チョコレート・ムース

枕木悠

プロローグ

プロローグ

 高野純は野球の名門、紀州智天学園に通う高校二年生だ。といっても純は高校球児ではない。


 同じ高校に通う球児が甲子園の地で汗を流し、涙を流し、土をかき集めている姿をテレビに移しながら、純たち『美しき生命』と名を打ったボランティア同好会の会員たちはロリッ娘談義に花を咲かせているのだった。


 純はかなり流されやすい性格である。本人はそれを自覚しているが、肝心なときにその自覚は薄れ、流されてしまう。その性格はこの八畳ほどの狭い部屋にいても変らないようで、会長の「ロリッ娘は十四歳まで」の意見に全面同意しかけていた。この部屋には会長と純を含めて六人の人間がいる。それぞれに自身の思うロリッ娘像を脳内に鮮明に描きながら、甲子園であの独特のサイレンが鳴り響いた午前九時のから真剣に話し合いを続け、現在午前十一時である。テレビの中の試合は解説者を唸らす乱打戦となり、十六対十六でいつのまにか延長戦を迎えていたが、『美しき生命』の会員にとって、それはそれはどうでもいいことだった。


 部屋の冷房がウーンと温度を調整し始める。調節し始めるといっても北欧のサウナ風呂のようになってしまった室内に気休め程度の風を送るだけである。


 議論の発端はそもそも昨日発売された某アニメ雑誌に乗った「熟ロリ」という文句で始る、某大手アニメーション制作会社を解雇されたあの人のロリッ娘についてのコラムであった。一番初めにこれに気付いたのは純と同じクラスの天野満である。天野はそれを小脇に抱え、週一回のペースで会される大事なボランティア会議の議題を「ロリッ娘の年齢」に差し替えることを訴えた。会長は「何っ!」と、席を立つとその雑誌を天野から引ったくり、テーブルにバサッと広げ読み始めた。他の会員たちもそれに倣って読み始める。読了すると会長は「やむをえんな」と、なぜか江戸時代の武士っぽく話し、躊躇なく議題を変更した。もちろん誰も異論などはなかった。


 何と言ってもこの会は純正のロリコンで構成されていたからだ。


 彼らは脳内で自身の理想とするロリッ娘をそれぞれ念頭に置き、議論を重ねていた。その眼差しはおぞましいほどの真剣さを伴っていたが、要はロリコン脳を活発に働かせてハアハアしていたということに集約されるだろう。


 特にこの場で昇天しそうなほどハアハアしていたのが、一見冷静沈着に議論を耳に入れている純であった。


 といっても純は生粋のシャイボーイであり、普通のロリコンであれば頬が思わずニヤついてしまうけしからん動画、画像、街中で見かける幼女にも視線はやるが、頬を緩ませることは決してしない。それは気心の知れたメンバーの前でも同義であるらしく、純は脳内でハアハアしながらも、口を真一文字に結んで、トレンディードラマの俳優のような眉をキリッとさせて、あくまでハアハアしてないと会員たちに見せ付けている。が、普段はキリッとした表情は見せない純であるために会員の人間には純が口を真一文字に結んで、トレンディードラマの俳優のような眉をキリッとしていることは純が脳内ハアハアしていることと同義であることが丸分かりなのであった。


 天野は意見も出さずに一人で長らく興奮している純を見かねて声をかける。このままだと鼻の両穴から血を垂らしかねない。純には前科が数十件ついているのだ。


「なあ、純はどう思う?」


「ん? ……何か言ったか?」


 天野はやれやれと頭を押さえる。天野は同好会の中でも、もっともロリコンである。最もロリコンであるということは、年齢、精神、外見のロリコン三要素がロリコン対象に合致しなければその対象をロリコンと認めないラディカルな意見を持つもののことである。天野はその最もロリコンの立場で、純に忠告した。


「純、いいか」


 と、天野は啖呵を切って自身の理想を熱く語るのだった。内容が季節ごとにあまり大差がないため会員全員、テレビの方に視線を向けた。気付けば我らが紀州智天学園が同級生のサヨナラヒットでサヨナラ勝ちを納めていた。会員たちは「おー」というまるでゴールデンの雑学バラエティ番組を見ているような小さい歓声を上げた。天野は存在ごと無視されているとも気付かずに拳を振り上げている。


