あなたの、お望みのままに。

『コルネリア』

 記憶の中に、響く、声。

『パパがいいと言うまで、この扉の外に出てはいけないよ』

 言いつけを破ったコルネリアが見たのは、真っ赤な部屋だった。見慣れた絨毯も、家具も、何もかもが、人の体の内側に流れている赤いもので染まっていた。

 足元に転がっていたのは、コルネリアに己を『パパ』と呼ばせていた男で、それももちろん、真っ赤に染まって動かなくなっていた。

 ただ、その中で、別の色を持つものが一つだけあった。

 それは――赤の中に輝くように存在する、背の高い男だった。その顔を覆う髪は霧のように白く、肌も、身にまとう服も、ぶちまけられた赤の世界にありながら、染み一つついていない、清浄な白であった。

 こちらを見ているコルネリアの存在に気づいたのだろう、ゆるり、と振り向いた白い男は、酷く淡い色の目を細めたかと思うと……、忽然と、その場から消えていた。

 その男がエリオット・イーズデイルという名で呼ばれていると知ったのは、孤児となったコルネリアが、組織に引き取られてからしばらくしてのことだった。

 それから、コルネリアは何度も何度も、その日のことを思い描きながら、答えの出ない問いかけを続けていた。

 恨みはない。怒りも、悲しみも。

 ただ――知りたかった。

 コルネリアに向けて、寂しげに笑ってみせた、彼のことを。何を思ってコルネリアに微笑みかけてみせたのかを。

 

 

          *     *     *

 

 

「……エリオット」

「私はここにいますよ、コルネリア」

 コルネリアの呼びかけに応えるエリオットの声は、どこまでも静かだった。凪いだ海のような声だ、とコルネリアは思う。

 痛みはなかった。苦しみも。コルネリアがエリオットと出会って、最初に言われた通り。エリオット・イーズデイルはコルネリアとは比較にならないほどに優れた人殺しであり、それはつまり「どうすれば人が死ぬのか」を知り尽くしているということでもあった。

 体に力が入らず、視界がゆっくりと狭まっていく。そんな中、何とかエリオットの顔を見ようと、重たい瞼を開く。

 おそらくはコルネリアの体を支えているのだろうエリオットは、あくまで穏やかに微笑んでいた。ただ、その淡い色の瞳は微かに揺れているように見えたから、きっと、内心は別の感情で満たされていたのかもしれない。それも、あくまでコルネリアの想像でしかなかったけれど。

「ねえ……、エリオット」

「何なりと、コルネリア」

「これから、どうするの?」

「どうしましょうねえ。あなたのお陰で、この幽霊船が見つかるのも時間の問題ですし」

 エリオットの声には、ところどころに異音が混ざっている。もう、まともに呼吸もできていないのであろう彼は、それでもあくまでよく通る声で言う。

「本当に……、どうしましょうね」

『どうすれば』

 そう書かれていた航海日誌を思い出す。彼は本当にわからないのだろう。自分が何をすべきか。たった一つの胸に燻る未練に駆り立てられて、来るべき結末から逃げ出した彼は、しかし、その後どうすればいいのかを見失ってしまった。

 今までは、妄想に逃げ込むことで、かろうじて結論を先延ばしにしてきた。けれど、コルネリアが全てを暴いてしまった以上、それすらもままならなくなってしまったのだろう。エリオットは、コルネリアの手を握り締め、ぽつぽつと語り続ける。

「この海に、もはや人殺しは必要ない。死霊の王も、機動兵器の乗り手もお役御免である以上、息を止めるくらいしか――」

「本当に?」

 コルネリアは問う。

 エリオットは、気づいていないのだろうか。息を止めると言いながら、その目はぎらぎらと輝いていることに。儚く消えてしまいそうな色の中に、なお強い光を宿したままであることに。

 彼の未練はなお、消えてなどいない。その命が尽きるその瞬間まで、彼を駆り立て続けるに違いないのだ。

 コルネリアが――最高の最期を望んだように。

 彼もまた、このまま息を止めることを、望んでなどいないはずだ。

「本当にそれでいいの?」

 それは、と。言いかけたエリオットは、口を噤む。その表情は、輪郭こそぼやけ始めていたが、何かを必死に堪えているようにも見えた。

 なるほど、エリオット・イーズデイルは人殺しではあるが、それはあくまで上から命じられた、「秩序」のための殺人であった。彼がそのように己の存在を定義していた以上、胸を焦がす望みを自ら実現に移すのは極めて難しいのだろう。

『どうすれば』という言葉には、己自身では判断することすらできない、という、エリオット・イーズデイルと名づけられた「道具」の性質がよくよく表されていたと言える。

 しかし、それならば、コルネリアにも考えがある。

「なら、わたし、あなたにお願いするわ」

 力の抜けてしまった手で、それでも、何とか、エリオットの手を握り締める。ほとんど感覚の失われた手のひらに、彼の体温を焼き付ける。

 そして。

「どうか、あなたのお望みのままに、エリオット」

 コルネリアに捧げられた言葉を、今度は、コルネリアから、エリオットに捧げるのだ。

 エリオットは、はっと目を見開いて、コルネリアを見下ろした。一つ、二つ。ゆっくりと瞬きをしたかと思うと、その表情が、柔らかな笑みに崩れた。

「ありがとうございます、コルネリア」

 視界が動き、コルネリアの頭がエリオットの腿の上に載せられたことが、コルネリアにも何となくわかった。視界はどんどん狭まり、明るいはずの空も暗くなっていくのを感じる。

