守りである。人を食ったような生意気な表情がニヤリと純の方を向いていた。
純はそれ見て、くわっと表情を強張らせた。
妹との確執をどうして防いでくれなかったのかっ!
異国ペルーのお守りなど役に立たぬではないかっ!
先ほどまで異国の神(イエス様)に祈りを捧げたとは思えぬ、身勝手な怒りが純の心の底辺からふつふつと沸き上る。
そして純はついに手にしたお守りを力いっぱい放り投げた。
目の前に海が広がっているので、当然海に投げるのかと思いきや、さすがに貰い物を海に投げ込むのはよくないと思いなおしたのか、直前でくるりと体の向きを変え、横に長く続いている砂浜に向ってお守りを投げ付ける。
「えいっ」
教科書には決して記載されていない、惚れ惚れするほどの見事な乙女投げである。
純はこう見えても小学校時代に少年野球のリトルリーグに在籍していた。しかし、元広島の緒方のようなバッティング技術を持ちながらも、いかんせん肩が弱く、乙女投げが板について離れないためにその道は挫折することになった。その肩の弱さは高校時代の現在も変らないようである。純の右手から放たれたお守りは目先三寸のところにポトリと落ちた。それでも純の胸のうちはすっきりとしたらしく、純は自慢の横顔を夕焼けに浴びせながら、自慢のストレートヘアを掻き揚げると、「ふうっ」といってお守りに向って歩き出した。
と、純の足元からチャベスが一目散にお守りを投げた方に向って駆け出した。そういえば手綱を放したままである。純は慌ててチャベスを追いかける。
「待てっ! チャベス、チャベスッ!」
しかし、慌てることは無かったようだ。チャベスは犬らしく主人の放り投げた物を追いかけ、それを口に咥えて戻ってきた。純はほっと胸を撫で下ろし、そんな主人思いのチャベスをとても愛おしく思い、同時に感心もするのであった。高野家の教育方針は泣く子も黙るずばり放任主義である。それは三年前に親戚から里子に出されたチャベスにも当てはまり、高野家の人々は芸の一切をチャベスに強要することはしていなかった。何も教え込んでいないのになあ、とわしゃわしゃと純はチャベスのお凸を撫で付ける。
しかし、チャベスは口に咥えたお守りをなかなか離そうとはしない。既によだれまみれになっている。いい味でもするのだろうか。純はこのままだと罰が当りかねないと、チャベスの口からお守りを引き離しに掛かる。と、手を指し伸ばした瞬間。
ころん。
まあ、ころんという音がチャベスの口元から出たのではないのだが、まさにころんとチャベスの舌を通り、ごっくんとチャベスの体内へと入っていった。チャベスは長い舌でぺろりと口元を拭った。高級料理店の看板メニューを平らげたような、さも満足そうな表情を見せている。
そんなチャベスの表情とは裏腹に純の顔は真っ青になる。こんな得体の知れないものを飲み込んでしまうなんて、と赤ちゃんが誤って漂白剤を飲んでしまいパニックを起す若奥さんのように慌て出す。純のチャベスにかける愛情は家族一である。チャベスを引き取ることを真っ先に賛成していたのは純であるし、飼い始めてこの方、チャベスの世話は全て純が受け持っていた。チャベスというどこかの社会主義国の大統領に似た独裁者を髣髴とさせる名前を付けたのも純である。
「ええと、そうだ! 牛乳を飲ませなきゃ!」と純はチャベスを目の前にあたふたとして、赤ちゃんが誤って漂白剤を飲んでしまいパニックを起す若奥さんのように牛乳を求め始めた。
一方でチャベスはかわいい顔をさらにかわいらしくして、
「キュワンッ!」と吠える。
主人を宥めるように尻尾を振り、ご機嫌のようである。純も「なんとも無いのかしら?」と安心しかけたそのとき、
「ん? チャベスどうした?」
急にチャベスが吠えるのを止め、尻尾がへたりと垂れ下がる。つぶらな瞳が閉じられると、はたりと砂浜に倒れてしまった。
「ああ、チャベスう」と純は泣きそうになりながら、チャベスに呼びかける。
揺すってもピクリともしない。
叩いてもいつものようにがぶっと噛み付いてこない。
口元に耳をやる。呼吸をしてない。
「し、しっかりしろッ! チャベース」
純の頭の中でチャベスとの思い出が走馬灯のように次々と甦えってくる。
初めて純の家にやってきた日。
純に懐かずに真っ先に妹の方に懐いて男泣きしたあの日。
近所の猫数匹の縄張りに殴りこみ返り討ちになったあの日。
「ううう」と純の頬には涙がつたい、それがチャベスの鼻先に落ちた。その瞬間、
パチリ。
チャベスは何食わぬ顔をして、純の顔をその精気に満ちた瞳に映していた。