「なあ、そうだろ! 純!」


 天野は議論を交わすときは必ず熱っぽく、唾を飛ばし、相手の耳に口をつけるようにして話す。純は煩わしく思って体を斜めに傾けた。


「そんなこと知ったこっちゃねぇよ。俺はお前みたいな重度のロリコンじゃないんだよ。だからそんなことはどうでもいいんだ。でも議論をまとめるっていうんだったら、俺は会長のいう十四歳説に賛成だ。依存はない。会長の言うことはいちいち最もだ。反論の余地なし」


 純は重度のロリコンであり、無論それはメンバーの誰もが公然の事実と認識している周知の事実である。しかし純は年齢の議論にはあまり興味関心がなかった。純は背が百五十センチ以下のロリ巨乳であれば見境がないのである。ただし年上は何のポリシーがあってかいけない。じんましんが出る。とにかくたくさん出る。同級生かそれ以下がよろしい。


 が、天野は最もロリコンの立場からそんな曖昧な立場を瞬時に否定する。


「なっちゃいない。なっちゃいないよッ!」


 天野は天を仰ぐように、来るものは全て拒まんという風に大げさに両腕を広げる。無論このロリコンホイホイを気取る両腕に抱かれたロリコン娘は未だ居ない。長い間持て余したすえに生粋の男子高校生の純でさえホイホイされかねない、なんだか壮絶な雰囲気を醸し出していた。


「お前は仮にもロリコンのホープと先代の会長に目さえた存在なんだぞ。この俺を差し置いてだ。ところが、だ。日頃からロリコンについての勉強を怠り、あまつさえ、ロリコンという概念がただ一人の人間にオーソライズされかねない一大事に危機感すら抱いていない! ロリコンのロの字も分かっていない! 学ぼうとしない! それになによりも、背が百五十センチ以下のロリ巨乳であればなんでもいいというお前のその歪んだ性癖がッ! その見境のなさがッ! 俺ぁ、許せないッ!」


「俺はロリ巨乳好きじゃねぇっ! お前と同じ貧乳派だと何度言えば分かっ、」


 純は断然ロリ巨乳派である。これは紛れもない真実だ。


「じゃあかあしいッ! この場でお前がそのご立派な性癖を隠すことなんか誰も望んでないんだよっ!」


 天野は純が未だに性癖を隠し通すことに苛立ち激昂した。天野は思わず拳を振り上げたが、会長の速やかな指示の下に一年生の男子部員の久保と東野が両脇から抱え込む。天野は「離せぇえ。こんなロリコンの風上にも置けない見境ない奴が、何で……」としばらく暴れていたが、肩を壊して野球部から流れて来た久保と東野は難なく天野を組み伏せた。「ちくしょお」と部屋の隅のほうから小さくうめく声が聞こえる。


 純が呆然とその一部始終を眺めていると、会長が口を開いた。


「まあまあ、二人とも落ち着きたまえ。まあ満のいうとおり次期ホープの純が、ロリコンに対して見境がないのは少々困った点ではあるが」


「か、会長。俺は見境なくなんて……」


 事実、純は見境がない。


「まあ、聴けよ。先代が純を次期ホープに選んだのには純のその見境がないことを見込んでかもしれないだろ。そんなに自分を卑下するなよ」


「……会長。それは励ましてくれてるんですか?」


 純はロリ巨乳好きで見境がないというレッテルを改めて貼られ、不本意な気持ちになったが、性的な何かにしか上手く働かない脳みそは心地よくパソコンの電源が落ちたように黙り込んでしまった。


 会長はやれやれという風な顔を見せると、その場にいたもう一人の人物に声をかけた。


「……現ホープの内海君はどう思うかね?」


 内海君と呼ばれたその人物は会長に問われるとむしゃむしゃと食パンを食べる手をピタッと止めた。その手は細く白くてまるで女の子の手のようだ、というか内海君と呼ばれた人物は正真正銘の女子高生だった。ただ、このむさ苦しい部室に女子がいるという違和感をきれいに取り払ってしまうほどに彼女の雰囲気は女の子女の子していなかった。


 ヘルメットを被っているようなおかっぱの重たそうな黒々とした髪の毛。虫眼鏡と見まがうほどの分厚いレンズの黒縁メガネ。本人曰く、季節外れの花粉症のため外すことはならない立体マスク。そこからひょっこり飛び出た鼻水をかみすぎて赤くなった鼻先。本来の顔が確認出来ないほどに彼女の顔面にはオプションで覆われていた。これまた本人曰く、冷え性であるため、冬服の長袖のセーラー服をこの炎天の真夏日にすら着込んでいる。地面に届きそうなほどのスカートの丈は昭和時代を髣髴とさせる、まさにスケバン。なんだかフルアーマーである。


