転機、海鳥の呼び声

 嵐の日以来、コルネリアは、船長と共に眠るようになった。

 決して安らかな眠りを約束されたわけではない。不安と焦燥はいつだって胸の中で燻り続けている。それでも、船長の腕の中にいると、今までよりはずっと穏やかな心地になれた。その時ばかりは、コルネリアを苛む過去の痛みを忘れることができた。

 それが、別に愛などない、ただただお互いの孤独を確かめ、慰めあうだけの行為であろうとも。

 

 それが――、ただの、結論の先延ばしであろうとも。

 

「おはようございます、コルネリア」

 耳元で囁く柔らかな声と、頬を撫ぜる冷たい指先。コルネリアが瞼を開ければ、目の前に船長の顔があった。船長は今にも溶けそうな淡い色の目を細めて、身を起こす。晒された上半身は酷く青白く、それでいて無駄なく引き締まっている。血の気の失せた肌の上に、すぐ側に脱ぎ捨てたままであった服を羽織って、改めてコルネリアに向き直る。

「まだ横になっていて構いませんよ。朝食の準備をいたしますので」

「いいえ、わたしも……」

「昨晩は、随分遅くまで話をしていたでしょう? もう少し眠っていて大丈夫ですよ、そのままお待ちください」

 身を起こそうとするコルネリアを制して、船長は手早く着衣を整えてと船長室を出て行こうとしするが、その時、遠くから、高く、高く、何かの音が響いた。耳慣れないそれにびくりと身を震わせるコルネリアに対し、船長はいたってのんびりとした調子で言った。

「ああ……、海鳥ですね。今日は、いい陽気のようです」

 しかし、その横顔は、笑っているように見えて、どこか、普段の彼とは違うように見えた。うっすらと開かれた目が、いやに、鋭い光を帯びていた、ような。

 とはいえ、その違和感はごく一瞬のことで。煤けた丸眼鏡の奥に瞳を隠した船長は、「ゆっくりお休みください」と言葉を残して部屋を去っていった。

 確かに、まだ体が重かったので、素直に布団を被って横になる。船長が去った後も肌に、もしくは体の内側に船長の温度が宿っているようで、コルネリアはその名残を確かめる。

 幾夜となく肌を重ねてなお、船長は変わらず妄想の世界に生きていた。コルネリアを冷たい腕で抱きしめながら、耳元で囁くのは、いつだって遠い日のありもしない記憶だ。

『あれは何度目の航海だったでしょうか。絡繰仕掛けの国で、薔薇の名を持つ人形の姫に謁見したことがありました。それはそれは美しく……、それでいて、苛烈なお方でした。その身が崩れ落ちるその時まで、己の内側に燃え盛る熱に生きた方でした。今も、その器は薔薇の園に眠っているとか、いないとか』

『コルネリアは猫はお好きですか? 東の東、極東の国よりも更に東には、猫だけが暮らす楽園があるそうですよ。と言っても、これに関しては私も実際に見たことはありません。船に乗り合わせていた、その島の出である猫が教えてくれたお話でしたから』

『今もまだ、ペンギンの王はどこかの海を泳いでいるのでしょうか。かの王様はとても気まぐれですからね、案外、この海峡に現れるかもしれませんよ』

 海図を指差しながら、一つ、一つ、物語る船長の声は弾んでいたけれど、その横顔は、やはりどこか寂しげだった。彼が既にそれを「妄想」だと認識していて、酷く冷めた目で己自身を見つめていることは、コルネリアにもはっきりと理解できていた。

 それでも、船長は、妄想を語ることをやめない。やめられないのかもしれない。

 一体、船長を妄想へと駆り立てるものは、何なのだろうか。

 そんなことを思いながら、コルネリアは、二度目の眠りに落ちて行く。

 

 

          *     *     *

 

 

 瞼を開ける。

 船長室は静かで、投げかけられる挨拶もない。見渡してみても船長の姿はなくて、机の上にコルネリアの分の朝食――もしかすると、もう刻限は昼かもしれないけれど――が置かれているだけであった。

「……船長?」

 当然、問いかけに応える声も、なかった。

 とりあえず、コルネリアのために用意された白いドレスに身を包み、味気のない朝食を腹に詰め込む。朝食だけは食べておかないと船長がものすごく悲しそうな顔をするし、食事の大切さを延々と説かれる羽目になる。一度それに辟易してからは、きちんと食事を摂るようにしている。

 そうして、コルネリアは船長室を出て、幽霊船の上を歩いていく。確かに今日はいい陽気で、船の上を駆けていく霧風も普段よりはずっと温かかった。そして、一通り、船長に立ち入りを禁止されている区画以外の場所を歩き回ったところで、違和感に気づいた。

 ――船長が、いない。

 今までも時々、そういうことはあった。幽霊船は確かに広いが、それでも人が歩ける部分はごく限られていて、その中から船長を探すのはさほど難しくはない。そんな幽霊船の上から、船長の気配が忽然と消えるのだ。今までは単純にコルネリアの探し方が悪いのだと思っていたが、幽霊船の構造が把握できてきた今は、それこそ足取りが全く掴めないのは不気味ですらあった。