そして開口一番。
「泣くな、少年よ」
国立音大の声楽科を卒業したような、低音の程よく効いた、いたいけな少年心をくすぐるそれはそれはいい声がした。
「……………………………………………………????」
純は体をビクつかせながらもとっさに辺りを見回した。
この辺りの砂浜は夕方になると訪れる人はめったにいない。今日もいつものように人影は皆無である。純は背中の方に小さいおっさんでも隠れているんじゃないかと強情に疑いかかって、必死に首をもたげながらその場でくるくると三回転もしてしまった。
当然のようにその砂浜には純とチャベスしかいなかった。
純は静かに両足を畳んで正座し、恐る恐るしっぱを振るチャベスと向き合った。
「驚くのも無理は無いが、そんな奇抜なリアクションは誰も求めてはいないぞ」
純は目を点にし、チャベスとじっと見つめあう。
「ぎょええええええええええええッ! チャベスがしゃべったよおぉ!」
チャベスは面倒臭そうに後ろ足で腹を掻く。
「なんだその00年代から一向につまらなくなったヒットチャートみたいなありきたりな反応は。ここは『君がしゃべるなんて珍しいこともあるもんだ』と村上春樹風にアンニュイになるところじゃないか? ええ、少年よ」
純は頭を抱えながら、言われたようにアンニュイな表情を浮かべて、頬っぺたをタイ式マッサージのように健康的にこねくり回している。
程よい痛みを感じる。蒸らしたタオルがあればもっと程よい。
これはつまり……。
「まあ、いい。まあ落ち着けよ。少年」
夢でないことを少年こと高野純は悟った。チャベスは確かにしゃべっている。そして心なしか人間のようにころころと表情を変えている。
しかし内海曰く「スイーツを食べるしか脳のない厨二病患者」こと、高野純は突如として現れた苛烈な現実を目の前に、柔軟に対応することができないでいるのだ。
「これが落ち着いていられるかよッ! 意味分かんねぇよっ! しゃべるならしゃべるって言ってからしゃべれよっ! ていうか犬が気安くしゃべるんじゃねぇよっ!」
純は両の手の平をもうじき夜のやってくるお空に向け、犬がしゃべるのをいいことに目一杯声を荒げ、怒鳴りつけた。「ファンタジーは二次元だけにしとけっての!」
「だからその気持ちを考慮して、落ち着けって言ってるんじゃないか。ええ、少年よ」
「考慮すればいいってもんじゃないだろっ! 大事なのはそれが相手に伝わっているかだろっ!」
「相手に伝える前提に考慮することは重要なのだよ、少年」
「そんなこと今はどうでもいいんだよっ!」
「よくない。議論から逃げるな。君の日頃の言動をみていると、目に付くところが多々ある」
チャベスは、ここぞというばかりに日頃の鬱憤を晴らすように文句を垂れ始めた。飯の時間が遅い、飯の量が少ない、飯がまずい。あまりにも居丈高におっしゃるので純は思わず回心の意を約束してしまった。ドックフードの味など良くは分からないが。
それにしても、である。純はチャベスが飼い犬としての犬権を叫んでいるところを遮り、
「なんでお前しゃべってんだ?」と聞いてみる。
チャベスはすっかり忘れていた、という風な表情をつくって、
「そうだ、そうだ。まずそこからはじめなければいけない。もっとはやく気付け、お前は馬鹿か、少年よ」
「お前が一心不乱に文句ばかり言うからだろ。おかげでチャベスの声にも慣れてきたし。アニメの第一話では受け付けなかった声でも、話数を経るにつれて慣れてくるみたいな感じで。今丁度第五話ってところかな」
「よく分からん」
「もっと、ショタっぽいしゃべり方だと思ってたつうか」
「ショタ?」
「なんつうか、もっと幼い声で俺にはいちいち変換されてたから、特に撫でるときとかね」
「そういわれても、君の日常の姿を見ていれば自然とこういう声になってしまうよ。犬だからといって舐めてもらっては困る」
「ってことは、今までずっとチャベスは俺のことを舐めていたっていうのか?」
「近からずも遠からずといったところだ。確かに私の君への振る舞いは従順で無かった面が多々あるだろう。が、君は私の飼い主だ。一定の敬意を今まで払ってきたし、これからも払ってきたつもりだ。それが犬の役目だろう? 何か間違っているかい、人間の少年よ」
「いや、おっしゃるとおりです」と純は正論に頭を下げてしまう。「それにしても……さっきから、その少年って言うのが鼻につくんだけど……」
「いいではないか。君は少年だろ」
「まあ、それは否定しないけど。俺には純って名前があるんだよ」