 そんな、確かな終わりに近づく中で、

「――フロイライン、コルネリア・ハイドフェルト!」

 突如として、高らかな声が響き渡る。

「感謝のしるしとして、子守唄代わりに一つ、私の物語を語って差し上げましょう!」

 エリオットは声を上げる。呼吸は酷く荒く、既に限界を超えているのだとわかったけれど、それでもエリオットは声を張ることを止めない。

 コルネリアも、止めない。

 それは今この瞬間、彼が彼としてあるために必要なことだと、信じていたから。

「あなたは、霧の天蓋の向こう側を見たことがありますか? 当然、見たことがないでしょう。霧の天蓋は何よりも遠く、何よりも高く、我々の頭上を覆っているものですから」

 ああ、確かに天蓋はあまりにも遠い。コルネリアの視界に映るのは、もはやコルネリアの顔を覗き込むエリオット一人になりつつあった。

「しかし、我が友は言いました。『この天蓋の向こうには、青い空が広がっている』と。そう、コルネリア、あなたの瞳と同じ色をしているのだと」

「そんなの……、聞いたことも、ないわ」

「ええ、そうでしょうね。私も最初に聞いた時は、己の耳を疑いました。しかし、我が友とその相棒は、そんな荒唐無稽な夢に向かって飛ぶことを選んだのです! 幾度として翼が折れかけても、誰に足を取られようとも、誰よりも速く、誰よりも高く、あの天蓋を突き抜けるように。飛んで、飛んで、飛び続けたのです」

 エリオットは眩しそうに目を細めてみせた。コルネリアにも、霧の海を蹴って、高く高く舞い上がる翼が、ほんの一瞬だけ、見えた気がした。その姿は、すぐに霧に紛れて消えてしまったけれど。

「その頃の私は――、そんな二人の背中を追う、しがない飛行艇乗りでした。私には二人のような大きな夢はありませんでしたが、夢を追い求める二人を見つめていられるだけで、幸福な気分でいられました。私自身を縛り付ける呪わしい境遇を、その時ばかりは忘れていられたのです」

 初めて海を舞う飛行艇を見た少年のように、無邪気に微笑んでみせたエリオットは、しかし、すぐにその表情を曇らせる。

「ああ、ああ、しかし、何ということでしょう。ある日のこと、双翼は折れ、霧の海の藻屑となってしまったのです。乗り手である彼らもまた、私の前から、姿を消してしまいました。私の脳裏に、遥かな高みを舞う翼への憧れと、青い空のイメージだけを残して」

 つまり、エリオットの目にも、もう、見えなくなってしまった、ということなのだろう。高く飛ぶ翼の姿も、天蓋の向こうに広がる青い空も。

「かくして、私は一人、霧の海に取り残されてしまいました。それから先は、あなたもご存知の通りです。もう飛ぶことはできないと己を縛り、海峡にたゆたう幽霊船の主として、妄想と未練を抱えて生き続けた――それも、今日で、終わりですが」

 そこで、物語は終わった。コルネリアは、小さく口を開いて問いかける。

「それは、あなたの作ったお話?」

「いいえ」

 薄暗い視界の中でも、エリオットが首を横に振ったことだけは、はっきりとわかった。

 そして。

「これこそが、私の物語です」

 薄闇に、響く声。

 その声の凛とした響きに、コルネリアは、自然と口元を緩めていた。

「素敵な、物語ね」

 それが、どれだけエリオットの無念に満ちていたとしても。

 生涯を通して道具であることを強いられていた彼が、一時だけでも「人として」生きた物語は、コルネリアには、闇の中で己から光り輝く、宝石のように見えたのだった。

 遠くから、何かが聞こえる。低く唸るような音。それがコルネリアの聞き間違いでないことは、顔を上げたエリオットの反応が証明していた。エリオットは、ふ、と息をつくと、うって変わって穏やかに告げた。

「コルネリア、私は飛びます」

「ええ」

「それが、望まぬ嵐を呼ぶことになろうとも。私は……、己の望みを、叶えたいと思います」

 音は、徐々に近づいてくる。

 果たして、コルネリアが『視た』情報は、正しく伝わったのだろう。幽霊船の主――エリオット・イーズデイルが隠した船を求める者たちが、今、まさに上空に集おうとしている。

 しかし、エリオットは動こうとしない。穏やかに微笑みながら、冷たい手で、コルネリアの頬を撫ぜる。

「コルネリア」

「何?」

 応えたつもりだったけれど、本当に声が出たのかはわからない。頬を撫ぜる手の感触も、近づいてきているはずの飛行艇のエンジン音も、こちらを見下ろすエリオットの笑顔も、何もかもが、失われようとしていたから。

 だから。

「      」

 ぽつりと、落とされた声も、もう、ほとんど聞こえなかった。

 けれど、エリオットが何を言おうとしていたのかは、不思議とわかった。

 その、たった一つの言葉を胸に、コルネリアは笑う。きっと、とびきりの笑顔を浮かべられたと信じて。

 

「わたしも」

 

 果たして――その声は、

 

「愛してる」

 

 彼に、届いた、だろうか。

 

 

 

 

The Legend of the Romancer on the Ocean: blackout.

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