 とはいえ、闇雲に船長の姿を探しても仕方がない。コルネリアは諦めて船長室に戻り、何気なく、机の上に置かれた一冊の本に視線をやった。

 航海日誌。そう、船長は言っていた。日々の冒険の記録を綴ったものである、と。

 表紙に手を伸ばし、無造作に開く。鍵がかかっているわけでもなければ、見ることを禁止されているわけでもなかった。人の日記を覗き見るようで多少の後ろめたさはあったが、それでも船長は笑って許すだろう、というごく楽観的な気持ちでいた。

 ――だが。

「……何、これ」

 コルネリアの口から、思わず声が漏れた。

 最初のページを埋め尽くしていたのは、酷く乱れた筆跡で綴られた、短い、女王国語の文章の羅列だった。

『何故逃げてしまったんだ。逃げたところで、行き場などないというのに』

『私はこれからどうすればいい』

『どうすれば』

『どうすれば』

『どうすれば』

 どうすれば。その問いかけは、数ページにも及んでいた。いくつか、答えのような文字列がその横に綴られていたが、べったりとインクで塗りつぶされていてコルネリアには読み解くことができない。

 そして、永遠に続くと思われた問いかけは急に終わる。乱れていた筆跡がまるで別人が書いたような流麗な筆記体に変わって、以下のような文章を記していた。

『冒険の旅を始めよう。そうだ、冒険をするんだ。遠い場所へ、誰も私を知らない場所へ。私にはできなかったことをすればいいのだ。そして、過去など忘れてしまえばいい』

 そこからは、確かに船長の言うとおり『冒険の記録』になった。主に女王国語、時折帝国語や別の言語で綴られるそれの中には、コルネリアに語って聞かせたものもいくつか含まれている。

 コルネリアは、その文字列をなぞる指先が震えるのを感じていた。

 ――彼は、逃げ出したのだ。

 最初に、迫り来る何かから。やがて、現実から。

 その結果が、今の、妄想と現実の間を漂う船長なのだろう。元は誰のものともわからぬ豪奢な服に身を包み、己が霧の海の冒険者であったという幻想を生み出し、いつまでも、いつまでも、ありもしない冒険譚を夢見ながら幽霊船で暮らす、哀れな漂流者。

 ぱらり、ぱらりと、ページをめくる。そのうち、妄想に満ち満ちていた内容に変化が生じる。

『船の側に流れ着いていた少女を拾った』

 それは、コルネリアが幽霊船に流れ着いてからの記録であった。日付を見ても、コルネリアの記憶と一致している。

 そこからは、妄想よりも現実に関する記述が増えていく。はじめは冒険譚の合間合間にコルネリアとの生活が綴られていたが、いつしか、冒険の記憶は消えうせて、日々の何でもないようなやり取りに関する船長の感想が増えていく。

『話し相手がいるというのは、よいことだ。どれだけ彼女が私を敵視していたとしても』

『彼女は白がよく似合う。今まで全く魅力を感じられなかった色が、鮮やかに映えて見えるのは不思議だ』

『彼女が朝食を食べてくれなかった。船の上での食事は貴重なのに勿体無いことをする。とはいえ、バランスが悪いのは正直申し訳ないとは思っている。何か果物や甘いものを手に入れられればいいのだが』

 そこからは、少しだけ筆跡が乱れ始める。ただ、その理由は記述から明らかであった。

『利き手に怪我をした。飛ぶには困らないが、彼女を不安がらせてしまったのが心苦しい。しばらくは、多少不便になりそうだ』

 ――飛ぶ?

 突然現れた奇妙な言葉に、コルネリアは首を傾げる。一連の記述は女王国語で、帝国語を母語とするコルネリアにはよくわからない、単語の意味とは違う慣用的な表現なのかもしれない。

 ……本当に?

 自分自身の思考を疑ったところで、突然、日誌は途絶えた。

『彼女の名前を聞いた。コルネリア・ハイドフェルト』

 その、走り書きの一文をもって。

 コルネリアはぱたりと日誌を閉じる。本当に知りたかったことは何一つわからなかったけれど、船長が抱えているものの一端が垣間見えた気はした。

 コルネリア、と。耳元で囁く声を思い出す。その声の優しさを。囁いた船長の、どこか遠く、届かないものを見つめているような目つきを。

 その時、突然足元がぐらりと揺れて、思わずその場にしゃがみこむ。風、の気配はなかった。窓の外に広がる霧の海は凪いでいる。なのに、何故か船は小刻みに振動して、奇妙な異変をコルネリアに告げている。

 やがて、振動はぴたりと収まった。そして、今までの異変が嘘だったかのような静寂が戻ってくる。コルネリアは、恐る恐る立ち上がると、これ以上足元が揺れないことを確かめて、船長室を後にする。

