残された時間でできること
それからも、船長の体調は日に日に悪化していくばかりだった。
今日の船長は、コルネリアが押し込むまでもなく寝台に横たわり、今はコルネリアの手を握ったまま、瞼を固く閉じて眠っていた。かつて「眠ることができない」と語っていた彼らしくもなかったが、ここしばらくは目を覚ましている方が難しそうだった。
呼吸の中に混ざるのは、高くか細い異音だ。もう、長くはないのだと語った船長は、眠りに落ちる前、必ず目覚めますからご心配なさらず、とコルネリアに笑ってみせたけれど。
――時間がない。
コルネリアは、船長の手を強く握って、思う。
コルネリアにとって、船長の命が残り短いというのは、本来の想定の外側にあった。この幽霊船での歪な共同生活が、いつまでも続いていくという楽観的な思い込みが覆されてから、コルネリアの胸を支配するのは焦燥だ。
――時間が、ないのだ。
船長がいつになく深く眠っているのを確かめて、コルネリアは船長の手を放した。そして、船長室の一角、海図に隠されてよく見えない、壁の継ぎ目の前に立つ。
観察は終わりだ。ここから先は、帰り道のない、一方通行。
否、元よりそのはずだったのだ。船長の温度が移って冷えた手を握って、開く。この温度が不思議と心地よい。心地よいと感じてしまったのが、全ての間違いだったのだろうか。それとも。
「間違いなんかじゃ、ない」
自らに言い聞かせるように呟いて、コルネリアは、そっと、壁に手をつく。
音もなく、壁が横に滑り、その向こうに伸びた通路をあらわにする。この隠し通路を見つけたのは偶然ではない。時々船の上から船長が消える理由。その正体を暴くために、コルネリアは度々船長室を訪れ、この瞬間まで留まっていたのだ。
自動的に壁の扉が閉ざされる前に、細く狭い通路の奥に、素早く体を滑り込ませる。この通路は普段からよく使われているのだろう、ところどころに淡い光が灯り、足元を照らしている。
通路の先からは奇妙な音が聞こえていて、歩みを進めていくにつれて徐々に大きくなっていく。やがて、音の出所が終点の扉の向こう側からであることがはっきりした。
扉を開くと、ノイズ混じりの無数の音が耳の中に飛び込んでくると同時に、急に視界が開ける。とはいえ、コルネリアの視界に映る部屋はそう大きなものではなかった。もしくは、それなりに広いはずでありながら、部屋いっぱいに詰め込まれた、この無数の音を発生させている機器が視覚的な圧迫感を訴えている、と言った方が正しいかもしれない。
「……通信室」
そう、そこにあるものはいくつもの通信機であった。おそらくは元から通信室として使われていた部屋なのだろう。
だが、よくよく見れば、通信機は絶えず外から飛び込んでくる通信を受信しているようだが、「送信」に相当する機器が見当たらない。機器には送受信を兼ねるものもあったが、送信にまつわる部分だけが、執拗なまでに叩き壊されている。
「これじゃあ、救助を望むこともできない、ってことね」
ただ、そのくらいはコルネリアの想定内であった。この幽霊船は「外に繋がる」ものをことごとく排除している。信号弾もなければ、脱出艇もない。当初は、コルネリアを逃がさないためと思っていたが――。
「船長、あなたは、どうして」
――どうして、自ら退路を塞いだのか。
通信機の壊れ方や埃の積もり方を見る限り、明らかに最近壊されたものではない。要するに、船長が一人であったころには、助けを求めるために必要なものをことごとく排除していた、ということだ。
おそらくは金槌などの鈍器で壊されたのであろう、すっかりめちゃくちゃになったそれに、そっと手を触れる。
彼が抱えている背景について、少しずつわかってきたつもりであったが、それでも彼の行動指針は未だにコルネリアの理解を超えていた。
理解したところで意味はない。コルネリアの目的には関係がない。それはわかっている。わかっている、けれど。
思考が堂々巡りに陥りかけたその時、ざざ、という一際激しいノイズが意識に割り込んできた。はっとしてそちらを見ると、通信機の一つが、今ちょうど通信を受信したところだったらしい。
『……日の、霧惑海峡における、偵察機の撃墜に関する調査は現在も進んでおりません』
霧惑海峡。偵察機の撃墜。そんな事件は、コルネリアは知らない。幽霊船の外のことを知る手段もなかったのだから、当然だが。
しかし、通信が告げた日付は、ちょうど、船長が初めてコルネリアの前で倒れた日だったような気がする。あの日、船長が倒れるまで何をしていたのか、コルネリアは知らない。あの瞬間まで、船長の姿を見つけることはできなかったのだから。
しかし、あの日、もう一つ気になったことがあったと、今になって思い出す。
その日の朝方耳にした、奇妙な音。甲高い、鳥の鳴き声のような。船長は海鳥の声だと言っていたけれど。
――あれは、本当に、海鳥だったの?
