第一章②

 家に着くころには純の頬はやつれ、一晩空気にさらしてしけった煎餅のようになんだか味気がなくなっていた。駅から自宅まで、端から見ればジョギングのようなペースだが、純本人に言わせれば「このままだと心臓たんが死ぬ!」程の超ハイペースで駆け抜けたのだった。駆け抜けたといえば聞こえはいいが、目的は夕方六時から始まるロリ巨乳アニメである。決してカッコよくはないだろう。しかし、今日という日の中で純が最も輝いていたのは正しくVHSの録画ボタンを押すその瞬間だった。予約すればいいじゃないかと現代っ子は言うかもしれないが純の家は代々純和風を由とする、農地改革以来の梅農家であるためにBDはおろかDVDすら実践投入されていない。そのため録画はもちろん手動で、チャンネルを変えずに膝を抱えて見守らなければならない。前近代的な誰もが忘れてしまった光景は見ていて多少ほほえましくもあるが、映像の種類が種類なだけになんだか痛々しくもある。けれどそんな周囲の目を他所に純の目は爛々とテレビ画面に釘付けになっていた。大きなお友達とはまさにこの惨状を指すに違いない。


 あっという間にエンディングを向え、次回予告のロリラップが高野家の純和風のリビングを席巻していた。


 純は感無量といった表情をどやっと作ると、「アカネたん、ハァハァ」と早速本日初登場の新キャラに浮気をしていた。淳はロリで巨乳であれば本当に見境がないのだ。純はアカネたんのパンチラシーンを確認すべく、巻き戻しボタンに手を掛ける。とそこでいつもとは違う何かに気付いた。


「……むむむっ、何かが足りない」と純の思考がふと止まる。「……あ、しまった」


 巻き戻しすぎて前々回のロリラップが流れ始めた。早送りボタンを押そうとしたが、純は手を止めた。丁度前々回は評価の高い神回だったのだ。今日は両親ともに遅くなると聞いている。せっかくなので純はまた膝を抱えて画面に向った。


 と、そこで二階で物音がした。リビングの上は丁度妹の部屋である。「ああ」とそこで思い立つ。


「今日は弥恵と一緒に見ていないじゃないか!」


 高野弥恵は現在悩み多き中学一年生であり、腹違いの妹でもなければ、再婚相手の連れてきた義妹でもない、正真正銘の純の妹である。ただ、純の妹とは思えないほどの美貌と容姿を兼ね備えたロリ巨乳であり、つまり純好みの妹なのである。きっと遺伝子配列がこうも違うのかと天国のワトソンとクリックも感嘆の悲鳴を上げることだろう。妹萌えなど現実にありえないのではないかという議論が世界中で沸く中、高野弥恵はそれのアンチテーゼとなりえる逸材であった。


 まず、なんといってもその容姿である。純の記憶に拠れば弥恵の胸は小学五年生の夏ごろからエルニーニョ現象の勝ち馬に乗ったがごとくに膨らみ始め、この夏もその成長、止まりません。ママさんという内通者に拠ればFはあるという。もちろんこのFはギターコードのFではない。誰しもが挫折などしない、とっても友好的なFである。純は理性を抑えきれずに一度妹に向って真顔で「……Fなの?」と聞いたことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでも無い。


 そしてそのお胸に第二次性徴の成長ホルモンのほとんど全てを奪われてしまったのかは世界の誰しも分からない最重要機密であるが、弥恵の身長は小学校五年生のままあまり変化を見せていないようであった。百五十センチにも足りていないようで、純の目測に誤りが無ければ懐に上手く収まる大きさであると言えよう。純は理性を抑えきれずに一度妹の背後から「ぽむっ」という効果音つきで抱きしめたことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでも無い。