「少年が大人になれば純と呼んでやらないこともない。しかしいかんせん、君の性根が少年以外の何物でもないのだから、私の真っ直ぐに筋の通った紀州原産のパトリオティズムによって、君は少年以外の何の呼称でも呼ぶことは出来ん。名無しの猫が我輩は猫であるといった意味を少しは理解して欲しいものだ」
「別に強制はしないけど。じゃあ俺もチャベスのこと犬って呼ぶわ」
するとチャベスはきゃんきゃんと笑い出した。尻尾もプロペラのように高速回転している。
「それは、少年、やめた方がいいな」
「どうしてだよ?」
「例えばだ。私のことを雑踏の中で「犬!」と少年が背を反って呼ぶとする。そうするとどうだ。周りの人間は君に『なんだこのやり場の無い怒りを犬にぶつけ、気を紛らわしている切れやすい少年は』といった不快な感情を抱くだろう。見ず知らずの他人の白眼視を受けるほど辛いものはない。現代社会は一介の少年よりも一介のダックスフントに優しいというわけさ。君はとたんにやるせなくなって私に上手い飯を食わせるだろう。まあ私は一向に構わないがね」
チャベスは一息にそういってまたキャンキャンと笑っている。純をからかうのがとても楽しいようでしっぽはフルフルとメトロノームのように小刻みに動き回っている。
「それよりも」
「おお、そうだったな」とチャベスは眉をひそめて真面目な表情をつくった。それにつられて純も濃い眉をひそめて向き合う。「なぜしゃべれるかって私にも分からない」
純は全身が砂に滑ったように仰け反ってしまった。
「はあ?」
「まあ、そう顔をしかめるな」
「分からないってどういうことだよっ!」
「まあ、聞け。先ほど私が飲み込んでしまったお守りがあるだろ」
「……そういえば、体は何ともないのか?」
「ああ。しかし、体がなんともない変わりにしゃべれるようになった」
なんだか奇妙な会話をしているなあ、と純は頭痛がするようだった。しかししゃべれるようになったのだから頷くしかない。「うん」
「そのお守りに宿った精霊の力で私はしゃべることが出来ているらしい。いいや、どちらかといえば私は精霊と完全に混ざり合ってその力を使えるといったほうがよいのかな」
「なんでその精霊はチャベスをしゃべらせるようにしたんだ?」
「問題はそこだ。事態は緊急を有するんだ」
「緊急だってっ!」と純は緊急とか、救急車とか、バックドラフトとかエマージェンシー発動とかに熱くなるちょっと面倒臭い少年期を送っていたため、緊急という言葉にビクッと反応した。純は口角に唾を溜めながら、今にも砂浜を駆け出しそうな勢いである。わくわくどきどきである。純は目を輝かせてチャベスの次の言葉を待った。
しかし……、
「いや取り立てて緊急というわけではないんだが……」とチャベスは純がいつにもましてノリノリなので前足で耳の後ろを掻きながら申し訳なさそうに言った。
「どっちだよっ!」
「……だって少年のノリがこんなにもいいとは思わなかったから、つい」
確かに怠惰に怠惰を重ねて、努力して怠惰な日常を送る純の姿を見ていればそう勘違いしてしまうのも仕方がないだろう。チャベスは仕切り直しという風にコホンと咳払いをする。
「私が飲み込んだお守りの精霊は半分力を失っている。もともとこのお守りは二つでひとつ。雌雄の牛が揃って本当の力を発揮できる、と精霊が語りかけているような気がする。しかし」
「しかし?」
「並木教員が牝牛のトリトを誰かに渡してしまったんだ。これを探して欲しい。私がしゃべる用はそこにあるんだ、と精霊が語りかけているような気がなんだかしないこともない」
「……そうか。なら話は簡単だ。並木教員に会いに行けばすぐに顔が割れるだろうし、まあ、お守りが見つかるまで、まあ、語り合おうか。せっかくしゃべれるようになったんだから。チャベスもそう思うだろ?」
「その意見には賛成だ。人間と会話を交わすのも意外と悪くない」
と純とチャベスは笑い合った。まるで兄弟が久しぶりに再会したみたいに。純は笑うことで弥恵の涙を一瞬忘れることが出来た。
けれど「あっ」とまたチャベスが何か大事なことを思い出したように声を上げた。「言いにくいんだが……」と先ほどと違って少し表情が暗い。
「……なんだよ?」
「精霊によれば、このお守りの所有者はどうやら、ちょっとばかし不幸になるらしいんだ」
「……まさかとは思うけど、もう片方が見つかるまでの所有者は俺ってことになるのか?」
「まあ、そうなるわな」とまるで他人事のチャベスである。
妹との確執も全部こいつのせいだったんじゃないかッ!