 議論の最中、内海はずっと食パンを食べ続けていたようであり、(ジャムやバターも塗らずに、)背中を丸め食パンに少しずつかじりつく内海の姿はまるでアルマジロのようだった。内海はなぜだか安全確認するように左と右を見てから、ギロリと純を睨みつける。


「……さいてー」


 まるでやさぐれた戸松遥のような声が響いた。会長は逃げも隠れもしない戸松遥の大ファンであるので、その声を聴くたびに半分歓喜し、半分不満を募らせてしまう。本来の戸松遥タンだったらもっと元気に歌ったり、踊ったり、ハイテンションでゴーのはず。だからといって人間の出来た会長は文句など女の子に向って言うことはない。


 そんな会長の複雑な心境の傍らで、純の薄いプラスチックで出来たような折れやすい精神は内海の『さいてー』発言にショックを受けずにはいられなかった。形がいくら不気味でも女子高生は女子高生である。内海の短い罵倒は人間の出来てない純の心を簡単に突き刺した。そして内海は項垂れている純に追い討ちを掛けるように激しく捲くし立てる。


「……見境ないとかマジ死ぬべき。てか死ね。女の敵マジ死ね。ロリ巨乳? はあ? 自分の眉毛みてから言えよ。このむっつりが。とりあえず死ね。これだから男って信じられない、死ね。男なんて全員死ね……。死んでしまえっ!」


「……分かりました。死んできます」


 純の精神が崩壊して、そろそろもんどり打って部屋の窓から飛び降りそうになった頃合に、(といっても部室は一階であり、飛び降りたところで炎天下に身を晒すだけなのだが、)会長は堪らず、内海に待ったを掛ける。会長のこめかみにはうっすらと汗が浮かんでいた。戸松遥の大ファンとはいえ、会長も地獄の呻き声の様な恨み節にはなかなか耐えることが出来なかったようである。


「も、もういいんじゃないかな?」


「……悪い。口が勝手に」


 すぐ謝るのが内海のいいところだ。内海がまた食パンをかじりだそうとしているので、会長はすかさず止めた。内海に話を振ったのはただ純を罵倒させるためだけではない。


「議論を元に戻そうじゃないか。内海君の意見はどうだい? さっきから考え込んでいたようだけど」


 純にはただ黙々とアルマジロのように食パンを食べていたようにしか見えなかったが、その仕草は内海のとっても深く考え込んでいますよ、というポーズらしかった。


「……そうね」


 内海は手の平でメガネの両端を持上げた。すると内海の瞳が拡大されてくっきりはっきり会員たちの目に入る。意外と愛嬌のあるまん丸とした瞳をしている。けれどその下には三日三晩寝ても治らないような黒々とした痣のような隈がくっきりはっきり侵食中なのが見て取れた。こんなになるのは締め切りに迫られた漫画家かネトゲ廃人かクーデターで国を追われた国家元首くらいなもんだろう。その瞳がぎょろりと純を見据えた。


「全員知ってると思うけど、私は義妹がほしいの。ただのロリには興味ありません。妹よ。なんてったて妹よ。ええ、妹よ。妹が欲しいのよ。見境ないって思われるかもしれないから、正直にしゃべりますよ。最近の私のムーブメントは手を広げたらファーって寄ってくる感じの猫みたいな女の子ね。目に涙溜めてお姉さまって呼んでくれる、出来れば中学生くらいの思春期でなんだか常日頃からブルーっていう状態のヒステリック少女がいいなあ。部活は吹奏楽部で、担当はトランペットで。トランペットなのは私がかつてトランペット奏者だからなんだけど、まあそれはどうでもいいんだけども。なんでトランペットかっていうとトランペットにはマウスピースっていうすごい武器があるの。最終兵器と言っても違ってないわ。むしろそれがあれば本体なんてジオングの足みたいなものね。詳しいシチュエーションを話すと引かれると思うんで簡単に理想を言うとね。まあ、最初はマウスピースから始まり、マウスピースで終わるみたいな。もうお姉さまのマウスピースがないと駄目ぇって言わせたいなあ」


 内海は一息でそういうと視線を会員それぞれに巡らした。皆一様に、ぶっちゃけ、正直引いていたからだ。


「……あっ? お前らなんか文句あんの?」


『いいえ』


 皆、一様に首を横に振った。


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