 そして純と似ても似つかないロリ顔にロリボイスである。本人は非常にコンプレックスに思っているらしく、中学生になってからショートだった髪を伸ばし始め、現在セミロング程になっている。少しは大人っぽくなるだろうという算段だったらしいが、これがロリ顔によく似合った。純は理性を抑えきれずに一度妹に向って「上目遣いでお兄ちゃんって言ってみて」と頼んだことがある。案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、のた打ち回ったのは言うまでもない。


 それらの話はともかくとして、純は毎週多少のSっけのある妹とこのアニメを見ていたのである。何かが足りないと思ったら、えもいわれぬ妹の罵声であった。純が口を真一文字にして画面に釘付けになっていると、その度に横から「キモイ」「ウザイ」「ヘンタイ」といった罵声が妹の心の底から発せられる。先天的にM体質の純はそのたびに脳幹をくすぐられる様な快感を得ることができた。


 オタクっけのない妹ではあったが、段々とこのアニメに夢中になっていることを純の鈍感な感性は珍しく見逃さなかった。部屋に篭もりがちな思春期の少女がこの時間にだけリビングに自然と足を運ぶようになれば誰でも妹の心境の変化に気付くに違いないだろうが。


 最初のうちは「高校生にもなってアニメとか見ちゃって」とか「ロリ巨乳とか現実に無いって」とかなんとか文句を垂れていた。(純が「じゃあ、その胸は一体なんだ?」と言うと、案の定「クソ兄貴ッ!」と息子さんを蹴られ、(以下省略))しかし、コアなファンの間でほぼ定説となりつつある、『どうでもいい第四話』から妹の目付きが変ったのである。味噌汁を飲みながらある場面では碗で顔を隠し、ある場面ではお行儀悪く咥え箸をしながら目を潤ませ、ある場面ではハンバーグをひき肉ほどの細かさまで砕いていてミンチに戻していた。


 しかし鈍感な純は妹の不自然な様子に気付いたものの、その原因を究明するまでには至らない。単にアニメが好きになったんだろうとそんなに重くはみていないのだが、何が妹の琴線に触れたのか、第四話に問題の確信があるに違いないのだがと、純は足りないお頭で考えていた。「考えて答えが導き出せなくてもいいのは高校生までよ」とママさんから「最近弥恵が夜中にアニメを見ているのよ。しかもどうでもいい第四話ばかり」とのヒントとも内通とも言える情報が懐にはあるのだが、結果よりも過程を重んじる純は「分からないままでいいこともある」と見事にことなかれ主義を貫いていた。


 純は「よし」と膝を叩いて妹の部屋へと向った。体の調子でも悪いのだろうか、と妹大好きの純は何食わぬ顔で階段を駆け上がる。階段を忍者のようにしてとんとんとんと軽妙に上るのが純の特技の一つである。


 転がるようにして妹の部屋の襖の前に立つと「開けるぞ」という言葉と同時にドアノブを回し開く。返事は聞いていない。この行為によって過去に何度かのた打ち回ったことがあったが、それもまたよし。妹の安全安心(?)が最優先である。


「やーえちゃん。もうアニメ終わっちまっ……」


 と、純は言いかけ、言葉に詰まる。


 弥恵は確かにそこにいた。そこにいてきちんと机に向い、なにやら夢中で漫画を読んでいる。それはいつもの光景であり、いつもの夕暮れ時のように胸に白いだらしないクマがプリントされた部屋着を纏い、どこからみてもリラックスしていて隙だらけである。


 しかし弥恵が夢中で視線を落ちしている漫画がいつもの愛くるしい少女漫画ではなかったのである。純は妹の弥恵の手にあるものに見覚えがあった。今日内海が部室に持ってきて、熱心に読んでいた百合漫画雑誌に良く似ていた。というかそのものだった。そうでなかったら純が気づくはずがない。


 もちろん百合といっても植物園に行って見ることの出来る、綺麗に咲き乱れる植物の方ではないことを予め断っておこう。百合は百合以外の何ものでもない。要は女同士がちちくり……まあ、つまり女の子同士の愛である。ガールズラブってやつだ。


