或る穏やかな日の話
それからというもの、日に日に船長の体調は悪化していった。
朝の仕事をこなしている途中で身動きが取れなくなることもあれば、丸一日寝台から起き上がれないこともある。そういう時に、この船の仕組みや食糧や服の置き場を教わっていてよかったと思うが、根本的な解決にならない。
――できるならば、この船を離れて、すぐにでも医者に駆け込みたい。
それで、船長曰くの「寿命」が伸びるわけではないのかもしれないが、少なくとも、船長がこれ以上無理をして、ただでさえそう長くはないという命を縮めることにはならないはずだ。
一方で、仮にこの船を離れる方法が存在しても、船長はこの船を離れようとしないだろう、という確信もあった。船長はこの船から離れることを望んでいない。己の命が尽きるその時まで、霧惑海峡の幽霊船の主として、ありもしない妄想に浸って生きるのが彼の望みであるのかもしれないとも、思うのだ。
どうにせよ、現実にはこの船から出ることなど不可能であって。
コルネリアは、日々弱っていく船長を見つめていることしかできないのだ。
* * *
いつの間にか閉じていた瞼を、開く。
船長の横で彼の寝顔を見ていたつもりが、自分の方が眠っていたらしい。ここしばらく――船長が倒れたその日から、再び眠れない日が続いていたから。これは、コルネリアが抱えている過去の悪夢のせいではない。ただ、自分が眠っている間に船長が息を止めてしまうのではないかという不安がそうさせているのであった。
その、船長が、いない。
はっとして飛び起き、慌てて船長室の扉を開き、船長の姿を探す。まさか、本物の幽霊のように魄霧に溶けて姿を消してしまったのではないか、というあり得ない仮定が脳裏をよぎるけれど、実際にそんなことあるはずもなく。船長は、白く薄い上着を羽織った姿でたった一人、甲板に佇んでいた。
「船長!」
声をかけると、船長は長く伸びた髪を揺らしてこちらを振り向き、髭の下で笑ってみせる。
「おはようございます、コルネリア。今日は随分と暖かな朝ですね」
「……体は、大丈夫なの?」
「ええ。今日は、随分と気分がよいのです」
そう言う船長の声は確かにここしばらくの中では最も張りのあるものだったから、コルネリアを安心させるための嘘ではない、ということはわかる。
けれど、甲板の端に立つ船長の姿は、初めて出会ったその時よりもずっと衰えていて、今にもその場から消えてしまうのではないかと思えるほどに、気配が薄まっていた。
透明になっていく。そんな言葉が、コルネリアの脳裏によぎる。
温度を失い、形を失い、透明になっていく。やがては、指先から霧に溶けて誰の目にも見えなくなってしまう。
視線の先、今にも霧に霞んでゆきそうになる船長を見ていられなくて、気づけば、駆け寄ってその体を抱きしめていた。
「……コルネリア?」
怪訝そうな船長の声が降ってくる。それにも構わず、コルネリアは船長のかたちを体全体で確かめる。船長はまだここにいる。生きている。――彼が「死者」を名乗っていたとしても、彼はまだ、透明ではない。かたちを、失ってなどいない。
「コルネリア。……私は大丈夫ですよ。ご心配なさらず」
「嘘つき」
「そうですね、確かにこれは詭弁です。あまり、大丈夫ではありません」
意識せずとも湿ってしまった声に、船長はいつになくおどけた口調で返してきた。それは、彼なりの不器用な心遣いだったのかもしれない。
そして、船長はコルネリアの肩を抱いて、そっと囁くのだ。
「それでも、私は、あなたを置いて消えることはありません。それだけは、この船の船長としてお約束します」
今度は「嘘つき」とも言えなかった。船長が自ら意図して嘘をついたことは、多分一度もない。妄想を語ることも、近頃はほとんどなくなった。単純に、何かを物語る心身の余裕が無くなっただけかもしれないが、それでも、船長が、コルネリアに対して真摯であろうとしていることは、もう、疑う理由がなかった。
「さあ、今日は何から手をつけましょうか? 随分と仕事を溜め込んでしまいました、船内の見回りもしなくては」
陽気に言いさした船長の唇を、指で塞ぐ。いつしか、船長がコルネリアにそうしたように。
それから、コルネリアは――ここしばらく、ずっと考えていたことを言葉にする。
「髪を切らない?」
「……髪を?」
「それから髭も。近頃、寝たきりのことも多いでしょう? 伸ばしたままだと、日々の手入れも大変だわ」
