第一章 チャベスと少年

第一章①

「少し用事があるんで」と唯一の女性会員の内海が部室から出て行くと、「さて」という会長のパラダイム転換の一言で室内には猥談が飛び交い始める。しかし耳を潜めて聞いてみれば、年齢に関する議論であるらしいので本筋からは離れてはいないようである。ここは会長の統率力に敬意を評する場面であろう。


「猥談は いくらしてても 飽きないなあ」とは先代の会長(女子)が残した辞世の句であるが、まさにそれを表すようにあっという間に時は過ぎ、窓の外の太陽は沈みかけている。


 午後五時を回ると下校のアナウンスが校内にこだまし始めた。当然日が暮れるまで学校に残って活動を続けようという気概を持った人間のいない『美しき生命』である。会員たちは議論を直ちに切り上げると、我先にと帰り支度を始めた。会規則により、帰り支度の一番遅い奴が部屋の鍵を職員室まで返すことになっている。会員たちは文化部とも思えないほどの手際のよさを発揮し、水門から勢いよく放水される泥水のように冷房の効いた部屋から飛び出した。なぜこれほどまでに必死かと言うと、このボランティア同好会の部室は職員室から最も遠いところに配置されているからであった。ざっと見積もって四百メートルトラック一週半はあるだろう。建前上は近所の二級河川のゴミ拾いでもしていそうな『美しき生命』であるが、代々計画倒れ前提のプロジェクトが計画倒れになるのに業を煮やした教師一同が、満場一致で日の当らない辺境の地へ追いやったのである。半分は教師たちの激励の意も込められていたこの処置だったが、先代の会長は「これぞオルタナティブね」と小躍りして喜び、目下現会長は「他の部活の利便を考えれば」と会の謙虚さを謳い文句にして、なかなか状況は改善されないでいる。


 と、そんなことはともかくとして本日の鍵当番は例によって純になった。


 純はあからさまに渋い顔をして会の薄ら笑うメンバーを見渡した。純が会に入って以来、純以外鍵を返しに行ったことはないのである。つまり、純はとてつもなく鈍臭いのであった。


「ふん、ロリコンどもめ」


 純は軽い足取りで帰宅する会員の背中に向ってそう毒づき、職員室に向った。純から遠ざかるロリコン共は夕方六時半から始まる大きいお友達御用達のアニメ談義に花を咲かせていた。純は「そんなロリ巨乳アニメなんて見ていない」と会員たちに吹聴しているが、VHSに録画してテープが擦り切れるほどまで繰り返し見るほどのヘビーウォッチャーである。純の足は自然と速くなった。


 職員室まで階段を五つ超え、暗がりで先の見えない廊下をひたすら歩く。かなりの体力を消耗した純は人気のない職員室にノックして入り、鍵を所定の場所にさっさと返却した。


 さて帰るか、とカバンを背負い直すと後ろの方から声を掛けられた。この声には聞き覚えがある。倫理の科目を担当している並木教員だ。ぼやっとしたしょうゆ顔と裏腹に並みの声優よりもいい声を持った、中々腐女子の間で評判の高い先生である。夕暮れでオレンジ色に染まった室内に、その低く響く声は良く合った。しかし、純には呼び止められる理由が浮かばない。世間話でもしようというのだろうか。純は自慢の仏頂面で振り返る。

 早くアニメが見たいんだが。


「なんでしょうか?」


「いや、今日は生徒全員、応援で甲子園に行っているって聞いていたから」


「ああ、それならうちらだけお留守番です。ボランティア同好会は忙しいので」


「へぇ、うちの学校にボランティア同好会なんてあったんだね。知らなかった。それでどんなことをしているんだい? 応援にも行かずに活動するなんて随分と熱心じゃないか」


 並木教員はさも感心したという風に薄く禿げ上がった額をハンカチで拭いていた。純はテレビに甲子園を映しながら、アニメ雑誌を捲り、雑談を繰返していたとはさすがに言えず、嘘八百のプロジェクトをでっち上げた。すぐに見破られるだろうが、純の口はすらすらと動いた。アニメ見たいという強い意志によって。しかし、純の見破られないことに定評のない嘘は、黄昏時の職員室ではかえって高い信憑性を作り上げているらしかった。並木教員は純の話を聞きながら相槌を打ち、時には深く頷いていた。そして一体全体どういうわけか、並木教員の冴えないメガネの奥の小さな目は爛々と輝いているのだった。


「それはすごいじゃないか。ぜひ協力したい」


 は?


 純は心の中で珍しく疑問符を催した。そんな言葉待ち望んでいない。この教師は『美しき生命』の今までの醜態を知っているのだろうか。


 そういえば、と純は思い出した。しょっぱなの倫理の授業で確か今年赴任してきたようなを言っていた気がする。だから『美しき生命』について何も知らないのだ。


 純は全力でその協力を断るしかない。断らなければ、即席ででっち上げた素晴らしき壮大なプロジェクトを実行しなければならなくなってしまう。そんな面倒なことは絶対に嫌だ。


 純は今まで見せたことの無い、イギリス紳士顔負けの勝負顔を作り、低姿勢でお断り申し上げる。


「お気持ちだけで充分ですよ。このプロジェクトは僕ら、生徒だけで実践することに意義があるんです」


 その言葉に胸を打たれたのか、並木教員は腕を組み大きく頷いた。


「その通りだね。いや、感心した。この時代に君のような生徒に巡り合えるとはね。この学校に赴任してきてよかった」


「あはは」


 純はぎこちない愛想笑を顔面に目一杯作り出した。


「そうだ。あまりいいものではないが」


 並木教員はきれいに整理された引き出しを開けると、そこから狛犬のような形をした、小さな置物を手にした。


「お守りだ。プロジェクトの祈願にでも持っていてくれ」


「はあ」


 純は掌を上に向けてそれを受け取った。よく見ると狛犬ではなく、豚のような面をしている。お世辞にもあまりかわいいとはいえない。むしろ少々グロテスクである。


「このお守りはトリトといって、日本で言う招き猫とか福助みたいなものでねえ。魔よけにもなるらしい。去年ペルーに旅行に行って来た時に買ったんだけど。よくは知らないけれど牛を象ったものらしい」


 牛か。なんだか納得がいかないがそう思ってみれば牛に見えないこともない。純はここで断ると面倒臭いことになるだろうと気転を利かせ、あまり有り難くは無いが、有り難く受け取ることにした。純はお礼を言って頭を下げた。


「困ったことがあればいつでも相談に乗るぞ」


 純はギラギラとした太陽のような精神の反射を後ろの方に感じながら職員室からささっと脱出した。

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