 弥恵は少し遅れて純が部屋に入ってきていることに気付いたようだ。兄妹の視線がきれいに交錯する。弥恵は持ち前の高い集中力をここぞとばかりに発揮して物語に入り浸っていたらしく、純の階段を駆け上がる不快な足音にも、一応掛けておいた「開けるぞ」という純の声にも全く気付かなかったようである。


 弥恵はかなり動揺しているようで、頬から額まで色白の肌に見る見るうちに赤味がが差し始めた。


「お、おう」


「……」


 弥恵はしばらく部屋を見回しながら、なんだか言葉を探しているように口元をあわあわとさせていたが、とりあえずという風に、


「勝手に入ってくるなっていつも言ってるでしょ!」


 と兄に向かって怒鳴りつける。しかし純は動じなかった。「部屋に入るな!」「いいや、入る!」の押し問答はこの兄妹何回繰返したか分からない。


「ちゃんと声を掛けたし、ノックもした」


 いいや、ノックはしていない。


「返事する前に入ってくるなって言ってるの!」


 そうやっていつものやり取りが続くと思われたが、しかし次の一言がいつもと違った。本来であれば「弥恵が無事で何よりだ」と続くのだ。


「それより」


 純の視線が弥恵の手元に向けられた。途端、弥恵の目が泳ぎ始めた。


「何読んでんだ?」


「……た、ただの少女漫画だって」


「それって百合漫画だろ?」


「な、何で知ってるの、……って、ち、ちがっ、あうあぁ」


 違うも何も百合漫画であることに間違いは無いはなかった。


 まさかこの兄貴に鎌をかけられるなんてと弥恵は独りごち、そしてはっとなって慌てて背中に例の物を隠したが、机の上にも同ジャンルの同人誌やらが結構な量詰まれていた。もう言い逃れは出来ないと悟ってか、弥恵の目元は陰り、椅子の上で頭を垂らした。


「どれ」


 純はひょいと机の上から百合同人の一冊を手に取るとペラペラと捲った。


「ああっ、それは駄目ッ!」


 珍しく弱気にすがり付いてくる妹に興奮しながらも、その同人誌の中身を見て純は少なからず仰天した。手にした同人誌は先ほどまで純がニヤニヤしながら見ていたロリ巨乳アニメの同人だったのだ。


 しかも第四話以降空気の姉妹の百合百合なお話。


 純は「弥恵がどうしてこんなものを読んでいるんだ?」と疑問に思わざるを得ない。兄として理由を尋ねなければいけないだろう。


「弥恵……おまっ、」


 しかし、そこで純は気付いた。弥恵の様子がなんだかおかしい。小さい肩を諤々と震わせて、小さい唇の隙間から「ぷしゅう、ぷしゅう」とダースベーダーよろしく二酸化炭素を漏らしている。耳をすませば呪詛の念に聞こえなくも無い。というか、呪詛の念だった。


「み……た……な……」


 純は慌てて同人誌を机の上に戻すと、宥めるように、


「い、いい趣味をしているじゃないか。お兄ちゃんはリベラルな人間だから、こういうの良く理解できるんだぞ」と不得手な愛想笑を浮かべながら口走る。「い、いやぁ、でも弥恵がこういうのが好きだなんて知らなかったなぁ」


 当然、純の言葉は逆撫で以外の効果を持たなかった。


 弥恵はわなわなと華奢な肩を震わし、上気していた顔を更に上気させ、


「出てけええええええええええええええええええええええええええええええええぇッ!」


 と兄の自慢のロリボイスを炸裂させる。その威力は向こう両隣の木に止まる小鳥たちを立ち退かせるほどに強力なものだった。


 純は慌てて部屋から脱出すると一目散にどどどどどどと転がり落ちるように階段を駆け下りた。気がかりは振り向きざまに見た妹の瞳には浮かんだ涙。「悪いことをしてしまった」と純の胸は激しく痛み、けなげな妹をとても愛おしく思い、後悔するのだった。


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