最後の答え合わせ

「おはようございます、コルネリア」

 聞きなれた挨拶に、ゆっくりと瞼を開く。まず、目に入ったのは霧に覆われた真っ白な空――霧の天蓋で。一拍遅れて、コルネリアは飛び起きる。頭が激しく痛んだが、そんなことは気にしていられなかった。

「……近寄らないで」

 ふらつく足で何とか立ち上がり、服のベルトに隠していたナイフを抜き放って、構える。その切っ先は当然、普段と何一つ変わらぬ挨拶を投げかけてきた、船長へと向けられていた。

 しかし、船長は少しだけ困ったような顔をしながら、首を傾げるばかり。

「どうかなさいましたか? 何かご不興を買ってしまったなら、謝罪を――」

「もう、そんな三文芝居はいらないわ。わたしは確かに『視た』んだから」

 コルネリアは、ナイフを構えていない方の手で、己の右目を指す。この目には、一つ、秘密がある。それは「目にしたものを記録し、特定の場所に送信する」という記術が組み込まれている、ということだ。

 そして、その秘密を、きっと目の前の男はとっくに理解していたのだと思う。さしたる驚きは見せず、ただただ、酷くやつれた顔で苦笑するばかりだった。

「ええ、そうですね。『視られて』しまった以上、私も、覚悟を決めなければならないようです」

 そして、船長はコルネリアの前に膝をつき、一礼する。女王国式の、騎士が女王に捧げるそれとよく似た、優雅な所作で。

「名乗りを上げることができず申し訳ありません。私は生まれながらにして名を持たない身ではありますので――、とはいえ、あなたは私の『呼び名』もご存知なのでしょう、コルネリア」

 そう言って顔を上げた船長は、コルネリアを真っ直ぐに見上げていた。

「もちろん、よく知っているわ」

 コルネリアは、ナイフを握り締めたまま、一つずつ、記憶に刻み込まれた名を告げる。

「夜霧を渡る者、音のない嵐、死霊の王」

 それは現代の御伽話。長きに渡る戦争の影で、不可解な死を遂げる者たちがいた。その犠牲者は主に軍や政府の要人たちであったことから、戦場での死とはまた違う「目には見えない脅威」として名づけられた「架空の暗殺者」である。

 しかし、姿を見せないそれは、確かに「現実の暗殺者」でもあったのだ。

「――女王の鴉、エリオット・イーズデイル」

 エリオット・イーズデイル。

 主たる女王のために、女王の害となる存在の芽を啄ばむ鴉。生まれながらにして女王国の道具と定められた、人殺しの名。

 そして。

「その名で呼ばれるのは、本当に、久しぶりですね」

 船長――エリオットは、眼鏡の下で霧明かりと同じ色の目を細めて、ほんの少しだけ、微笑んだ。

 エリオット・イーズデイルについて、コルネリアが知っていることはさほど多くない。

 帝国との長き戦争で疲弊した女王国を守るため、誰に気配を悟らせることもなく帝国の要人を暗殺し、時には女王国に害をもたらすと判断された同胞の息の根も止めてきた殺人者であるということ。その腕ゆえに、まるで霧から霧へと渡り歩く姿なき悪霊のように語られてきた、現代において最も名を知られた暗殺者であること。

 そして――。

「あなたは、女王国の命に逆らい、死を装って姿を消した私を始末しに来たのですよね、フロイライン、コルネリア・ハイドフェルト」

 今から三年前、女王国軍の記録上は、死亡したとされていること。

 確かに生きながらにして亡霊であったその男は、ゆっくりと立ち上がり、大げさに肩を竦めて言う。

「いや、私を始末しに来た、というのは正しくないですかね。私はこの通り、放っておいても息絶える身、上がその事実を知らないとも思えません。ならば、あなたがこの場に派遣された理由は一つ、私の口を封じた上で、『あれ』の在り処を探ることでしょう。帝国と女王国どちらの思惑かは知りませんし、別に知りたいとも思いませんが」