口ではそう言ってみるが、これはあくまで理由の一つでしかない。もちろん、これはこれで大切な理由ではあるのだが。
「それにね」
一番の理由は、ごくごく簡単なことだ。
「わたし、あなたの素顔を見たいの」
その言葉に、船長はしばし押し黙った。その反応は、コルネリアの想定の範囲内だった。だから、あえてわざとらしく首を傾げてみせる。
「嫌?」
「嫌……、というわけでは、ないのですが」
嫌なのだな、ということだけははっきりわかった。船長は意図して嘘はつかないが、自分自身でも上手く表現できない感情を持て余すところがある。そして、彼が口ごもったり、首を縦に振らないということは、大抵コルネリアの提案が自分にとって都合が悪い、もしくは自分の意志に反しているということだ。
これで、もし「コルネリアのためにならない」もしくは「危険を伴う」という類の提案であれば、船長は即座に首を横に振り、コルネリアを諭しただろう。しかし、そういうわけでもないということは、本当にこれは船長個人の気分の問題でしかないらしい。
「そもそも、あなた、どうしてそこまで髪や髭を伸ばしていたの? 全然似合ってないわ」
何せ、頭の先から爪先まで、センスはともかくとしてもきちんと整えようと努力しながら、髪と髭ばかりがぞろりと伸ばされているのだ。船長から受ける「ちぐはぐさ」の要因の一つといえる。
しかし、それがわかっていないらしい船長は「似合っていないでしょうか」と戸惑いつつも、少しだけ声を下げて言った。
「……私は、自分の顔が嫌いなので」
その言葉には、コルネリアも一瞬呆気にとられてしまった。
嫌い。そういえば、船長は自分自身について語ることがほとんどなかったのだと思い至る。妄想の中の幽霊船長ではなく、「ここにいる」自分自身のことを。
そんな彼にとって、自分の顔が嫌いなのだ、という告白は、彼なりの精一杯の意思表示だったに違いない。それ以上は何も言わずに、大きな体を丸めるだけだった。
船長には悪いが、少しだけ愉快な気分になる。船長にも「嫌い」なものがあるということ。それを、コルネリアにそっと告白してくれたことも。コルネリアにとっては、そんな些細なことも、嬉しかったのだ。
だが、それはそれ、これはこれだ。
「あなたが嫌いでも、わたしは、あなたの顔をきちんと見たいの。ダメかしら?」
ここで断られるなら、諦めようと思った。何も船長の嫌がることを強いたいわけではないのだ。これは単なる思い付きで、コルネリアのちょっとした「願い」である、ただそれだけ。
とはいえ、船長はその言葉に首を横には振らなかった。ふ、と小さく息をつき、いつもの通りに笑って言った。
「あなたのお望みのままに、コルネリア」
* * *
かくして、コルネリアは船長の濡れた髪に鋏を通す。金属が触れ合う音と共に、色という色が抜け落ちた白い束がひと房、甲板の床板に落ちる。
「……ねえ、船長」
「何でしょうか、コルネリア」
「随分、痩せてしまったのね」
「痩せているのは昔からですよ」
痩せている、というよりもやつれている、というべきだろうか。船長の背後から、時折その輪郭に視線を向けて思う。
髪を洗い、髭を剃った船長の頬にはほとんど肉がついていなかった。顔の骨に皮がかろうじて張り付いている。そんな印象。とはいえ、改めて観察してみる限り、船長が「嫌い」というほど醜い顔立ちではないとコルネリアは思う。
尖った顎。薄くも品を感じさせる唇、それから細長い鼻梁。もう少し肉がついていて血色がよければ、本当にどこにでもいるような青年と思われた。――そう、青年と言ってもいいくらいの年齢だろう。初めて寝台を共にした夜から何とはなしにわかっていたことではあったが、船長は当初の印象よりもずっと年若い。
故にこそ、船長がこともなげに言った「寿命」という言葉が酷く重たく圧し掛かってくる。どれだけ船長が「消えない」と約束してくれても、船長の命が霧の海に溶けて消えるまで、そう遠くないことは間違いないのだ。
一つ、二つ。鋏を入れるたびに、伸ばされていた髪が床に落ちる。それは、船長がこの船で過ごしていた時間、そのものであったのかもしれない。
それきり、お互いに口を利くこともなく、凪いだ甲板の上には船が軋む音と鋏の音だけが響いていた。時折、船長の喉から漏れる少し甲高い異音が、彼の体が壊れ始めていることを突きつけてくる。
「船長、苦しくない?」
「ええ、大丈夫ですよ。少し息苦しいですが、痛みはありませんから」