怒りが顔面に出ていたのだろう、チャベスは逆ギレしたように、
「勘違いするなよ。不幸になるだけであって、それは直接の要因ではない。なんでも自分の運の悪さに還元するなッ!」と説教するように怒鳴りつける。
その剣幕に思わず「すいません」と謝ってしまう。けれど数秒考え直す。
「遠因には変わりないだろッ!」
「安心しろ。見つかるまでは精霊の力を貸してやる。これでプラマイゼロだ。ウィンウィンの関係だ」
「は? 精霊の力?」
魔法みたいなもんなのか?
確かに犬がしゃべっている時点で、既にファンタジー、魔法の世界である。
けれど、純は期待を抱けないでいる。アイテムがお守りであったり、力を授けてくれた大魔法使い的な人間が倫理の教員である。スケールがいちいち小さい。その力の脆弱さを想定してしまう。
純はじとっとした眼差しで尋ねる。
「……精霊の力で、何が出来るんだよ?」
「そうだな……、あまり大それたことは出来ないが、小さい津波を起すことぐらいはできるかもしれん」とチャベスはそう言いながらふっと瞳を閉じた。
その瞬間、ザッバーンと高波が純に浴びせられた。全身が海水でぐっしょりである。
一方チャベスは俊敏な身のこなしで海水の被害を免れている。
「まあ、この程度だな」
純は自分の不条理さを言葉に表そうとしたが、わなわなと震えるばかりで言葉が出てこない。
そしてまた「あっ!」と重大なことを思い出したようにチャベスは言った。
「今度は……どうした?」とうんざりという風に純。
「言い忘れていたが、精霊の力を使えるのは二回。さっきので一回使ってしまったから残り一回になってしまった」
「そういうことは先に言えって!」
「精霊の語りが遅かったんだ。そう怒るな」
「それに、なんで二回しかねぇんだよっ! 普通三回とか、七回とかじゃねぇの? 普通とか言うのもなんか変だけど、とにかく、切り悪くねっ?」
「……こっちにもいろいろ都合があるんだって」
一体何の都合があるんだよ、と不満を思いながら、純は超展開に提示された「精霊の力」の使い道を、うーん、と腕を組んで考えた。
まあ、今、純が抱える懸案事項は弥恵のこと以外に他ない。弥恵に機嫌を直してもらうことが、純の今一番の願いである。
「……人の心を操るようなことって出来るのか?」
チャベスはそれを聞いた途端、軽蔑のまなざしをあからさまに送った。
「少年。それは立派な犯罪だよ」
「違うって。……ただ、弥恵と仲直りしたいだけなんだ」
それは本心だった。このままでは家に帰れない。帰れたとしても、そこに今までのような関係は望めない。純は手の平を合わせ、頭を上げる。「頼む。この通り」
「分かった」
「おおやってくれ、」と歓声を上げようとした純に「もう済んだ」とのチャベスの一言。
「はやっ!」と仕事のあっけなさに不満を呈する純であった。
「何かこうふぁーっと力が働くときの合図とかないの? 目が光るとか、全身が光るとか、目の前が光って見えなくなるとか」
純は予兆や余韻に拘る面倒臭い人間だった。目に見えるもので表現してくれないと不安らしい。一方チャベスは面倒臭そうに頭を掻いている。
「ない! 光ってなんになる! そんなに光が欲しいなら懐中電灯でもカチカチやっていろ。そして肝心なときに電池が切れればいい! そんなことより、力を使って腹を減らしてしまったぞ、少年」
夕日はもう沈んでしまって辺りはすっかり暗くなっていた。純とチャベスは自宅へと足を向けた。
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