「わたしが、どちらにも繋がっていると、気づいていたの?」

「闇に紛れる者とは、昔からそういうものですよ。女王の鴉である私とて、現役時代は帝国からの依頼で動いたこともありますから。きっと、あなたもそうだと考えるのが妥当でしょう」

 事実、エリオットは今に至っても、コルネリアに対して、極めて流暢な帝国語で語り続けている。その程度には、帝国の情勢にも通じている、ということだ。

「……そこまでわかっていて、どうして、これまで黙っていたの?」

「寿命に殺されるのも、あなたに殺されるのも、大した違いはありません。なら、その瞬間まで夢を見ていたいではないですか」

 幸せな、夢を。

 言って、エリオットは視線を足元へと向ける。そこで、コルネリアも初めて、自分が見たことのない場所にいると気づいた。

 そこは――一面の、花畑だった。

 背の低い黄色い花に、うっすらと紫色を帯びた柔らかそうな花。ひときわ鮮やかに咲き誇る赤い花。そして、コルネリアに似合うと言っていた、白く小さな花。

 そういえば、今まで、何度かエリオットが花を持ってきたことを思い出す。ただ、幽霊船の中で花が咲いている場所を目にしたことは、一度もなかった。もしかすると、コルネリアが隠されていた「船」を見つけたその先の区画に当たるのかもしれない。

 そんな、名もわからぬ花々を踏みしめて。まがいものの「船長」は、コルネリアに大きな手を差し伸べる。

「さあ、踊りましょう、コルネリア。どうせお互いに生きては帰れぬ身、最後まで楽しまなければ嘘でしょう」

 ――ああ。

 コルネリアは、差し出された手を前に、視界が滲んでいることに気づいた。ナイフを握った手が、震える。

 エリオット・イーズデイルが女王国海軍から奪い去った『兵器』の在り処を特定した上で、生ける死者であるエリオットに本当の死を与えろ。それが、コルネリアに与えられた命令だった。

 そして、エリオットの正体を知るものを、生かしておくことはできない。エリオット・イーズデイルはあくまで実在しない「御伽話」でなければならない。つまり、命令を果たした暁には、コルネリアもまた、息を止めなければならない。

 コルネリアは、しかし、そんな理不尽ともいえる命令を笑顔すら浮かべて受け止めたのだった。

 その時は、こんな結末になるとは、思ってもみなかったけれど。

「わたしに、帰る場所がないことも、わかっていたのね」

「あなたは、帰れるか否かを問いはしましたが、一度も『帰りたい』と望みませんでしたからね。せめて残された時間を安らかに過ごせるよう、願っていたつもりです」

 あの、至れり尽くせりと言っていい応対は、エリオットの「祈り」だったのだと、今になって気づかされる。誰かの望みのままに命を奪い続けてきた男らしくもない心遣いに、コルネリアは胸が締め付けられるような思いに囚われる。

「……優しいのね」

 ただの自己満足ですよ、と。エリオットはどこか自嘲気味に言い放つ。そんなエリオットの冷たい手を、コルネリアはそっと握る。片手には、ナイフを握ったまま。

 かくして、二人はどちらともなく踊り始める。花を踏み散らし、霧の中に色とりどりの花弁を舞わせながら、風の音だけを頼りに、手を取り合って踊る。

 本当ならば、体を動かすことも難しいはずだというのに、エリオットは身を蝕む病など感じさせない伸びやかな動きで、コルネリアをリードする。そうして、二人の顔が近づいたところで、コルネリアは、ずっと疑問に思っていた問いを、言葉にする。

「あなたはどうして、女王国から逃げたの? あなたを追う者など、誰もいなかったはず」

 何しろ、エリオット・イーズデイルは「姿なき殺人者」だ。ごく一部以外に彼の姿を知る者もなく、つまり彼は誰かに追われていたわけではない。仮に追おうと思ったところで、姿をくらませた彼の尻尾を掴むのは、至難の業だ。今の今まで、そうであったように。