そもそも、この霧惑海峡は、海鳥すらも近寄らない魔の海域だと言われている。事実、今まで海鳥の声など、コルネリアはあれ以外に一度も耳にしていない。
あれは、もしかして、この海峡に舞い降りた飛行艇が放った、信号か何かだったのでは?
そんな疑問に、答えるものはない。通信はコルネリアの疑問には答えず、淡々と調査状況の報告だけを進めていく。
『結果として、偵察艇の撃墜原因は不明です』
不明、という言葉を繰り返すばかりで、通信からは正確なことが何一つわからない。否、「わからない」ということがわかった、といえばいいのか。
コルネリアは、ここから情報を得ることを諦めた。どうやら、ここにコルネリアが求めていたようなものは、なさそうだったから。
――とすれば、残る道は、一つだけ。
通信室にはコルネリアが来た扉とは違う、もう一つの扉があった。この先を探っても何も見つからなければ、もう、全てを諦めて、船長に残されている時間を共に過ごすことにしようと心に決める。
扉を開く。やはり、鍵はかかっていなかった。
その向こう側にあったのは、下りの階段だった。今度は灯りすらもついておらず、ランプを持ってくればよかったと後悔するが、今更部屋に戻って、船長に気づかれても意味がない。そのまま、手すりを掴んで一歩、階段に足をかける。
ゆっくり、足元を確かめながら進んでいるからだろうか、階段は酷く長く感じられた。もしかすると、海の濃霧面よりも低い場所に導かれているのかもしれない。どこまで続くかもわからない階段を、一歩、一歩、己の爪先が踏みしめる感触だけを頼りに進んでいく。
息が苦しいのは、何故だろう。空気が薄いのか、それとも、極度の緊張ゆえか。
意識して深呼吸して、もう一歩、階段を下りたところで、足元の感触が変わったことに気づいた。もう片方の足を踏み出せば、その先に段がないことに気づく。
階段が、終わったのだ。
壁に手をついて、そろそろと進む。そのうちに、行き止まりに突き当たった。闇の中に立ちはだかる壁を探っているうちに、取っ手のようなものに手がかかったので、それを迷わず押し込む。
すると、するりと壁だと思われていたものが開き、闇に慣れていた目に、強烈な光が飛び込んでくる。慌てて腕で目を隠したコルネリアは、何とか目が光に慣れてきたところで、ゆっくりと腕をどかす。
そこは――、広く、切り開かれた空間だった。
壁は高いが天井はなく、外の霧が光を伴ってそのまま床にまで届いている。
そして。
「……これ、は」
部屋の中心には、コルネリアが見たことのない「船」があった。
おそらくは人一人がかろうじて乗れる程度の、小型飛行艇。そこまではコルネリアにも判断できたが、その形があまりに異様だった。
本来、飛行艇にあるべき長い翼はなく、かといって霧を船体に溜めて浮かぶような形状でもない。
一言で言えば、それは「蟲」に見えた。細長い船体も、その船体に張り付くように存在する鞘翅も、全てが白く塗装され、空間に充満する霧に今にも溶けて消えてしまいそうだ。
そして、コルネリアは、実物を見たことがなくとも、この船がどのように呼ばれているのかを知っていた。
「『
「なるほど。やはり、これがあなたの目的でしたか」
突如、耳元で囁かれる声。
コルネリアは息を飲み、声の聞こえた方を振り向こうとして、
ぶつん、と。
意識が、落ちる。
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