 もう一度、船長を探そう。そうして、どこに行っていたのかを聞いて、今の奇妙な揺れのことを話そう。船長ならば、何かを知っているかもしれない。

 先ほどと同じルートを、少しゆっくりと巡っていく。再びあの揺れが来た時のために、掴まることのできる場所を確かめながら。

 しかし、船長の姿は相変わらず見当たらず、妙な揺れももう一度起こることはなく。コルネリアは溜息混じりに来た道を戻る。普段の船長ならば「大丈夫ですか!?」と血相を変えて走ってきてもおかしくないというのに――と考えたところで、何だかんだ船長のことを信用してしまっている自分に笑いが漏れる。

 本当は、こんなことを考えていい相手でもない、はずなのに。

 少しだけ早足になりながら、船長室への通路を戻っていた、その時。視線の先に、見慣れないものを見つけた。

 それが。

 通路にくず折れた船長であると気づいた瞬間、コルネリアはそちらに駆け寄っていた。

「船長!?」

 床に伏せた姿勢の船長は、酷く苦しげな息をついている。「船長」と呼びかけながらその腕を肩で支え、何とか上半身を持ち上げようとしたところで、船長は背中を丸めてコルネリアの肩に体重を預け、激しい咳をした。

 そして、その口から、大量の血液を吐き出した。

「え……?」

 コルネリアは、唖然とした。今、一体、自分が何を見たのか、わからなかった。

 そんなコルネリアに対し、船長は、もう一つ咳をして、喉に絡んでいたのであろう血を吐き出してから、ゆるゆると顔を上げる。

「……申し訳ありません、コルネリア」

 思ったよりも、船長の声はずっとしっかりとしていた。ただ、ずれた丸眼鏡の下から覗く目は、いつも以上に虚ろで、焦点が定まらない。なのに彼は、力なく笑ってみせながら、

「他人にうつる病ではないのでご安心ください」

 そんなことを、言い出すのだ。

 その言葉で、コルネリアも我に返り、船長の肩を強く抱く。

「何が『安心』なの! 早く、誰か……」

 言いかけて、口を噤む。

 助けを求められる人間などいない。この幽霊船にいるのは、コルネリアと船長、たった二人だけなのだから。そんなこと、わかりきっていたはずだというのに。

 船長は、血にまみれた口元を乱暴に拭って、ふらつきながらも立ち上がろうとするが、コルネリアはその肩を掴んで、無理やりに押しとどめる。

「座ってて。水、持ってくる、から」

「いえ」

 コルネリアに制されたからだろう、壁に背をつく姿勢で座りなおした船長は、そっと、血に塗れた手を差し出す。

「……手を、繋いでいていただけますか」

 コルネリアはその場に膝をつき、何も言わずに船長の手を握った。血にぬめる手は、いつもよりも更に冷たく、氷のような温度をしていた。

 船長は、そっとコルネリアの手に己の指を絡めて、呼吸を整える。

 しばしの沈黙が流れた後、ぽつりと、言葉が落とされる。

「大丈夫。まだ、温かいと、感じられる」

 ほとんど無意識に落とされたのだろうその言葉に、コルネリアはぞっとする。「まだ」、ということは、いつかは握った手を温かいとすら感じられなくなるのか。そんな残酷な運命を悟りながら、何故うっすらと笑ってすらいられるのか。

 意味もなく叫びだしたくなるような、そんな感情を何とか抑え込み、コルネリアは真っ直ぐに船長の青ざめた顔を見据える。

「あなた、病気だったのね。何の病を患っているの?」

 正確には病でもないのですが、と。掠れた声で言いながら、船長は、空いた手で己の胸の辺りを押さえてみせる。

「実は、内臓が、あちこち溶けかけていまして」

「そんな……、どうして」

「女神の怒りを買ってしまったのかもしれませんね。死者の身で、生きた人間と交わってしまった罪、とか」

 船長はくすくすと笑い声を漏らす。それが真実でないことくらいは、コルネリアにも理解できた。ぎり、と歯を鳴らして、船長の手を更に強く握り締める。祈るように。

「本当のことを喋って、お願い」

 コルネリアの言葉は、果たして、船長に届いたらしい。虚ろだった瞳に僅かに光が宿って、それから、ゆるゆると首を横に振った。

「そう大したことではありません。単なる、寿命です」

「寿命……?」

 寿命、という言葉が、コルネリアには納得できなかった。髭のせいで年齢がわかりづらくはあるが、それでも、決して船長が老いているわけではないことを、今のコルネリアは知っている。むしろ、当初の印象よりもずっと若いはずだ。

 それでも、船長は「ええ、寿命です」と頷く。

「わかってはいたんです、私はもうすぐ霧に還ることになる。そのような運命であるというのはわかっていましたし、覚悟もできています。ただ」

 その後の言葉は、船長の喉の奥から出てくることはなかった。ゆるりと頭を振ったかと思うと、コルネリアの手を離して、今度こそゆっくりと立ち上がる。もう、その足はふらついてもいなかった。

「もう大丈夫です、コルネリア。お召し物を汚してしまいましたね、新しいものをご用意します」

 ごくごく事務的に告げた船長は、その場に膝をついたままのコルネリアに笑いかける。コルネリアは、船長の冷たい体温が移った手を、ただ、握り締めることしかできなかった。

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