 しかし、エリオットはゆっくりと首を横に振ってみせる。

「……いいえ、私はずっと追われていましたよ。『終わり』に」

「終わり?」

「ええ。嵐の終わり。長き戦乱の、終わりですよ」

 とん、と。エリオットの足が地面を軽やかに叩く。

「今から三年前、全世界規模の無差別テロによって恐怖を振りまき、帝国と女王国間の一時停戦を導くきっかけとなった『原書教団オリジナル・スクリプチャ』の教主オズワルド・フォーサイスが、『翅翼艇エリトラ』を駆る女王国の英雄ゲイル・ウインドワードの手によって討たれました。これにより、世界はやっと休息を得ることになりました」

 未だ、帝国と女王国の間の戦いは再開していない。帝国も、女王国も、長き戦いに疲弊しきっていたのだ。水面下では両国上層部による終戦に向けた調整も始まっていると、コルネリアは上から聞かされている。

 戦争は、今この時をもって、本当の意味で終わろうとしているのだ。

「しかし、戦が終わり、霧の海が凪ぐ。とすると、霧に姿を隠し、嵐に乗って、人の命を奪うことしか能のない『死霊の王』は不要――いえ、女王国にとっての害悪と言ってもいいでしょう」

「でも……、それは、あなたに望まれた役割だったのよね?」

「ええ、都合のいい、使い捨ての道具としての」

 エリオットは、笑っていた。けれど、その笑顔は空虚だった。

「道具とはいつの世もそういうものですし、私も了解していました。いつか捨てられることに対する感慨も、特にありませんでした。どうせ、私にはそれ以外の生き方などできないのです、時代に不要と判断されれば、一息に息の根を止めてもらえばいいとすら、思っていました」

「でも……、あなたは、未練があるって、言ったわ」

 コルネリアは知っている。初めて彼の腕に抱かれた時、一時だけ正気を見せた彼が吐き出した弱音。本来、死にまつわる御伽話以外に何も持たず、やがては死の世界へと還って行くはずの死霊の王が、このような形で現世にしがみつくのには、理由があるはずだった。

 かくして、エリオットは深く頷いて、コルネリアの手を離す。そして、霧に満ちた天蓋を仰ぐのだ。

「そうです。私は、未練を捨てきれなかったのです。霧を裂き、高みに至る翼への未練を」

 ――翅を打ち鳴らし、霧の海を往く悦びを、知ってしまったがために。

 そう言ったエリオットの表情は、コルネリアが今まで見たことのないものだった。いつもどこか曖昧な焦点の目には強い光が宿り、今にも命が失われようとしているとは思えないほどの力強さで、霧の海の高みを、天蓋を見据えている。

 エリオットが何故、女王国最強とも謳われる機動兵器、翅翼艇エリトラに触れるに至ったか、コルネリアは誰からも聞かされてはいない。ただ、エリオット・イーズデイルという「伝説」を思えば、何となく想像はつく。

 彼にとって、それは元々単なる仮面の一つだったに違いないのだ。人の中に紛れ、人を殺す、それが彼の生業であったから。望まれた仕事に必要な立場と役割、その一つがもしかすると翅翼艇エリトラの乗り手だったのかもしれない。