コルネリアの問いかけに対する船長の答えは、決して楽観できるものではない。船長は今までコルネリアの前で「痛み」を感じた素振りを見せたことがなかったから、おそらく、この男は「痛み」をそれとして感じられないのだ。本人がそれに気づいているのかいないのかは、わからないけれど。
だから、自分の体がどれだけ壊れているのかも、自覚できない。
つい、鋏を操る手が、止まる。今はこうして確かに船長に触れていられるけれど、これが終わったら今度こそ船長が消えてしまうような気がして。
果たして、その動揺は船長にも伝わったらしい。こちらを振り向かないままに、ぽつりと言葉を落とす。
「私を心配しているのですか、コルネリア。あなたをこの船に縛り付けている、私を」
「そんなの今更だわ。……あなたがいなくなったら、困るもの」
「そうですね、困ってしまうでしょう。ですから、あなたの望みを叶えるその時までは消えたりしません。コルネリアが信じられないならば、何度でも言いましょう」
ひゅう、と。笛のような異音を鳴らしながらも。
「私は、ここにいます」
船長は、きっぱりと、言い切った。
根拠などどこにもない、戯言と言ってしまえばそれまでだ。それでも、船長が己の言葉を疑っていないことだけは、コルネリアにもはっきりとわかった。
わかってしまうからこそ、コルネリアは問いかけずにはいられない。
「船長」
船長。――未だ本当の名前も聞かせてはくれない、その男に。
「あなたは、どうして、私の望みを叶えようとしてくれるの?」
「それが、この幽霊船の船長としての責務であるからです」
「嘘だわ。そんなの嘘。だって、あなたは」
それ以上の言葉は、コルネリアの喉から漏れることはなかった。船長が「コルネリア」と呼んだから。彼女の「名前」を、呼んだから。船長は振り向かないまま、淡々と、けれど不思議とよく響く声で言う。
「今この瞬間は、嘘ではありませんよ。私はこの船の船長で、あなたはその客人です、コルネリア。それが、かりそめの『役柄』であろうとも。私は『船長』である限り、この役目を全うしてみせましょう」
こう言われてしまっては、コルネリアは、何も言えなくなってしまう。彼は狂ってなどいない。狂っていないからこそ、彼の言葉を覆すこともできない。改めて、それを認識してしまったから。
ぱちり、と。鋏の音とともに、最後の房が、落とされる。
船長の肩にかけていた布を払い、残った毛を軽く払って、それから、船長に手鏡を渡す。この船にある鏡は、コルネリアの客室にあるもの以外のほとんどが壊されていて――もしかすると、船長はコルネリアが思う以上に自分の顔を目にしたくなかったのかもしれない――その手鏡も、おそらくは唯一、コルネリアのために用意されたものだった。
船長は、すっかり短くなった髪を撫ぜ、手鏡の中に映る自分を一瞬だけ視界に入れて、それから鏡越しに苦笑してみせる。
「酷い顔ですね」
「そうでもないと思うけど」
「いえ。やはり、私は自分の顔が好きになれそうにありません」
率直といえば率直な感想と共に、船長はこちらを振り向く。何も隠すもののない、淡い霧明かりの色を宿した双眸が、コルネリアを捉えて微笑む。
「ありがとうございます、コルネリア」
あまりにもその言葉が、その瞳が、真っ直ぐに過ぎて。コルネリアは、胸がぎゅうと締め付けられるような気分になる。
「自分の顔を直視するのは快いものではないですが、あなたの顔が明るく見えるのはいいものですね。……ええ、私には眩しすぎるほどです」
コルネリアは思わず硬直してしまうが、何とか我に返って切り返す。
「それは、目が弱いからでしょう? はい、眼鏡」
船長の目はコルネリア以上に光に弱い。普段、煤けた丸眼鏡を外そうとしなかったのも、それが理由なのだと今のコルネリアは知っている。
もはや髪にも髭にも覆い隠されていない顔であからさまな苦笑を浮かべ、船長はコルネリアから受け取った丸眼鏡をかける。コルネリアはそのまま布を抱えて、船長に背を向けて甲板を後にしようとする。
すると、背中から、いつになく静かな船長の声が聞こえてきた。
「それでも。あなたは眩しいですよ、コルネリア。だからこそ、だからこそ私は、あなたの願いを叶えたいと希うのです」
その柔らかな声に、コルネリアは振り返らなかった。振り返って、船長の表情を見る勇気が無かった。
もし、ここで折れてしまったら――それこそ、この場にしがみついている理由も、何もかもが失われてしまうのだから。
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