 もちろん、それはあくまで仮面であって、いつかは脱ぎ捨てるはずのものであった。

 そうでなければ、ならなかった。

 だが、エリオットはここにいる。女王国内では「喪われた」とされる翅翼艇エリトラと共に。

 それがきっと――、彼の出した答えであり、彼をこの世に繋ぎとめる、未練なのだ。幽霊船と、幾重にも重ねられた妄想に隠した、彼が真に守り通したかったものなのだ。

 コルネリアは、天蓋から視線を落としたエリオットに、ふと、微笑んでみせる。

「だからといって、盗むのはよくないわ」

「盗んでなどいませんよ、返却の手続きを行っていないだけです」

「それを一般的には『盗んだ』って言うのよ」

 それもそうですね、とエリオットは愉快そうに笑う。つられてコルネリアも笑ってしまう。二人分の笑い声が、誰も知らない幽霊船の上の、ほんの小さな花畑に響く。

 ああ、ああ。

 声を上げて笑いながら、コルネリアは胸の前でナイフを握り締める。

 こんな風に笑うことができるなんて、思いもしなかった。自分自身の笑い方など、とっくに忘れてしまったと思っていたから。

 ――ああ、なんて、幸せな時間なのだろう。

 とん、と。コルネリアは、エリオットの胸に額をつける。まだ、かろうじて、心音を奏でているであろう、その薄い胸に。

「……コルネリア?」

 コルネリアは片手でエリオットの手を取って――もう片方の手に握っていたナイフを、エリオットの手に握らせる。そして、真っ直ぐに、彼を見上げる。

「お願い。あなたの腕の中で、わたしの時間を止めて」

 エリオットは、ずれた眼鏡の下で、目をぱちりと瞬いてみせた。しばしの沈黙の後、薄い口元に柔らかな微笑みが浮かび、唇が開かれる。

「何故、を伺ってもよろしいですか」

「……わかってるくせに」

 きっと、この男はコルネリアの望みの意味をわかっている。そうでなければ、ここまで、コルネリアに向けた芝居を続ける理由はなかったから。

 それでも「何故」を問うのは、きっと、わかっていたとしても、聞きたかったのだろう。コルネリアの真意を、コルネリアの言葉で。

 だから、コルネリアは笑顔でエリオットに応える。

「わたしを生かしてくれたあなたに、殺してもらう。それが、わたしがここに来た目的だもの」

「コルネリア……。やはり、あなたは私を恨んでいるのですね?」

 ――あなたを殺せなかった、私を。

 そう言ったエリオットは、穏やかな笑顔ではあったけれど、重ねた手は震えていた。

 やはり、この男は覚えていたのだ。もしくは、途中で「思い出した」のかもしれない。例えば初めて寝台を共にした夜、コルネリアの名前を聞いた、その時に。今それを理解したところで、どうしようもなかったけれど。

 コルネリアは、エリオットの手を強く握ったまま、きっぱりと首を横に振る。

「いいえ、恨んでなんかいないわ。あの日のあなたは、手を誤ったのかもしれない。でも、お陰でわたしはここにいる。あなたの手を握っている。あなたから貰ったたくさんのものを、抱えている」

 エリオットは、コルネリアの死に向かう旅路を鮮やかに染め上げてみせた。それは現実味のない幽霊船の不思議であり、荒唐無稽な冒険譚を語る船長とのやり取りであり、他愛もない、けれど今までのコルネリアの世界には存在しなかった「日常」であった。

 それは、コルネリア同様に――もしくはそれ以上に、人間らしさを削ぎ落として生きてきて、その一方で「人間らしさ」に拘り続けたエリオットだからこそできた芸当であったに違いない。

 それが、どこまでも彼の自己満足であったとしても。

 コルネリアは、その「自己満足」に、今この瞬間、確かに救われたのだ。

「だから、わたしは望むのよ、船長。このまま、わたしの時間を、止めてちょうだい」

 エリオットは、ナイフの握りに指を這わせ、コルネリアを見下ろした。酷く、寂しげに。そんな顔を見られただけでも、コルネリアには十分すぎた。コルネリアは今、確かに、彼の物語になったのだという確信が持てたから。

 その確信を抱いたまま、終わらせてほしい。そんな切なる「望み」を受けたエリオットは、かくして、コルネリアの耳元で囁く。

「あなたのお望みのままに、コルネリア」

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